第一話 帰郷

 1-2 昔語り

「まず旅立つ二人のために用意した身分についてってとこからお話ししましょうかね」
 エディスとエルマーがバルトロを連れて上がってきて、ジュリアンとキースも揃ったところで、口火を切ったのはキースだった。説明役のキースがテーブルの短辺に陣取り、ジュリアンとフィラ、エルマーとエディス、ソニアとレックス、バルトロとサンディがそれぞれ向かい合って座る。ハーブティーと焼き菓子は用意されているが、雰囲気は完全にブリーフィングだった。
「立場としては、南米方面から流れてきた賞金稼ぎってことになってます。ギルドへの登録は三年前だし、俺とフィアで国境を越えるところから足跡は残しておきましたんで、多少身分を調べられてもそうそう足がつくことはないはずです」
 詳しい資料はこれを、と、キースはジュリアンに分厚い紙の束を手渡す。
「名前はジェイとエフィーになってます」
 偽名を使って生活するということは、うっかり名前を呼び間違えないようにしないといけないということだ。そう考えると、フィラは一気に緊張してきてしまう。
「あ。でもジェイは向こうで傭兵団の団長やってたことになってるんで、呼び方は団長で構いませんぜ。それにジュリアン・レイは有名人だから名乗れないってだけで、今の状況だと厳しく追っ手がかかることもなさそうですから。ま、そんな気にしなくても」
 フィラの方など全く見ていなかったはずなのに、キースは正確にその不安を読み取ったような補足をしてくれた。
「移動用のキャンピングカーも用意してあります。今は世界の果ての崖下の樹海で狩りをしてることになってますんで、そこからスタートしてもらうことになりますね」
「ああ、助かる」
 渡された資料に素早く目を通しながらも、ジュリアンはしっかりと話を聞いているようだ。
「移動のルートも俺らで調べられた限りですが、資料に入れてあります。って言っても、ロサンゼルス・トランスポーテーションまでのルートだけで、その後……グロス・ディアに突入してからのことは完全に未知です」
 以前ジュリアンからも同じことは聞いていた。視線を上げてこちらを見たジュリアンに、フィラは覚悟は出来ているという意思を込めて頷く。ジュリアンは一瞬だけ了解の笑みを浮かべ、すぐにそれを消してキースに向き直った。
「グロス・ディアに関しては風霊戦争以前から不明な点が多かったはずだ。行ってみて、この目で確かめるしかないだろう」
「過酷な旅になりそうですが……」
 気遣わしげなキースに、ジュリアンは穏やかな微笑を向ける。
「覚悟の上だ」
 キースは満足そうに目を細めて「じゃあ次は」と、フィラとジュリアン以外の面々に視線を向けた。
「ユリン居残り組の仕事ですが、こっちは難しいことはありません。中央省庁区から誰か来てフィラさんのこと聞いてきたら、口裏合わせてフィラさんはずっとここにいたって言い張れば良いだけです」
 神妙な顔で頷くソニアとレックスに、落ち着き払った様子のエルマーとエディス。バルトロの表情もいつも通りだ。
「大丈夫、ユリンの他の人たちにはフィラさんは城で働いてたって言ってあるんで、そこは二枚舌使ってもらうことになりますが、まあ状況からして向こうも厳しく追及してくることはないでしょう。記憶を書き換えるとか、そこまでする必要もないくらいです。ユリンの人間と外部の人間の接触は最低限にしておきたいはずなんで、皆さん以外のとこに問い合わせが行くってこともそうそうないでしょう。あとはまあ……」
 キースは言葉を切って、意味ありげな笑みを浮かべる。目配せされたフィラが不思議に思って首を傾げると、キースは器用にウインクしてみせた。
「お二人さんのサポートですね。結界メンテナンス日じゃないと足跡を残さずにここを出るのは難しいんで、それまで旅立つ二人を勇気づけてやってくださいってことで」
「もとよりそのつもりだ」
 にやつきながらそう言ったキースに、エルマーが真っ先に重々しく答える。
「旅の間はなかなかご馳走食べる機会もないだろうしね。今のうちに美味しいもの食べていってもらわないとねえ」
 エディスも楽しそうに微笑みながら、そう言って頷いた。

 大筋を確認した後、細かい打ち合わせや確認をして、日付が変わる頃には解散する流れになった。ソニアとレックスはあまり遅くなると家族が心配するということで、また明日ゆっくり話そうとフィラに言いおいて帰っていった。フィラとエディスとサンディが寝る支度をしに出て行った後、残ったジュリアンとキースとエルマーとバルトロは、何となくそのままの流れで酒とハーブティーを酌み交わす。
