第四話 この空はまだ落ちない

 4-1 薄氷の上

「噂になってる」
 ランティスに真顔で突然そう言われて、ジュリアンは微かに眉根を寄せた。団長執務室の中には、今は二人しかいない。
「何がだ?」
「すっげー愛妻家だって」
 どう反応したものか一瞬迷った末に、ジュリアンは深くため息をつく。
「それは……そうだろうな」
 鈍い頭痛を覚えてこめかみをほぐしながら、うんざりとした調子でそう答えた。
「……自覚あるのかよ」
「状況に鑑みて、そういう噂が立つことは予想の範囲内だ」
 呆れた表情のランティスに頷きながら、椅子の背もたれに体重を預ける。
 そもそも自分は、本当に彼女を愛しているのだろう。失うことが怖いのも、いつか手放さなければと思うたびに心が軋むのも、触れたくなるのも、その心の内を知りたいと思うのも――きっと、そういうことだ。
「何か問題があるのか?」
 ちらりと視線を向けると、ランティスは複雑そうな表情で頭をかいた。
「いや、ねえけど」
「なら良いだろう」
 嘘だ。問題ならあった。
 もっと触れたいという思いを、押しとどめるのが段々難しくなってきている。信頼されているのだろうとは思う。いろいろとヘマはしてきたが、それでも彼女に信頼してもらえていることは感謝して良いことだ。その信頼を裏切ることは出来ないし、何よりジュリアンは彼女に手を出してもその責任を負うことはできない。ならば触れる資格などないことはわかりきっている。わかっているのだが、それでもその一つ一つに仕草に、こちらを見上げる眼差しに、やわらかな微笑みに、触れても良いのだと許されているような気分になれば、いつまで自分を抑えておけるのか自信が持てなかった。出来るだけ離れていた方が良いとわかっているのに、気がつけば側にいようとしている。彼女の側は居心地が良すぎる。
 いつまでこのままでいられるのか――それもわかっている。フィラがリラの魔力を制御出来るようになるまでだ。そのときが来るのを、恐れている自分にも気付いていた。
 酷い話だ。フィラの気持ちが自分に向かっているだろうことは、何となくわかっている。そしてジュリアンがその想いに応えられないことを、フィラはきっと理解している。応えられないくせに求めてしまったことも、縋ってしまったこともわかっていて、応えない自分を許してくれている。
 甘やかされているのだと思う。それでもどうしたら良いかわからなかった。慣れない感情はジュリアンの手には負えない。ただ未来なんて欲しくないと、子どものように叶うはずもないことを願っているだけだ。
 ――未来なんて欲しくない。今がずっと続けば良い。
 不毛な願いが嵐のように焦燥の炎を燃え上がらせるのを、ジュリアンは黙って耐え抜くことしか出来なかった。
「ところでよ」
 ランティスの声に顔を上げる。
「今日バレンタインだろ? どっか連れてってやったらどうだ?」
「……バレンタイン?」
 馴染みのない単語が、一瞬理解できなかった。
「まあほら、実際、夫婦仲が良いところはアピールしといた方が良いわけだしよ」
 戸惑いを拒絶と受け取ったのか、ランティスはたしなめるように肩をすくめる。
「……そうだな」
 微かに視線を落としながら頷いた。理由はどうあれ、フィラをどこかに連れて行く必要は感じている。もう二週間もフィラはあの部屋から出ていない。明るく振る舞ってはいるが、最近ふとした瞬間にその目元に憂鬱の影が過ぎることに、ジュリアンは気付いていた。出かけるといっても連れて行ける場所は限られているが、少しでも気晴らしになれば良い。

