第二話 再生されし子等

 2-4 決意

 大地の果ての崖下まで降りるエレベーターに乗り込むと、急に疲労が襲いかかってきた。ジュリアンは壁に寄りかかり、そのままずるずると床に座り込む。リサとフィーネはエレベーターに乗る前に別行動を開始していて、ティナはまだ戻ってきていない。今はフィラと二人きりだ。そのことに少しだけほっとする。
 それほど速度の出ないエレベータなので、下まで十五分程はかかるだろう。出血が少し多かったせいで、体温と体力が低下していた。今この時間に回復出来るのは正直都合が良いのだが、隣にしゃがみ込んだフィラは具合が悪いと思ったのか心配そうに顔を覗き込んでくる。
「大丈夫だ。すぐに回復する」
 微笑して言うと、フィラはやはりどこか強ばった表情で、「手伝います」と答えた。リサの治療を優先したせいで消耗してはいたが、ここでゆっくり治療できるならすぐに回復する程度のものでもあった。遠慮しても良かったのだが、何かやることがある方がフィラが落ち着きそうな気がして、その手当を受け入れる。
 手をかざして治癒魔術を使い始めたフィラは、ユリンを出たときの状況から考えるとずいぶんと魔術に馴染んでいた。手際も魔力効率も、もう初心者の域は脱しつつある。それでも戦力に数えたくないと思うのは自分のわがままなのだろうか。
「すまなかった」
 そんな言葉は望んでいないだろうとわかっていたのに、つい謝罪の言葉が口をついて出た。
 あんな風に誰かに銃を向けさせる事態など、できれば避けたかった。黙って首を横に振るフィラの手は、まだ震えている。フィラにはたぶんわかっているはずだ。一命を取り留めたとはいえ、リサに重い宿命を背負わせることになってしまったと。その責任もフィラに負わせることなくどうにか出来れば良かったのだが、そんなことを言えばまた怒られるのだろうとも思う。
「リサさんは、これから……どうする、んでしょうね……」
 ジュリアンの治療を手伝いながら、フィラはぽつりと呟いた。
「サーズウィアが来るまでは、予定通り力を貸してくれるはずだ。その後は……」
 リサが何を選ぶのかは、ジュリアンにもわからない。一つだけ確かなのは、リサは戦い続けるだろうということ。決して平穏な日々を望んだりはしないだろうということだけだ。
 もしこうならなかったとしても、リサはきっと命が続く限り戦い続ける道を選ぶ。三百年から五百年という長い寿命と、その長い時間を戦い続けられるだけの力をリサは手に入れた。戦い続け、失い続け、感情すら摩耗していくだけの日々を、彼女がこれからも続けるのかと思うと全身の力を奪われるような無力感に襲われる。
 出会った頃の、何にも執着せず戦うことにしか自らの価値を見出していなかった少女は、本質的には今も何も変わっていない。何も変えられなかった。ジュリアンもランティスも、ずっと一番近くにいたカイさえも。
「その後は、やっぱり賞金稼ぎになるんじゃないか。不老不死だろうが人間じゃなかろうが戦えさえすれば良い仕事だし、性に合うとも言っていたからな」
 リサはきっと戦い続けるだろう。聖騎士団の仲間たちが皆寿命を迎えた後も。たったひとりで。共に戦い続けた仲間には少しだけ人間らしい感情を向けるようになったが、それも消えてしまうのかもしれない。リサにとってはその方が良いのかもしれないが、どうしてもフィラにそれを告げる気にはなれなかった。
「クロウは」
 名前を聞いたフィラの手がびくりと震える。大丈夫だとその頬に触れようとして、手袋に乾きかけた血がこびりついているのに気付いた。途中で動きを止めてしまった手に、フィラは自分から頬をすり寄せる。
「クロウは、生きている可能性が高い。リサの魔術は恐らく核には直撃しなかった」
 また気遣うつもりでこちらが気遣われている。それを自覚しながら、ジュリアンはぎこちなく微笑した。
「もう、戦わずにすむと良いな」
 下手な慰めは無意味だと気づいて、口をついて出たのは素直な心情だ。フィラはジュリアンの手を握り、思いをかみしめるように瞳を閉じて「そうですね」と呟いた。

「やー、しかし、三百年だっけ? 長いよね」
