第三話 狂った旋律

 3-5 模様替え

 食べ終わると、フィラはまた横になるように指示された。
「あの、でもこれ、団長のベッドなんじゃ……」
 夜になったらソファでも借りられれば、と続けるつもりだったけれど、ジュリアンの不機嫌な視線に一瞥されて黙り込む。
「呼び方が戻ってる」
 てっきり遠慮しようとしたことを怒られると思ったのに、全然違う方から攻められてフィラは困惑した。
「それと、今晩ベッドから降りることは許可しない。魔力を安定させるための結界はここを中心に張ってある」
「は……はい……」
 そう言われてしまうと反論のしようもない。仕方なくまたベッドに横になると、ふっと頭を撫でられる。驚いてジュリアンを見上げると、彼はひどく穏やかな笑みを浮かべていた。
「おやすみ」
「お、おやすみなさい」
 一瞬で血が上った頬を隠すように、フィラは枕に顔を埋める。ジュリアンの足音がゆっくりと遠ざかって、部屋の扉が開き、また閉じた。これじゃ眠れないかもしれないと思ったけれど、身体の方は疲れ切っていたらしく、目を閉じるとすぐに眠気が襲ってくる。
 異変が起こったのは、深い眠りに落ちてすぐだった。悪夢なのかと、最初は思った。目の前が赤黒く染まり、皮膚の裏側で無数の蛇がのたうち回っているような痛みが全身を貫く。身体を丸めて小さく呻いていると、誰かの腕がフィラを抱き起こし、途端にふっと痛みが引いた。
「眠ると制御出来なくなるのか……」
 小さな呟きが頭の上から聞こえる。うっすらと目を開いたフィラは、ジュリアンに抱きかかえられていることに気付く。
「……すみません」
「お前のせいじゃない」
 優しい手が、静かに背中を撫でていく。何か答えようと思うけれど、力が抜けてしまって声も出なかった。荒れ狂う魔力が落ち着いていくのと同時に、フィラの意識もまた闇に呑まれていく。

 ぼんやりと目を開ける。部屋に窓はなかったけれど、天井が淡く発光して朝になったことを知らせていた。目の前にあるのは白い、団服の……
「えっ!?」
 ぎょっとして思わず身を引く。起き上がってきょろきょろと周囲を見回し、ようやく自分がどこにいるのか思い出した。
「えっと……」
 ここはジュリアンの部屋で、隣で寝ていたのももちろんジュリアンだ。朝っぱらから心臓に悪すぎる。抱き込まれるようにして寝ていたようだが、抜け出した後もジュリアンが目覚める気配はない。どうしてこんなことになっているのだろう。安心しきったその寝顔に戸惑いながら、何とか気持ちを落ち着けようと深呼吸をする。少し冷静になると、段々記憶が戻ってきた。
 たぶん、魔力が暴走しかけたのだ。それをジュリアンが止めてくれて、制御しながら寝てくれた、ということなのだろう。ものすごく申し訳ない気持ちになりながら、周囲をそっと見回した。デスクの上の時計は午前六時を指している。まだジュリアンを起こす必要はなさそうだ。そう判断したフィラは、ジュリアンを起こさないようにそうっとベッドを抜け出し、デスクの上にあった着替えと洗面道具を持って部屋を出た。出た場所は寝室よりもさらに殺風景な広い部屋で、余りの何にもなさに一瞬たじろぎながら適当な扉を開けてみるとそこが洗面所だったので、ほっとして中に入った。顔を洗って歯を磨いて、ベロアの少しアンティークっぽいデザインのワンピースと薄手だけれど暖かな素材のカーディガンに着替え、また広い部屋に戻る。部屋の奥がキッチンになっていたので、とりあえず昨夜約束したとおり、朝食の準備を始めてみた。初日からする必要はないのかもしれないが、何かしていないと落ち着かない気分だ。何がどこにあるのかさっぱりわからなかったので、あちこちひっくり返してどうにか食材と調味料を引っ張り出したところでジュリアンが起きてくる。
「あ、おはようございます」
 どこかぼんやりとした表情でこちらに歩いてきたジュリアンに、フィラはどうにか声をひっくり返さずに挨拶をした。
「ああ……おはよう」
 ジュリアンが微かに頷いて洗面所に消えていくのを見送って、朝食作りを再開する。少し硬くなっていたパンを温めながらカフェ・オ・レを淹れ、ふわふわのスクランブルエッグを作る。ジュリアンが身支度を調えて戻ってくる頃には、準備はほぼ出来ていた。しかし並べる食卓がない。
「ご飯……どこで食べましょう?」
「そうだった……」
 ジュリアンが気まずそうに視線を逸らす。
「悪い。今日中に住環境は整備する。とりあえず、寝室で食べよう」
「は、はい」
 まともに家具があるのはそこだけなので、他に選択肢もないのだろう。トレイに料理を載せて、フィラはジュリアンの後に続いた。フィラはベッドに、ジュリアンは椅子に腰掛けて朝食を食べる。なんだかものすごく不思議な気分だった。
