第一話 帰郷

 1-1 再会

 踊る小豚亭の裏手には小さな庭がある。建物と塀に囲まれた小さな庭には、料理に使うためのハーブと色とりどりの花々が植えられている。鮮やかな色彩にあふれた庭は、狭いけれどエディスとエルマーが手をかけて整えてきたおかげでとても綺麗だ。スイセンとヒヤシンスの咲き乱れる小さな石畳の小道や、蔓薔薇を絡ませたアーチ、寄せ植えの鉢がエルマーのこだわりに従って配置してあって、どこから見ても絵になる風景だった。
 ユリンへ戻ってきて三日目の午後、フィラはその裏庭で水やりをしていた。わざとじょうろを高く掲げて、撒き散らす水で虹を作る。露を浴びた花や葉の色鮮やかさも、水にきらめく陽光も、三年前にここに来たときは何もかもが珍しくて感動的だった。それは記憶がないせいだと思っていたのだけれど、そうではなかった。記録映像や絵画や、そんなものの中でしか見たことがなかった陽の光に照らされた世界を、本当にフィラはユリンへ来てから生まれて初めて目にしたのだ。
 ここにある植物や水は本物だけれど、それを照らす陽光は偽物。わかっているけれど、それでも世界はこんなにも美しい。
 虹が草花を濡らす。水と光を受けて花も新緑も鮮やかに輝く。美しい春の午後に心は浮き立つのに、足りない。
「……ジュリアン」
 じょうろの水が勢いを失って、きらめく虹が消える頃、ふと口をついて出た名前は自分でも嫌になるくらい情けなく震えていた。力なくじょうろを持った手を下ろし、もう片方の手で胸元を押さえる。
(はやく……)
 気持ちが、焦る。ただ待つのはつらい。せめてティナが側にいて、その無事を教えてくれれば安心できるのに――
 裏木戸が軋む音がしたのは、そのときだった。振り向いたフィラは目を見開く。その視線の先で、細く開いた裏木戸から滑り込んだ黒いコートのその人は、そっと後ろ手に扉を閉めた。
 目が合った瞬間に、頭が真っ白になる。名前を呼んだことも持っていたじょうろを放り出してしまったことにも気付かずに、フィラは小さな庭の小道を、咲き乱れる花の間を駆け抜けた。真っ直ぐ迷わずに胸に飛び込んできたフィラを、その人は――ジュリアンはしっかりと受け止める。
「……ただいま」
 何と言えば良いのか迷ったような逡巡の後で、耳元で低い声が囁いた。
「おかえりなさい」
 背中に腕を回しながら、ずっと張り詰めていたものがほどけていくのを感じる。代わりに湧き上がってくるのは、喜びと安らぎと幸せな気持ち。互いのぬくもりと感触を確かめるように、どちらもしばらく動かなかった。
「あの、怪我は……?」
 無事な様子にほっとしながらもふいに不安になって尋ねると、微かに笑む気配が首筋を撫でる。
「ない。大丈夫だ」
 簡潔な答えに膝が崩れそうになって、コートの背をぎゅっと掴んだ。
「無事で……良かったです」
「ああ……お前も」
 囁きと共にフィラを抱きしめるジュリアンの腕から少し力が抜ける。その後に待つものを、もうフィラは知っている。そっと身体を離して顔を見上げようとしたところで、背後から大きな咳払いが聞こえた。思わずびくっと身を竦ませたフィラと対照的に、ジュリアンはゆっくりと身体を起こし、フィラが体勢を立て直すまでその肩を支えてから、一歩前へ踏み出す。
「失礼いたしました」
 礼儀正しく騎士の礼を取るジュリアンを苦虫を噛み潰したような表情で見つめているのは、いつの間にか裏口から出てきていたエルマーだった。
「……ふん。あの小僧がよくぞここまで大きくなったものだ」
 エルマーは迷った末に、酔っ払いすぎた客を追い出すときのような低い唸り声で呟く。
「え、エルマーさん……?」
 怒っている、とは聞いていたけれど、この三日間のエルマーはいつも通り無口でいつも通り優しかったので、いきなりジュリアンに対して今まで使っていた敬語を捨てるとは思っていなかった。困惑しながら二人の顔を見比べたフィラは、ジュリアンの表情がどこかほっとしたように綻んだのに気付く。
「お久しぶりです。ベイカーさん」
 エルマーは不満そうに鼻を鳴らして二人に背を向けた。
「言いたいことはいろいろあるが、キースが朝から何も食っていないと言っていたからな。昼食くらいは出してやる」