 エレベーターの扉が閉まったところで、リサは気楽な調子で呟いた。
「……そうですね。正確には三百年から五百年です」
 少しだけ答えにくそうに、相変わらず親切に幻を表示させたままのフィーネが頷く。その感情の動きが、自分より余程人間らしい気がして、リサは苦笑した。同化したことで、相手の感情がかなりダイレクトに伝わってくるみたいだ。自分の感情もそうやって伝わってしまうのかと思うと、ものすごく面倒くさい気分になった。
「カイ君何歳まで生きるかな〜」
「せいぜい百年が良いところかと」
 感情を押し殺して答えるフィーネの、その押し隠された苦さも感じてしまう。本当にこれは面倒だ。
「そうするってと残り二百年から四百年か。長いよね〜」
「長いでしょうね」
 エレベーターの前を離れ、一番近い非常階段へ向かいながら、リサは考え込んだ。まだ二十年程度しか生きていないリサには、その時間の長さなど想像することも出来ない。ただひとつ予想出来るのは、とても退屈だろうということだけだ。今だって、自分は退屈を持て余していることが多いのに。
 歩き続けるリサの沈黙をどう判断したのか、フィーネは少しだけ気落ちしたようだった。
「貴方はあの青年にだけは執着しますね」
 階段へたどり着いた頃、フィーネはぽつりとそう言った。伝わってくる複雑な感情は、複雑過ぎてリサにはよくわからない。ヒューマナイズされすぎ、と心の中でつっこみながら、リサは肩をすくめる。
「まーね。私他のことは割とどうでもいいからなあ」
 紛れもない本心だとわかるからか、フィーネから伝わってくる感情はますます複雑な憂いに沈んだ。
「いや〜悪いね。同化した相手がこんなんで」
「いえ。私もサーズウィアさえ呼べれば他のことは構いませんので」
 嘘ではないが、真実でもないといったところか。何となく察してしまったことは、相手にも伝わっているはずだ。
「サーズウィア来てもさ、私と一緒だったら世界律には戻れないんじゃない?」
 闇の中に延びる長い長い螺旋階段をひたすらにぐるぐると降りながら、独り言にも似た会話を続ける。
「その通りです」
「良いのかな〜。サーズウィア来た後で神様がこっち側に残っちゃうのは」
 それは世界律を歪める手段が残ってしまうということだ。それはサーズウィアを呼ぶ本来の目的からすれば、許すべからざることのはずだった。
「あまり良くはありませんが、魔竜石に封じられた神々も戻ることは叶いませんから。私一人が残るという事態になるわけではありません」
 そういえばジュリアンからも昔そんなようなことを聞いたことがあったかな、と竜化症がなくても適当な記憶を掘り起こす。
「そうなると魔術が一瞬でこの世から消えてなくなるわけじゃないのか……そりゃちょっと厄介だね」
 WRUは積極的に神々を魔竜石に封じ込めて利用しているはずだし、光王庁では表向きそういったことはないことになっているがもちろん本音と建て前は別だ。サーズウィアが来た後、WRU側に魔術を使う手段が残されることが予想出来ているならば、当然対抗手段は講じられているだろう。
「つまりこのさんざん続いた魔術戦争は、サーズウィアが来ても終わりそうにないってことだよね〜」
「そうですね」
「ふーん」
 冷静なフィーネに返した声が、自分でもはっきりわかるくらい不満そうだった。もちろんリサだってサーズウィアが来れば何もかも良くなると思っていたわけではないし、ジュリアンが戻って来ようが来なかろうがその後を引き継いで戦い続けるのは聖騎士として誓いを立てた者の義務だとは思っていた。
 それまで生き残ることが出来ていれば、という半ば無責任な前提の元で。
「三百年がかりでさ、それ全部何とか出来ると思う?」
 その前提を覆されてしまったリサは、嫌々フィーネに尋ねてみた。
「どうでしょう。やってみる価値はあると思いますが」
「あっは。策士だね」
 実際、見事な誘導だ。生き残ってしまった後、他に自分にやるべきことがあるとも思えない。
「言っておきますが、そのために貴方と同化したわけではありませんよ」
「どーだかなー。まあ君の目的が何だったとしても、あそこで死なずにすんだことには感謝するけどー。残り時間がいきなりどかんと延びちゃったのはちょっといただけないなー」