 夜は二人で出かける、とフィラから聞いたセレスティーヌの反応は、「まあ、やっとデートなのね」という半ば予想していた通りのものだった。自分の部屋でモニター越しに話すのにも、最近やっと慣れてきた。ユリンにいた頃には考えられなかったような環境だけれど、何とか適応できているのはジュリアンが色々と気を遣ってくれているからだ。面倒をかけている自覚はあるけれど、今のところ美味しい食事を作る以外に出来る恩返しもない。
「せっかくだからお洒落して行ったら?」
 にこにこと提案してくるセレスティーヌは、明らかに楽しんでいる様子だ。一体ジュリアンとどういう関係だと思われているのか、フィラは若干不安を感じてしまう。
 正直なところ、ジュリアンとの関係はものすごく微妙で形容しがたいものだとしか言いようがなかった。キスをしてしまったことも、毎晩一緒に眠っていることも、何もなかったように振る舞いながら、本当はどうしたら良いのかいつでも迷っている。毎日を薄氷を踏むような気分で過ごしていた。この穏やかな日々の終わりは、いったいいつ訪れるのだろう。
 ――離れたくない。
 その気持ちは、もう誤魔化しようがない所まで来ていた。でも、それは望んでも良いことなのだろうか。ジュリアンが常にいつか来る別れを想定して動いていることは何となくわかる。離れたくないなんて言ったら、きっとものすごく困らせてしまうのだろう。だからフィラは何も言えない。言えないまま、ただ焦燥だけを抱えたまま穏やかな日々を過ごしている。
「とにかく、久しぶりにそこから出るんでしょう? きっと良い気分転換になるわ」
 うっかり自分の思考に沈み込んでしまっていたフィラは、その言葉にはっと顔を上げた。
「今日は寒いから、暖かくしていくのよ」
 優しく微笑むセレスティーヌは、フィラが悩んでいることを知っているのかもしれない。
「そうですね。コートを着ていくことにします」
 これ以上心配をかけたくなくて、フィラは微笑んでそう言った。
「それが良いわ。じゃあ、お土産話、楽しみにしてるわね」
「はい。それじゃあ、また」
 魔力制御訓練の時間が終わろうとしているのをちらりと画面上部の時計で確認して、フィラはセレスティーヌと挨拶を交わし、携帯端末の接続を切る。途端に今部屋の中に一人なのだという実感が襲いかかってきた。一人の時間はもともと嫌いな方ではなかったはずだ。幼い頃から師匠のエステルは留守がちだったし、ティナも彼女についていくことの方が多かった。一人きりでピアノを弾いて、想像の中の友だちに聞かせて。フィラは一人遊びの得意な子どもだった。
 リタと出会ったのは、ようやく空想と現実の区別がつこうとしていた頃のことだ。フィラ以外の人間がいるときには絶対に姿を見せない、触ることもできない、夢の中の住人のように綺麗なリタは、まるで空想上の友だちが夢の世界から抜け出してきたようで、彼女が本当に存在している人間なのかどうか、最初の頃フィラはよくわからなかった。リタがこの世界に実在する、自分と同じ――泣いたり笑ったり怒ったりする普通の女の子だと気付いたきっかけがあったはずなのだが、それが思い出せない。もう記憶はほぼ全て取り戻しているのに、リタと話していた何か大切なことが、そこだけが抜け落ちている。それはきっと、ジュリアンにも関係のあることなのに。
 どうしたら思い出せるのだろう。
 最近ずっと考えている疑問にまた行き着いてしまって、フィラは小さくため息をついた。とりあえず考えるのは後回しにして、出かける準備を始めることにする。
 行き先は以前一緒に行ったレストランだと告げられていた。格式のありそうなレストランだったから、確かにお洒落はして行った方が良いのだろう。まあ、ジュリアンが隣にいてはどんな格好をしていても無駄という気もしないではないが。
 自室に作り付けられたクローゼットを開き、レイ家にいた頃にセレスティーヌが揃えてくれた服を見る。正直なところ、ちょっと気が引けてしまうくらい高級そうなものばかりだけれど、嬉しそうに選んでくれたセレスティーヌのことを思うとちゃんと着てあげないと、と思う。それに気が引けるとは言っても、やっぱりかわいくて手触りの良い服を着られると思うと嬉しいものだ。放っておくとどこまでも沈んでいきそうな思考を脇に追いやって、フィラは機嫌良く服を選び始めた。フィラが自分で選んだら絶対選択肢に入れないような、可愛らしいフリルやレースやリボンのついた、けれど可愛いだけではなくてどこか品の良い洋服の数々。裾に花の刺繍があるワインレッドのスカートと手触りの良いブラウスに綺麗なビジューのついたカーディガンを羽織り、ブーツに履き替えてカシミアの白いコートを着る。白いコートはフードについたファーの触り心地が良くてお気に入りなのだが、まったく外に出かける機会がないので今まで着られなかったものだ。全身をチェックしてよし、と気合いを入れてリビングへ出たところで、ちょうどタイミング良くジュリアンが部屋に戻ってきた。
「出かける準備……は、出来てるな」
 フィラの方へ視線を向けたジュリアンは、どこか眩しそうな表情で目を細めてそう言う。
「はい、大丈夫です」
「じゃあ、行くか」
 一息つくこともなく部屋を出て行くジュリアンの後を、フィラは慌てて追いかけた。部屋を出るのは二週間ぶりくらいで、少し緊張する。
「たぶん大丈夫だとは思うが、もしも具合が悪くなったらすぐに知らせてくれ」
 先を歩くジュリアンが肩越しに振り返って言った。そう言われると、余計緊張してしまう。部屋から出る扉を、フィラは恐る恐るくぐった。何か変化があるのではとどきどきしていたのだが、覚悟していたような目眩や痛みは襲ってこない。
「大丈夫そうだな」
 少しほっとした表情のジュリアンに申し訳ない気持ちになりながら、フィラは長い廊下を歩き、明かりの消えた聖騎士団本部へ入る。ここで働いているはずのモニカやエセルはもう帰っているようだった。人気がないのにやたら広くて清潔なこの場所は、寒気がするほどよそよそしく感じられる。こんなところに一人で暮らすなんて、フィラにはとても出来そうにない。小さく身震いしてから、フィラはジュリアンの背中を追いかけた。

 レストランには優雅な音楽が流れている。しばらく一緒に生活していて見慣れたつもりだったけれど、やっぱりジュリアンの食事の作法はうっかりすると見とれてしまうくらい優雅だ。
「この後も少し時間が取れる」
 洗練されたとしか喩えようがない仕草でメインディッシュを切り分けながら、ジュリアンが何の脈絡もなく話し始めた。
「どこか行きたい場所があれば連れて行く」
「行きたい場所……」
 思いつく場所はある。けれどそれを口に出すのを、フィラはためらった。行きたい。でも、まだ覚悟が出来ていない。しかしのんびりしていて良いのかという焦燥感もなぜかある。いつまでもこの状況が続くはずがないということはわかっているのだから。
「ここでは大した息抜きにはならなかっただろう。あまり人目のある場所には行けないが」
「……あの」
 意を決して顔を上げる。よほど切羽詰まった表情になってしまっていたのだろう。ジュリアンが不審そうに眉根を寄せた。
「行きたい場所、あります」
 視線だけで先を促されて、少し緊張しながら、フィラは答える。
「私と先生が以前住んでいた場所、なんですけど」
「……わかった」
 ジュリアンの表情が少しだけ沈んだ。
「先に言っておくが、だいぶ荒れてしまっている。それは覚悟しておいてくれ」
 躊躇った理由を見透かされているみたいだ。
「は、はい」
 頷きながら、フィラはそっと視線を落とした。