 肩越しに言って、エルマーは厨房へ戻ってしまう。それを見送った後でジュリアンを見上げると、ちょうど彼も視線をこちらにやったところで、顔を見合わせる形になった。ジュリアンはどこかほっとしたような照れくさそうな笑みを浮かべて、フィラの髪を一房手に取る。
「あの人はああいう話し方をしてくれる方が落ち着くな」
「エルマーさんのことですか?」
 指先を滑っていく髪にこそばゆさを感じながら、フィラは小声で尋ねた。
「ああ。仕方ないことではあったんだが、敬語で話されると落ち着かなかった」
 名残惜しそうに手を離しながら、ジュリアンは姿勢を正す。
「行こう。待たせたらまた怒られそうだ」
 その言い方にフィラは思わず笑ってしまった。
「そうですね。あ、先に入っていてください。ちょっと片付けないと」
「わかった」
 頷いたジュリアンが踊る小豚亭へ入っていく間に、フィラはさっき放り出してしまったじょうろを洗って片付け、それから建物の中へ入る。
 開店前の店内へ入ると、そこではサンディから聞いていた通りの容姿の――つまり無精ひげに綺麗に剃り上げたスキンヘッドに銀縁の眼鏡といういささかアンバランスな組み合わせの男が、ジュリアンと向かい合って立っていた。黒っぽい紺のトレンチコートによれよれのシャツ、だらしなく歪んだネクタイという服装を見る限り、どうもあまり見た目に気を遣う方ではないらしい。独特の風貌のせいで年齢はわかりにくいが、恐らく三十前後だろう。
 ジュリアンの服はいつもの団服を黒いコートに替えただけのようだった。さっき触れた感触は団服と同じだった気がするから、たぶん素材は同じなのだろう。
「いやあ、しかし裏口からこっそり入るのにずいぶん時間がかかりましたねえ、旦那」
 スキンヘッドの男はにやにやとからかうような笑みをジュリアンに向けた。
「ああ。待たせて悪かった」
 対するジュリアンが平然と返したので、男はがっかりしたように眉尻を下げる。
「フィラ、配膳頼んで良いかい?」
 次いで男は何か言いたげにフィラへ視線をやったが、厨房からエディスに声をかけられたフィラはその視線に反応するタイミングを逃してしまった。男が黙って諦めた様子だったので、フィラはカウンターで手を洗ってから厨房に入り、用意されていた昼食を二人の元へ運ぶ。一緒にトレイに載っていた一人分多いコーヒーは、フィラも昼食に付き合って良いというエルマーからの許可だろう。そう思って、フィラは食事を並べ終えた所でジュリアンと斜めに隣り合った位置に座った。フィラを挟んでジュリアンと向かい合う位置に腰掛けたキースは、楽しそうに二人を見比べる。
「フィラ、こちらはキースだ。どうせ偽名だろうが、そのスキンヘッドを隠していないときはキースと呼んで差し支えない」
 キースが何か言う前に先手を打って紹介を始めたジュリアンの言葉は、何だか微妙にひどいものだった。
「……旦那」
「こちらはフィラだ。詳しい紹介は今さら必要ないだろう」
 抗議の視線を優雅に無視して、ジュリアンは簡潔に紹介を終える。
「まあ、確かに……ある意味経歴だけなら本人より詳しいかもしれませんがねえ……」
 キースはどこか不本意そうに目を細めて頷いた。たぶん、フィラがリタと接触していたかどうか、調査していたのは彼なのだろう。そうだとしたら何月何日にどこにいたのか、確かにフィラより詳しく頭に入っているに違いない。
「今後の計画についてはキースに準備を進めてもらっている。サンディと協力者全員が揃ったら打ち合わせを始めよう」
「旦那……家でもその調子なんですかい?」
 呆れた調子のキースに、優雅な仕草でスープを口に運んでいたジュリアンは小さく眉根を寄せた。
「どういう意味だ」
「なんて言うかぁ、業務的な?」
 図星を指された、とでも言いたげに顔を顰めるジュリアンに、フィラは少し笑ってしまう。以前仕事みたいな話し方を気にしていたから、それを言われると弱いのだろう。フィラは全然気にならないのに。
「……改善に、務めてはいるんだが」
「いやだから、そういうとこですって」
 キースはやれやれとため息をつきながら、大げさに天井を仰いだ。

