第六話 終わりの始まり

 6-6 恋に落ちたのは

「辞表を受け取るつもりはない」
 聖騎士団本部団長執務室で、机を挟んでジュリアンとダストは睨み合っていた。
「では、どうしろと?」
 端から見れば剣呑としか見えないだろう視線を向けながら、ダストは自分がどこかでこの状況を面白がっているのを感じていた。以前なら考えられなかったことだが、たぶんジュリアンも同じなのだろう。こちらを見上げる彼の瞳の中にも、どこか楽しそうな気配が見える。
「任せたい仕事がある」
「へえ。今さら?」
「先月末、国境付近にあるWRUの研究塔が一つ放棄されたことが確認されている」
 予め決められていたシナリオを読み上げるように淡々とジュリアンは告げた。
「そのようね」
 それを知ったからこそ、自分はここにこうしているのだ。ダストはわざと皮肉げな笑みを浮かべてみせる。
「四年前、当時の聖騎士ルーチェ・グラストと当該研究塔の調査を行った件は覚えているか?」
「もちろんよ」
 それも忘れるわけがない。お互いそうとわかっていることを前提に、ジュリアンも訊いている。
「その時提出された報告書に、研究塔で行われている実験についても書いていたな」
「ええ」
 茶番じみたやりとりだ。この会話を通してジュリアンが何をしようとしているのか、もうダストにもわかっていた。それでも話し続けるのは――別れの儀式のようなものだ。
「その中に聖騎士の誓いに抵触すると思われるものがあった。力のある神を捕らえ、その力で新たな世界を『創造』し、その世界の環境やそこに住む人々を操作して様々な実験を行う。これは『悪しき魔力を用いる』行為に他ならない」
 そして、ジュリアンからの手向けのようなもの。
「だが、それを止めるだけでは既に生み出されてしまった世界の存在を維持することはできない」
「そうね。研究塔が放棄されたことで、むしろその存続は危ぶまれる」
 期待されているとおりの回答を返しながら、ダストは小さく微笑んだ。
「すべて民に害なすもの、世に毒となるものを絶つのが我々聖騎士の役目だ。悪しき魔力が用いられていることを知りながら、それを正さずにいることは許されない」
 無表情のまま、ジュリアンはダストにとっては建前でしかない聖騎士団誓詞を引用して、いかにも『聖騎士団団長』らしい台詞を紡ぐ。本気で誓ったことなどない。それでもその誓詞は長い間、ダストにとっての指針であり呪いでもあった。
「我は心より民を助け、我が手に託されたる人々の幸《さいわい》のため、楯となり剣となりてこの身を捧げなければならないってわけね」
 笑みを含んだ調子で誓詞の続きを引き取ると、ジュリアンは真面目な表情を保ったまま、それでもやはり瞳の奥に面白がっているような光を浮かべながら、ダストが腰に佩いている剣に視線をやった。
「そうだ。その役割を果たすつもりがあるなら、それは持っていけ。団服も置いていく必要はない」
「助かるわ。つまり研究塔の活動を停止させ、かつ、既に生み出されてしまった世界が魔力の供給を絶たれても単独で存続可能な手段を探れ。要約すると今回の任務はそういうことでいいのよね」
「そうだ」
 これは最後の任務だ。成功しても失敗しても、ダストが『こちら側の世界』へ戻ってくることはない。
「……了解。あなたも大概お人好しね」
 回答しかねているジュリアンに、ダストは肩をすくめて苦笑した。それからぴしりと姿勢を正し、典礼に定められた通りの挙手礼をしてみせる。
「では、既に廃棄されている研究塔での『非人道的な実験』を止めるため、明日より活動を開始します」
「よろしく頼む」
 対するジュリアンの回答も、聖騎士団団長としての重々しいものだった。けれどすぐにその視線は、人間らしい感情を宿す。
「ダスト」
 敬礼したまま向けた自分の視線も、きっとこみ上げる感傷を隠しきれてはいないのだろう。常ならばそんな感傷を自分に許したりはしないのに、何故か今は良いかと思えた。
「死ぬなよ」
「あなたが言うなって言いたいところだけど」
 敬礼していた手を下ろし、剣の柄に手をかける。馴染んだ剣の感触。厭わしかったはずのそれが、少しだけ心強いものに変化したような気分だった。
「あなたもねって、言っておくわ」
 以前ならば無言で拒絶されただろう言葉を、ジュリアンは静かに受け入れている。
 ――これはきっと、あのフィラ・ラピズラリという少女がもたらしたものだ。
 断片的なその印象を、ふいに思い出す。