「いやあ、それにしてもこんな形で大先輩と話す機会があるとは思ってませんでしたよ」
 踊る小豚亭自慢の蒸留酒を片手に、キースが上機嫌でエルマーとバルトロを見やった。
「私も、こんな形で過去を思い出すことになるとは思っていなかった」
 しみじみと呟きながら、バルトロはフィラが淹れていったハーブティーを口にする。
「大丈夫、なのですか? 以前お目にかかったときは、忘れさせてくれと言われましたが……」
 躊躇いがちに尋ねるジュリアンに、バルトロは口ひげの下で微かな笑みを浮かべた。
「あの時は申し訳ないことをしました。お若い方に気を遣わせてしまった」
「いえ……私は自分の役目を果たしただけです」
 バルトロの穏やかな微笑から視線を逸らす。彼の恩人を、部下を、戦友を、そして未来への希望を奪っていった嵐を、思い出したくないのだとあの時バルトロは言った。
 空を飛ぶ夢は、彼が僧兵に志願する前から抱いていたものだったという。サーズウィアが来て閉ざされていた空が晴れたなら、そこに一番に乗り出すのは自分だと。
 けれどあの日、バルトロは老兵となっても手放さずにいたその夢を捨てた。圧倒的な荒神の力。サーズウィアを呼ぶために必要だった光の巫女の力が失われたこと。打ちのめされるには充分過ぎる光景だったのだろう。
 あの日城に連れて来られて一時的に記憶を戻されたバルトロは、ジュリアンに尋ねた。あの後光の巫女は目覚めたのか。リラの力は戻ってきたのかと。「否」と、あの時のジュリアンは答えるしかなかった。そしてバルトロは決断したのだ。二度と目にすることが叶わない、あの呪わしく美しい本物の空を思って生きるくらいなら、この偽物の空の下で、偽りの中で余生を過ごしたい、と。
「あの時の貴方の立場もお気持ちも、私はまるでわかっておりませんでした。その後貴方がどうやってリラの力を取り戻してくださったかもキース様から聞いております。私が偽りの中で安穏と過ごしている間にも、貴方はずっと戦ってくださっていた。今もまた、貴方は貴方にしか果たせない役割を果たすために旅立とうとしている」
 静かに語るバルトロの言葉を、ジュリアンは真剣に受け止めようとした。あの時の戦闘を生き延び、けれど元の生活に戻れはしなかったバルトロは、聖騎士団が守り切れなかった人々の一人だ。
「感謝の気持ちを返すには私は余りにも無力ですが」
「そう言っていただけるだけで……」
 救われる。むしろ感謝したいのはこちらの方だ。
「フン」
 むずがゆい空気に我慢出来なくなったのか、ずっと難しい顔をして聞いていたエルマーが鼻を鳴らした。
「あのいけ好かない男の息子にしては素直なようだな」
 あんまりな言い種に、真面目に語っていたバルトロも思わずといった様子で破顔する。
「そういや、おやっさんはランベール様と同年代でしたっけ」
 キースが興味深そうに身を乗り出した。第三特殊任務部隊《レイリス》である彼は光王庁の主要人物の人間関係は把握しきっているはずで、当然ランベールと元聖騎士の関係も頭に入っているはずなのに、いったい何を聞こうというのだろう。ジュリアンは嫌な予感を覚えながら、成り行きを見守る。
「ああ。向こうが二つ下だ。聖騎士団に入ったのは私の方が五年ほど後だがな」
「叩き上げのおやっさんからすると、親の七光りでって気持ちがあったんじゃ?」
 そこに当事者の息子がいるにもかかわらず、キースは遠慮なく話を振っていく。
「当然だ。反発している人間も多かった」
 ランベールが聖騎士団に在籍していたのは、ジュリアンが生まれる以前のことだ。その頃の話はほとんど聞いたことがなかったから、こんな所でその話を聞いているのは、何だかものすごく不思議で複雑な気分だった。
「まあ、実力で黙らされたわけだが」
「ほう、それはさすがレイ家のご当主様!」
 当事者の息子を前にしてキースはますます楽しそうだ。わざとに違いない。ジュリアンは無言のまま、キースの評価を一段階リサに近づけた。
「実力主義の先代団長に認められて副団長になり、その座に相応しい功績を立てたことは認めている」
「そう言えば」
 不機嫌そうなエルマーを面白そうに見つめていたバルトロが、笑みを深めながら内緒話をするように声を潜める。