 夕刻から閉店までの時間、表に顔を出すわけに行かないジュリアンは仮眠を取ることになった。遅い昼食を食べ終わる頃に現れたティナも、一緒に休むと言ってジュリアンと一緒に屋根裏へ上がっていった。睡眠は必要ないはずなのだが、何か消耗してはいたらしい。
 それを案じつつ閉店まで忙しく働いたフィラは、片付けと明日の仕込みを手伝ってから二階に上がる。ソニアとレックスとサンディは既に集まっていて、何だか微妙にお互いの出方を伺っているような微妙な雰囲気になっていた。フィラがティーポットとこれから集まる予定の人数分のカップを持って入っていくと、三者三様にほっとした表情になる。
「そろそろキースを呼んできます」
 壁際に立って両腕を組んでいたサンディが、やっと口実を見つけたとばかりに姿勢を正して事務的に宣言した。そのまま出て行くサンディを息を詰めて見守っていたソニアとレックスも、扉が閉まった途端に大きなため息をつく。いくら事情を聞いているとはいえ、ユリンの生活しか知らない二人と第三特殊任務部隊《レイリス》のサンディでは、未知との遭遇にしかならなかったようだ。
「えっと……やあフィラ、久しぶり」
 一番最初に気を取り直したレックスが片手を上げて挨拶してくる。
「うん……久しぶり」
 レックスと別れたときのことを思い出すと、少し気まずい。フィラは目を合わせ続ける勇気が持てなくて、答えた後で何かを誤魔化すように持ってきたカップをテーブルに並べ始めた。
「思ったより早く会えたのは嬉しいけど、またすぐ出て行っちゃうんだよね」
「……うん」
 カップを並べ終えたフィラは、少しだけ寂しげな響きの声に、勇気を出して顔を上げる。何かを堪えるように唇をかみしめるレックスと、気遣わしげに二人を見守るソニアの姿。二人にも、フィラは何も言えないままだった。今度はちゃんと伝えるチャンスがあるのだから、それを逃したくない。
「やらなきゃいけないことがあるから」
 やや緊張気味に微笑んだフィラに、ソニアとレックスはなぜかびっくりしたように目を瞬かせた。
「なんか、酒場で働いてるとこ見てると半年たっても変わらないなあって思ってたんだけど」
「やっぱり変わったわね」
 目と目を見交わして頷く二人に、フィラは困惑する。
「そうかな……?」
 わかるようなわからないような、不思議な感じだった。中央省庁区で光の巫女としてジュリアンと暮らしていたなんて、確かにユリンにいた頃の自分からは考えられないけれど、戻ってきたら戻ってきたであっという間にいつもの日常が始まってしまった。今はほんの一時的に身を置いているだけだとわかっていても、ユリンのいつも通りの日常は馴染み深く感じられる。
 そのはず、なのに――
「そうそう。なんか前はもうちょっとぼんやりした印象だったんだけど」
 そう言いながら近付いてきたソニアは、顔を寄せてフィラの表情を覗き込んだ。少しだけ緑がかったヘーゼルの瞳にじっと見つめられて、フィラは何だか緊張してしまう。
「なんか輪郭がはっきりした感じがする。イメージだけど」
 ソニアは自分で自分の言葉に頷くと、納得したように姿勢を正した。後ろではレックスも同意の首肯を繰り返している。
「記憶を取り戻したからかな……?」
 依って立つところと目指すところが、記憶を取り戻す前よりはっきりしている自覚はあった。輪郭がはっきりした、というのは、そういうことなのだろうか。しかしソニアとレックスは、フィラが出したその答えに少し呆れたような笑みを浮かべる。
「それ『も』あるだろうね。ちょっと妬けるし悔しいけど」
 レックスはまったく悔しそうには見えなかったけれど、誰に対しての嫉妬なのかなんとなくわかってしまったフィラは赤面した。にやにやしながらこちらを見ているレックスを、軽くにらみ返す。
「もしかして、からかおうとしてる……?」
 拗ねたように眉根を寄せるフィラに、ソニアとレックスは悪戯に成功した子どもみたいな笑みを浮かべた。
「うん、ちょっと」
「ちょっとだけ」
 レックスの気持ちを受け入れられなかったフィラを、そんなふうにして二人で許してくれているのだと思えば嬉しかったけれど、同時に恥ずかしくてたまらない。
「そんなところばっかり気が合うんだから!」
 フィラは照れ隠しだとバレバレなのを自覚しながら、ぷいと視線を逸らした。