 初めて出会ったときは自分の立場を何もわかっていないその幼さに苛立ちしか覚えなかったのに、彼女はほとんど脅しのようなダストの言葉の中から真実を拾い上げた。脅しを受け入れてバルトロのノートをジュリアンに渡しに行ったはずが、何故かジュリアンに対する謎の勝利宣言になったとリサに聞いた時はわけがわからなかったけれど、後で水の神器輸送任務に失敗して治療を拒否していたジュリアンを呼び戻したのが彼女だと聞いて認識を改めた。フィラ・ラピズラリという少女は、きっと勇敢な人間なのだと。
 魔女に追われてきた彼女に余計なことを話したくなったのは、それを聞いていたから。そして彼女が恐れなかったからだ。普通の人間ならとても生きてはいられないような部位が竜素に浸食されているダストのことを。
 彼女は恐れなかった。ダストが竜の姿を見せた後でさえも。
 ジュリアンが彼女と結婚すると聞いた時、政略だとわかっていたのに、なぜかそれだけではない気がしたのは、カルマの襲撃に備えて眠りに就く前に聞いたジュリアンの台詞のせいだったかもしれないし、その時ジュリアンから漂った微かなカモミールの香りのせいだったかもしれない。
 それを確信に変えたのはフォルシウス家にフィラを奪われた後の感情を隠しきれていないジュリアンの姿であり、リラの力が暴走したときの魔力の動き全てだった。証明なんてそれだけで充分だった。本当はフィラに聞かなくてもわかっていた。それが恋とか愛とかいう名前の、ダストにはよくわからない感情の動きによるものなのだと。
「私も……努力はするわ。どうなるかわからないけど」
 ずっと終わりにしたいと思っていたけれど、生きていくのも悪くないかもしれないと、今は少し思っている。それはたぶん、自分と同じだと思っていた目の前の男の生き方が変わったせいだ。素直に羨ましいと思えた。それが今の、ダストが生きていたい理由だ。
「守る価値がないと思ったら、向こうの世界を見捨てて帰ってくるかもしれないし」
 本当に守るために命をかけるかどうかは行ってから決める、という前言を撤回するつもりはない。それでも生きていたいと思い始める前より見捨てない公算が強まっている気がするのが、自分でもおかしかった。
「そうか。では研究塔制圧後それを見極めるまでは……休暇だな」
 聖騎士にあるまじき台詞を咎めるでもなく、ジュリアンは妙にのんきな言葉を口にする。
「見捨てることになっても剣と団服は返しに来られないわよ」
 軽口を返しながら、こんな風に許される日が来るなんて思っていなかったのにと不思議な気持ちになった。
「不可抗力なら仕方ないだろう。どうせ返されても廃棄処分になるだけだしな」
「ありがとう。至れり尽くせりね」
 今回だけでなく、今までのことも全て。
「じゃあ行ってくるわ。研究塔の制圧は一人でも平気だと思う」
 どこか名残惜しい気分になりながら、ジュリアンに背中を向けた。
「武運を」
 ジュリアンの静かな声が追いかけてくる。
「あなたの祈りは効果がありそうね」
 肩越しに微笑みかけると、ジュリアンはそれはどうだろうと言いたげな微苦笑を浮かべていた。その穏やかさに、ダストも何だか笑い出したい気分になる。
「さよなら」
 ジュリアンには届かないだろう小さな声で呟いて、ダストは部屋を出た。
 歩き慣れた聖騎士団本部の廊下を振り返ることなく歩く。もう感傷は消え去っていて、頭の中では既に研究塔への旅路と制圧の計画を組み立て始めていた。

 こういうとき、以前ならどうしていただろう。
 夕食の間中ずっと何か聞きたそうな表情をしていたフィラが、ジュリアンの座っていたソファの隣に腰掛けたのはつい先ほどのことだ。どう話したものか迷いながら、フィラが何か言う前に後ろから抱きしめた。たぶん、話し始めたら何もかも話してしまうのだろうが、その前に少しだけ時間がほしかった。それを察してくれたのか、フィラは黙って体を預けてくれている。その無言の優しさと信頼に、今日も自分は救われている。
 ――フィラと出会う前はどうしていただろうか。
 さっきから考えているのはそんな埒もないことだ。
 聖騎士団が壊滅したとき。リタがもう目覚めないとわかったとき。部下を目の前で失ったとき。それにも関わらず大いなる成果を上げたと褒め称えられなければならなかったとき。弔問に訪れた遺族の家でお前に人としての情はないのかとなじられたとき。
 いつも思い浮かべていたのは、あのとき見た青空と真昼の月だった。それさえ取り戻せば全て終わりに出来る。その時まで生き延びられれば、誰に恨まれ、責められようともかまわないと思っていた。聖騎士団の壊滅からサーズウィア反対派が光王庁で多数を占めるまでは、それだけが支えだったと言っても良い。