「とりあえず、この環境をどうにかしないとな」
 殺風景な部屋を見渡して、ジュリアンがため息をつく。
「いつからここに住んでたんですか?」
 昨日までは倉庫だったと言われても不思議ではないような有様に、フィラは恐る恐る尋ねた。
「四歳で聖騎士団に引き取られてからはずっとだが」
 そんなに長く住んでてこれはどうだろう、という思考は顔に出ていたらしい。
「……まあ、ほとんど寝るだけだったからな」
 また気まずそうに視線を逸らすジュリアンに、フィラは苦笑を浮かべた。
「改装工事はできるだけ今日中に終わるよう手配する」
 そこでちょうど食事を終えたジュリアンは、微かに笑みを浮かべる。
「ありがとう。美味しかった」
「い、いえ……」
「じゃあ、俺は出勤する。また後でな」
「あ、はい。行ってらっしゃい」
 まだ食事が終わらないフィラが見送りに立ち上がろうとするのを手で制して、ジュリアンは部屋を出て行った。それをやっぱりどこか現実感が欠落したような不思議な気分で見送って、また食事を再開する。一人になると、食事はさっきよりもずいぶん味気ないものに感じられた。
 食べ終わって食器を洗って片付けてしまうと、他にやることもなくなってしまう。寝室へ戻り、ベッドに腰掛けてぼんやりと思考を巡らせた。
 これから、どうしたら良いのだろう。しばらくここでジュリアンと生活することは了承してしまったけれど、今日みたいに近くにいたらとても平静を保っていることなんか出来ない気がする。考えるだけで胸がどきどきしてきて、フィラは思わず枕に顔を埋めた。平然となんてしていられるわけがない。だって、キスまでしたのに――
 しばらくそうやって身悶えていると、ふっとティナが目の前に現れた。
「……何やってんの?」
 呆れた顔で問いかけてくるティナに、フィラは「何でもない」とひしゃげた声で答えて起き上がった。ティナはフィラの膝に飛び乗って小首を傾げる。
「まあ、いいけどさ。なんか久しぶりだよね」
「そうだね」
 柔らかい子猫の感触に微笑みながら、フィラはティナの耳の後ろを撫でた。
「もうちょっとしたら工事が入るから、ジュリアンの所で待つことになるよ」
 ティナは気持ちよさそうに目を細めながら、それでも律儀に連絡事項を口にする。
「は、早いね……」
「一日かかりそうだって言ってたからね」
「今日中に終わらせるつもりなのかな、もしかして」
「そうみたいだよ」
 ティナは姿勢を変えて大きく伸びをした。
「さて、準備できたみたいだ。行くよ」
「うん」
 フィラはティナを抱いて立ち上がり、そのしっぽが示すとおりに部屋を出る。広い部屋のまだ行ったことのない扉を開くと、短い廊下の向こうに頑丈そうな扉が見えた。
「あっちが聖騎士団の本部だよ。とりあえずそっち行って。登録されてるはずだから扉は自動で開くと思うよ」
「了解」
 なんとなく知らない場所を探検しているような気分になりながら、フィラはティナの指示通りに進んでいく。扉の向こうは長い廊下になっていた。ただ白い壁だけが続くしんと静まりかえったそこを、フィラはゆっくり通り抜ける。突き当たりの扉を開くと、その向こうも廊下になっていたけれど、両脇にはいくつかの扉が見えた。
「ここからが聖騎士団本部。ジュリアンの執務室はそこ」
 と、ティナは出てすぐ左の扉をしっぽで指し示す。
「そこに入って」
 少し躊躇いながら扉の前に立つと、白い横開きのドアは自動で開いた。
「し、失礼します」
 少し頭を下げながら入ると、奥のデスクに座っていたジュリアンと目が合う。執務室の中は、ユリンの団長執務室とほぼ同じ内装だった。違いは奥に結界管理端末がないことぐらいだ。
「ああ。内装工事が終わるまではここに待機していてくれ」
 言葉と同時に指し示されたソファに座り、立ち上がったジュリアンがこちらに歩いてくるのを落ち着かない気持ちで見つめる。
「二年間行方不明になっていた間に貯まっていた手続きがあるから、待っている間にそれを片付けたい。構わないか?」
「は、はい。もちろんです」
 ジュリアンは一つ頷くと空中に手をかざして積層表示モニターを呼び出した。
「まずはエステル・フロベールの遺産相続に関する手続きからだが」
 指し示されたモニターを覗き込んで、ごちゃごちゃと細かな説明が書かれた画面に目をこらす。わけのわからない専門用語だらけの書類を、ジュリアンは一つ一つ丁寧に説明してくれる。その説明を聞きながら書類にサインをしていく作業は、午前中一杯続いた。