「レイ家の御曹司殿は、皆の憧れの歌姫をかっさらって聖騎士団を引退したことでずいぶんと恨みを買ってらしたようですな」
 何と反応したら良いかわからずに固まるジュリアンを後目に、キースは興味津々の様子で今度はバルトロの方へ身を乗り出した。
「俺はその頃ガキだったんで、詳しくは知らないんですよ。やっぱりそうだったんですか?」
 参加している人間の年代は違うが、何となく覚えのある光景が始まろうとしている。そろそろ逃げ出したくなりながら、ジュリアンはリラックス効果の高そうなカモミールティーを飲み干した。
「まあなんせ、光王庁では誰もが憧れるとまで言われておりましたからな。ご主人も実は憧れていたのでは?」
 話を振られたエルマーは、不機嫌に両腕を組んで視線を逸らす。
「歌は……聴いていた」
 もう二十年以上前の話だと、エルマーはどこか懐かしそうに目を細めて呟いた。
「ほとんど聴いていないが、レコードもユリンに持ち込んでいたはずだ」
 LPレコードはユリンへの持ち込みが許可されている数少ない記録媒体の一つだ。竜化症治療のために住民は皆魔力を封じられているし、発電所の能力も貧弱だから、最新の精密な機械や魔術具はここでは使えない。その代わり電力を必要としない蓄音機は、ユリンでも広く使われていた。
「私もよく聴いていたよ。良い声だった」
 バルトロも懐かしそうに瞳を眇める。
「レコードってのも味がありますねえ。聴いてみたいなあ」
「うちの蓄音機は故障中だ」
「そのくらい言ってくれれば直したのに」
 話し続ける男たちの声が少しずつ遠くなっていることに気付いて、ジュリアンははっと姿勢を正した。
「……団長、眠そうですね」
 気付いたキースが、にやついた笑みを浮かべながらこちらを振り向く。確かにそろそろ限界だった。ここまで逃げてくる間はさすがに追っ手もかかっていたし、ほとんど睡眠を取れなかったので疲労が蓄積している。
「申し訳ありません。そろそろ失礼いたします」
「ああ。寝床は屋根裏だ。フィラと同室だが」
 立ち上がったジュリアンに、視線を向けもせずにエルマーが言った。キースとバルトロが意外そうにその横顔を凝視する。
「……とやかくは言わん」
 それきりもう何も言うものかとばかりに口をつぐむエルマーに、ジュリアンは黙って頭を下げた。エルマーなりの、二人の関係を認めるという意思表示なのだろう。許さないと言われても仕方のないことをしたのに、再び信頼を寄せてくれた。その信頼に応える術はただ、フィラを幸せにすることだけだ。数日間の逃避行による疲労でぼんやりした頭でも、それだけは間違えようのない事実だと思える。集っていた部屋を辞し、屋根裏に上がりながら、ジュリアンはその確信を胸に刻み込んだ。

 ジュリアンが去った後の部屋で、三人はまた黙々と酒を酌み交わす。ここまで話題を引っ張ってきたキースも、黙って何か考えて込んでいる様子の二人にあえて声をかける気にはなれなかった。
「戦友《とも》はほとんど、四年前に天国へ行ってしまったようだ」
 ふと、何の脈絡もなくエルマーが沈黙を破る。
「私は一足先に楽園へ来てしまったおかげで、天国へは行きそびれたということか」
 淡々とした呟きには、隠しようもない悲しみが潜んでいた。記憶を取り戻してからずっと、エルマーが考えていたことなのかもしれない。
「リラの導きかもしれんな。このときのために、私は生きることを許されたのかもしれん」
 ジュリアンには――あの余りにも多くのものを背負わされた若者には、きっと聞かせたくなかったのだろう。わざわざジュリアンが出て行ってから弱音のように口に出したのは、エルマーなりの気遣いなのだとキースは判断した。
「そういう言葉を聞くと、ご主人も本当に聖騎士だったのだと思えますな」
 重くなりかけた空気を、バルトロがさらりと破る。
「何を言うか。私が現役の頃には既にベテランだったお人が」
「なんのなんの。末端の通信兵には聖騎士など遠い存在でしたからな」
 言い合う二人にキースは思わず笑い出しそうになった。キースから見ればどちらも先輩なのだが、エルマーよりもバルトロの方が一回り以上年上だ。キースとエルマーの年齢差もだいたい同じくらいで、現役でいられる期間の短い僧兵と聖騎士がこうして揃うのはたぶんとても希有なことだ。その奇跡のような偶然を楽しむために、キースは二人の会話に耳を傾けながら、自分のグラスに酒を注ぎ足した。