 そしてサーズウィアを呼ぶという望みをほとんど絶たれた状態でユリンへ飛ばされた時には、それすら思い出すことが苦痛になっていた。毎日窓を開ければ偽物の青空が自分を責め立てているようだった。なぜお前はここにいるのかと。このまま諦めてしまうのかと。他に青空を取り戻せる者などいないのに、だからこそ皆お前を守って死んでいったのに、その願いを叶える道の入り口にすら立てないならば。
 ――ならばなぜ、生きているのか、と。
 そんな中でフィラとの会話を居心地良く感じてしまったのは、彼女が自分に何の価値も認めていなかったからだ。サーズウィアを呼べることも、聖騎士団団長としての立場も、領主であるということでさえ、彼女の中では何の意味も持たなかった。冗談交じりにからかっても、投げやりな気分のままに接しても、失望されることも正されることもない。素直に怒りや困惑の感情を返しながら、フィラが最終的には全てを受け入れてしまうということに、最初は気づいていなかった。
 それに気付いたのは――恋に落ちたのは、きっと水の神器護衛任務に出る直前だった。八つ当たりした直後なのに、フィラは不思議なほど必死で自分を引き留めようとしていた。今ならばわかる。水の神器を奪われることになった任務の前後、自覚はなかったけれど、自分はたぶん今までで一番死に近いところにいた。フィラはどこかでそれを感じとっていたから、あんなに必死だったのだろう。
 彼女が見ていたのは、人の記憶を消すような非人道的な魔術を使う、ラドクリフの後に来たにもかかわらず領主とも認められないようなうさんくさい人間で、口も素行も悪い上に大事なことは一つも教えようとしない嘘つきだ。サーズウィアを呼べる人類の希望でも、荒神と天魔を数多く屠ってきた英雄でもない。それなのに、フィラは願った。ジュリアンが、戻ってくることを。
 そして任務が終わった後、本当の意味でジュリアンを此岸に引き戻したのもフィラだった。礼拝堂でフィラが血塗れの手を取ったとき、そしてそれを握り返して抱きしめたときに、ジュリアンが求めるものは変わってしまった。一度だけ見た本物の青空を取り戻すことではなく、偽物の平穏の中で幸せな生活を紡ぐ少女の日常を本物に変えてしまうことに。
 そうだ。生き延びる理由はいつの間にか、手が届かない真昼の月から今ジュリアンの腕の中に収まっている少女に変わっていた。
「ダストがここを去った」
 静かに、けれど唐突にそう告げると、フィラの肩が微かに跳ねる。
「それは……もう、戻ってこないってことですか?」
 不安が滲んだ声を宥めるように髪を梳くと、フィラは身動ぎしてこちらを見上げた。
「ああ。俺がサーズウィアを呼んだ後は、戻ってくる道が絶たれる」
「ダストさんは……どこへ?」
 当然の疑問だけれど、それに簡潔に答えるのは難しい。
「四年前にルーチェが……ダストの一番大切な存在が守った場所だ。魔術で維持されている場所だから、サーズウィアが来れば消滅することになる。そうなる前にその場所の魔術的な構造を変えることが、四年前からダストの使命だった」
 フィラは少し考え込んでいたが、やがてどこか納得したような表情で顔を上げた。
「……命がけの仕事、なんですか?」
「俺がサーズウィアを呼びに行くのと似たようなものだな」
 ああ、だからリサさんが、とフィラは小さく呟きながら姿勢を変えて、ジュリアンの背中に腕を回す。
「そう……きっと、大丈夫ですよね」
「ああ、きっと。信じることしか出来ないが」
 どちらに転んだとしても、ダストが戻ってくることはない。その無事を確かめる手段もない。それでも最後にダストが見せた表情が死にに行く者のそれではなかったから、信じたいと強く思った。
 フィラもきっと同じように願ってくれている。寄り添いながら祈りを共有してくれる存在がいることを、信じてもいない神に感謝したくなった。
 そうやってしばらく穏やかな沈黙と幸福をかみしめてから、ジュリアンはまた口を開く。
「明日のことだが、夕食は外で食べてくる」
「お仕事ですか?」
「いや」
 我ながら珍しいと思いながら首を横に振った。
「ランティスとアランとカイと食事だ。珍しく全員がスケジュールを合わせられたから、少し話してくる」
「アランさんは……博物水族館で案内してくれた方ですよね?」
 少し身体を離して、フィラはジュリアンと向き合った。
「ああ」
「じゃあ、あの、行く前に少しここに寄ってもらっても良いですか?」
「構わないが……」
 何のために、と尋ねる前に、フィラは嬉しそうに微笑んだ。
「お礼を渡したいと思ってたんです。アランさん、甘いもの大丈夫ですかね?」
 それでフィラが何を頼もうとしているのか了解したジュリアンは、つられるように微笑する。
「そういうことか。ああ、大丈夫だ。むしろ好物だったと思う」
 何だかイメージ通りですね、と、フィラは小さく笑った。