第三話 狂った旋律

 3-6 静かな生活

 ランティスたちが帰ってしまうと、一気に緊張感が押し寄せてきた。フィラはとりあえずシャワーを浴びに逃げ、それが終わると明日の朝食を準備すると言ってキッチンに逃げ、ものすごく丁寧にクロワッサンの生地を作って冷蔵庫で寝かせるところまで終えてからリビングへ戻った。ソファで積層モニターを表示させて何か作業をしていたジュリアンの隣に、一人分くらい間を空けてそっと腰掛ける。
「明日からのことなんだが」
「は、はい」
 話しかけられて思わず姿勢を正してしまった。これでは緊張しているのが丸わかりだ。
「午前中はさっき渡した携帯端末からレイ家に連絡を取って、家庭教師の指導を受けてくれ。午後はそのまま、魔力制御の訓練を。指導者が近くにいないから、無理はしないで良い」
「わかりました」
 フィラの緊張には気付かないふりをしてくれたのかもしれない。落ち着いた声で指示を受けている内に、フィラの緊張も少しずつほぐれてくる。
「昼には一度様子を見に来る」
「あ、じゃあ、お昼ご飯はこちらで食べていきますか?」
「ああ……そうだな」
「わかりました。じゃあ、二人分準備しておきますね」
 フォルシウス家でのことがなくても一人の食事は少し苦手だ。ほっとして微笑んだフィラに、ジュリアンもどこか柔らかな微笑を浮かべる。
「よろしく頼む」
「はい」
 頷きながら、じんわりと胸の内が暖かくなっていくのを感じた。さっきまでの緊張が消えて、今は穏やかで幸せな気分が全身を支配している。
「他に何か聞きたいことは?」
「いえ、大丈夫です」
 ふと視線を上げると、時計の針が十二時を指そうとしているのが見えた。
「えっと、私そろそろ寝ますね。お休みなさい」
「ああ、お休み」
 穏やかに頷いたジュリアンは、また積層モニターに向き直る。まだ仕事が残っているのかと思いながら、フィラは自分の部屋へ向かった。

 フィラの気配が扉の向こうに消える。ジュリアンは深く息を吐きながら、自分を取り巻くように浮かび上がっていた積層モニターを消した。ソファの前のローテーブルに置かれていたリモコンの電源ボタンを押すと、壁一面を覆うほど巨大なモニターに、光王庁立博物水族館大水槽のライブ映像が映し出される。さっきランティスが得意げに設定していったままなのだが、特に切り替える気にもなれず、そのまま魚の群れや水の反映をぼんやりと眺めた。フィラが眠りに落ちてしばらくは、魔力がまた暴走しないかどうか様子を見る必要がある。今日一日ティナが調整してくれていておかげもあってだいぶ落ち着いていたが、油断はできない。
 ゆったりと回遊するジンベエザメやマンタを眺めながら、ソファの背もたれに身体を預けた。
 このまま何事もないと良い。正直な所、二日連続で寝不足はきつい。それに今日駄目だったら、明日以降もしばらくは駄目だろう。つまり添い寝を続行することになるのだが、それはフィラにとっても負担なのではないかと思う。
 しかし祈りもむなしく、隣の部屋で魔力が歪んで渦巻くのを感じた。思ったよりも制御出来ていないのか、あるいはフィラが精神的に不安定になっているのかもしれない。昼間は落ち着いて見えたが、立て続けに環境が激変している状況は、本人が思っている以上に負担が大きいのだろう。
 そんなことを考えながら早足で隣の部屋へ向かい、ベッドに歩み寄る。フィラは身体を丸め、痛みを堪えるように眉根を寄せていた。額に手を当てて魔力を落ち着かせると、フィラはうっすらと瞳を開く。
「……すみません」
 かすれた声に微かに目を細めた。
「お前のせいじゃない」
 昨夜と同じ台詞を繰り返す。そのままフィラを抱き起こして、背中に腕を回した。力なく身体を預けてくる少女に、何かが身体の奥でじわりと熱を持つような感覚を覚えながら、それを無視してただ宥めるように彼女の背中を撫でる。徐々に彼女の身体から力が抜けていくのを確認してから、そっと抱き上げた。力の抜けた身体の柔らかさが、薄い夜着越しに伝わってくる。湧き上がってくる衝動を抑え込みながら立ち上がり、自分の部屋のベッドへフィラを運んだ。横たえた後、ベッドに片手をついて少しだけ苦しげな寝顔をじっと見下ろす。
 ――この状況は、彼女にとっては不本意なものなのだろうか。
 埒もなくそんなことを考える。そうであろうとなかろうと、必要なことならばしなければならないのに。
 考えている内に、無意識に手を伸ばしてその頬に触れていた。柔らかな感触に、また胸がざわめく。苦い罪悪感を含んだそれを振り払うようにため息をつき、フィラの隣に潜り込んで抱き寄せた。まるで閉じ込めようとしているみたいだと思いながら目を閉じる。とても眠れそうになかったが、フィラの静かな呼吸を聞く内に、いつの間にかジュリアンの意識も闇に落ちていった。