 ジュリアンの執務室にフェイルが運んできてくれた昼食を食べ終わると、フィラはまたもとの部屋に戻された。さっき手続きを終えて使えるようになったばかりの携帯端末を片手に扉を開けると、部屋の中で待ち構えていたエセルとモニカが手を振ってきた。その向こうではフェイルとランティスが何か図面を片手に話し合っている。
「おかえり、フィラさん。じゃあさっそく家具の選定にかかりましょうか」
 フィラはエセルに対する返事も忘れて部屋の中を見回す。部屋の様子は、朝出たときと同じ場所とは思えないほど変わっていた。コンクリートが剥き出しだった壁には白い壁紙が張り巡らされ、床にもちゃんとワインレッドのカーペットが敷かれている。だだっ広かったリビングは壁で仕切られて、新しく小部屋が出来ていた。
「午前中で、これ、全部……?」
「そうそう、超特急で工事してもらったの」
 モニカが嬉しそうに両手を打ち合わせる。
「まともな生活空間っぽくなってきたでしょ? あとは家具を入れるだけだけど、そこは住む人に選んでもらおうと思って」
「えっと、だ、団長は……?」
 ここに住む人間と言えばまずはフィラよりもジュリアンだ。
「あいつは駄目だ。何度もっと生活感出せとか居心地を考えろとか言い続けてもあの有様だったからな」
「ええ、坊ちゃまに選ばせると野戦病院のようになってしまいかねません。我らが聖騎士団長にまともな人間生活を送っていただくためにも、ぜひフィラさんのお力をお借りしたいのです」
 口々に言いつのるランティスとフェイルに、フィラはひきつった笑みを向けた。ここまで言われるなんて、ジュリアンはいったい今までどんな生活を送ってきたのか――いや、だいたい想像はつくけれど。
「というわけで、居心地良い家にしちゃいましょ」
「は、はい……」
「それではお三方、後はお任せしてよろしいですか?」
 困惑するフィラの回りに集まってきたモニカとエセルとランティスに、向こうの方からフェイルが声をかける。
「はーい、もちろんでーす!」
「お任せください」
「ふっふっふ、事務職に転向したこの俺様にまかせておけ」
 やたら楽しそうな三人に、フェイルは「遊びではないんですよ」と釘を刺しつつ、部屋を出て行った。
「じゃあ、始めよっか。あ、そこの一角は空けておいてね。もうすぐピアノが来るから」
「えっ」
 フィラの困惑は深まるばかりだ。そんなに長くいられるとも思えないのだけれど、フィラがいなくなった後そのピアノはどうするのだろう。
 ――すごく放置しそうだけど。
「ランベール様からのプレゼントだって。あ、で、この選べるのはこのカタログからなんだけどね」
 モニカが言って、空中にカタログの表示されたモニターを浮かび上がらせる。
「まずはフィラさんの部屋の家具から揃えましょうか」
 エセルが新しく出来た小部屋の方へフィラを先導しながら言った。どうやらそこがフィラの部屋ということらしい。
「視聴覚関係は適当に選んで良いか?」
「あんまりマニアックにしないでくださいね、ランティスさん」
 眼鏡を押し上げつつ少し呆れたような表情をするエセルに、ランティスはにやりと笑って「任せろ」と請け負った。
 それから午後一杯、フィラはエセルとモニカに囲まれて家具や台所用品やそのほか細々とした生活に必要な物を選ぶことになった。
 夕方には全ての品物が運び込まれ、部屋の中はすっかり見違えるようになっていた。
「いやー、良い仕事したんじゃないの? 私たち」
 モニカが満足そうに部屋を見回す。家具はウォルナットの落ち着いた色調で統一されていた。入り口から見て左奥にはグランドピアノが置かれ、その右の壁には大きなモニターとスピーカーが設置されている。モニターがよく見える位置にソファ、そこから少し後ろの方には食卓が置かれていた。フィラの部屋にはベッドと机が運び込まれ、キッチンにも食器棚が増えている。
「よし、じゃあ今日はここで打ち上げすっか!」
「さんせーい!」
「じゃあフィラさん、一緒に食事作りましょう」
「は、はい」
 何だかすごく気楽な雰囲気に戸惑う内に、フィラはエセルとモニカにキッチンに連れて行かれてしまった。
 ジュリアンが帰ってくる頃には、食卓に本当に食べきれるのだろうかと思わず考え込んでしまう程の量の料理が並べられていた。ジュリアンは我が物顔に食卓を占拠するランティスとエセルとモニカに一瞬とても複雑そうな顔をしたけれど、結局何も言わずにフィラの向かいに座った。
「それではフィラさんの無事を祝って!」
「かんぱーい!」
 エセルのかけ声に、モニカとランティスが唱和する。この状況に困惑しているらしいジュリアンには申し訳なかったけれど、こんなに賑やかな食卓は久しぶりで、フィラはじんわりと暖かいような喜びを感じていた。