 ぼんやりと瞳を開ける。焼きたてのパンとコーヒーの香ばしい匂いが漂っていて、それで目が覚めたのかと気付く。珍しく、寝起きなのに頭がはっきりとしていた。匂いに引かれるように部屋を出ると、キッチンから顔を出したフィラが「おはようございます」とにこやかに声をかけてくる。
「……ああ。おはよう」
 寝起きのかすれた声で低く答えると、フィラは小さく微笑んだ。
「今起こしに行こうと思ってたんです。もうすぐ朝ご飯出来ますから、顔を洗ってきてください」
「ああ」
 余りにも穏やかで暖かな朝の風景に、夢を見ているような心地になりながら、洗面所に移動して顔を洗う。冷たい水の感触でようやく現実感を取り戻してリビングに戻ると、もうテーブルには朝食が並べられていた。フィラと向かい合って座り、短い祈りを捧げてから暖かい朝食を口にする。
 食べ始めてしばらくどこかそわそわとしていたフィラが、やがて「あの」と遠慮がちに口を開いた。視線だけで先を促すと、フィラは困ったように眉尻を下げる。
「昨夜はまた、ご迷惑をおかけしてしまったみたいで……」
「いや……お前のせいじゃない」
 三回目、と無意味に脳内でカウントしながら答えた。
「気にするな」
 そうは言っても気にするのだろうな、とぼんやり思う。ちらりとフィラを見ると、思った通り彼女は申し訳なさそうに俯いていた。
「このパン、美味いな」
 いつまでも恐縮されているのも居心地が悪くて、無理矢理話題の転換を図る。
「あ、ありがとうございます。本物のバターを使えたからですかね」
 俯いたまま、それでも照れくさそうにはにかむフィラに視線を吸い寄せられる。どうかしている、と思いながら、無理矢理意識を別の方に向けた。
「バターに偽物があるのか?」
「偽物というか、合成品があるんです。それだと何だか必要以上にべたべたしちゃって」
 フィラの優しい声に耳を傾けつつ、コーヒーを飲む。こんな風に穏やかな朝を過ごすのは、生まれて初めてのような気がする。暖かなコーヒーを味わって飲み干し、それからちらりと時計を確認した。
「そろそろ出る時間だな。……また後で」
 立ち上がりながら言うと、フィラは慌てて顔を上げる。
「あ、はい。あの、行ってらっしゃい」
 あたふたとパンを置いて言うフィラを、何とも言えない気分で見つめ返した。
「ああ……行ってくる」
 その答えに僅かに首を傾げて微笑むフィラは、少しだけ寂しそうに見えた。ジュリアンは少しだけ目を細める。結局ここは牢獄なのだ。家具を揃えて居心地良く取り繕ったところで、その事実は変わらない。少しだけ冷えた心を抱えたまま、ジュリアンはフィラに背を向けた。

 昼食後、天魔襲撃の報が入ったことによる緊急の作戦会議があったため、ジュリアンが再び部屋に戻ったのは午後十時を過ぎた頃だった。ソファに座って勉強していたフィラがドアの開く微かな音にはっと顔を上げる。
「あ……お帰りなさい」
 その眼差しに何かほっとしたような気配を感じて、ジュリアンは動揺した。
「……ああ」
 すぐにシャワーを浴びようかと思っていたのだが、思い直してその隣に腰掛ける。
「何かあったのか?」
「え? いえ、特に、何も……?」
 不思議そうに目を瞬かせるフィラの肩に手を置いて魔力を探るが、特に問題はないようだった。
「……シャワーを浴びてくる」
「あ、はい」
 こちらを見上げながら小首を傾げるフィラに頷いて、シャワールームへ向かう。途中で一度振り向くと、フィラはぼんやりと床に視線を落として、何か考え込んでいるようだった。何を考えているのだろう。それが妙に気になる。
 手早くシャワーを浴びて戻ってきた後も、フィラはソファに座ってぼうっとしていた。
「フィラ」
 どこか頼りないその背中に声をかける。すぐに振り向くその表情にも、どこか力がない。
「そろそろ寝るが」
 何か尋ねても何もないとしか答えないだろうと予想はついたので、ただそれだけを告げた。
「あ、はい。じゃあ、私もそろそろ……」
「今日は最初からこちらで寝てくれ」
 フィラは立ち上がりかけた姿勢のまま、ぴたりと固まる。明らかに困惑しているのがわかる。
「昨夜の様子からすると、寝ている間魔力を制御するのは無理みたいだからな」
「……はい」
 ぎこちなく頷くフィラの頬は赤い。先に立って寝室に入ったジュリアンは、所在なさげにベッドの前で立ち止まってしまったフィラに手を伸ばす。おずおずと重ねられた手を引いてベッドに上がらせ、明かりを消して横たわった。フィラはしばらく逡巡していたが、やがて観念したようにジュリアンの横に潜り込んでくる。その肩を引き寄せると、フィラは微かに身体を強張らせた。宥めるように背中を撫でると、徐々にそのこわばりが解けていく。
「お休み」
「お、お休みなさい」
 答えた声には、まだ緊張が滲んでいた。余計なことは考えるまい。そう決心して、ジュリアンは瞳を閉じる。

 奇妙な同居生活はそんな風にして始まり、そして同じような日々がしばらく続いた。フィラが側にいる生活に、ジュリアンはあっという間に慣れてしまった。