 わざとらしく語尾を伸ばすリサに、フィーネは無言のまま、また少しだけ感情を揺らした。
「しかしあれよね、ジュリアンがカイ君に怒られないといいけど」
 さすがに命の恩人にこれ以上意地悪を言うのもどうかと反省して話題を変えてみたけれど、やっぱり責めるような話題になってしまう。心の中だけで謝って、リサはまだまだ続く螺旋階段を降り続けた。
「……怒るのですか」
「怒りそう。ジュリアンのおじいちゃんのことだってあの人未だに許してなさそうだし。その理由もそれじゃWRUと一緒じゃんってとこだったし」
 話しているうちにだんだん気分が良くなってくる。それを感じたフィーネは、不審そうに気配で先を促した。
「それと同じことをジュリアンが自分でやっちゃったって知ったらやっぱ怒りそうだよね」
「で、貴方はそれを喜ぶわけですか?」
 フィーネの感情は不審を通り越して若干不愉快そうだ。
「あ、わかるー?」
「むしろ理解いたしかねます」
 即座に返ってきた答えに、そうだろうなとリサは納得しながら立ち止まった。螺旋階段はそこで錆びた鉄骨だけを残して崩落している。周囲を見回し、魔力を探ってから、これは飛び降りるしかないかなとリサは楽しげな笑みを浮かべた。

 目覚めてすぐ襲ってきたのは、「死に損なった」ことに対する落胆だった。あんなに恐れていたはずなのに、手に入れ損なってしまえば、それはひどく甘く優しい誘惑だったように思えた。
「起きたね。で、どうすんの?」
 ぼんやりとしたクロウの感傷をかき消すように、生意気な少年の声が頭上から響く。魔竜石工場跡地の最下層。廃物遺棄坑には、竜の死体から剥がれ落ちた魔竜石の欠片や朽ちかけた工具や、魔竜石の生産と関係があるのかないのかもわからない巨大な機械や重機がそこら中に散らばっている。いや、足下の床すら、そんな廃物が堆積して出来た地層の上に乗っている何かの遺物だ。
「ティナさん」
 答える声の響きと動かそうとした手足の感触で、自分がまだ人型に戻っていなかったことに気づいた。戻ってさえいればあっさりあの世に行けていたのだろうに、貴重な戦力の消耗を防ぐためのシステムだか生物としての本能だか知らないが余計なことをしてくれたものだ。これでまた未練がましく生にしがみつくことになってしまう。クロウもその辺に散らばっている廃物も、大して変わりはないのに。
「……どうしましょうか」
「知らないよ」
 クロウの頭上から飛び降りた真っ白な子猫が、不機嫌そうに毛繕いを始める。まだどこか霞がかかったような思考でそれを見つめながら、撫で心地が良さそうだなんて間の抜けたことを考えて、実行に移したくなって人型に戻った。人型になるときには必要ない、竜素で賄っていた質量を神界に戻し、代わりに元の形状を記憶していた、竜素を原料とする聖騎士の団服を呼び戻す。この団服の仕様を見た時には、光王庁も同じじゃないかと笑いがこみ上げたものだ。これは明らかに、竜素を操って人ならざるものに変貌する者のための服だ。
 皮肉な笑みを浮かべながらティナに手を伸ばして撫でようとすると、邪魔だと言わんばかりに猫パンチをお見舞いされた。
「またフィラたちを狙うつもりなの?」
 不機嫌な問いかけに、クロウは笑みを苦笑に変える。
「どうしましょうね」
 もう一度問い返しても、ティナは「さっき知らないって言ったじゃん」とでも言いたげに毛繕いを再開するだけだ。
「どうして、殺してくれなかったんです?」
 撫でるのを諦めて、クロウはティナの隣に座り込んだ。
「僕とジュリアンがフィラに殺人なんてさせるわけないだろ」
「それでとっさに弾丸の中に入り込んだわけですか」
 フィラが引き金を引こうとしたとき、ジュリアンがとっさに魔術で干渉し、弾丸の魔術式の中にティナを入り込ませたことには気付いていた。自分を確実に葬り去るためのものだろうと思っていたのに、その魔術は逆に弾丸の殺傷能力を奪い、核を破壊せずに中にある神域との交錯を終わらせる魔術を発動させるためのものだった。ティナがクロウにまとわりついていたのは核の位置を探すためではなく、その魔術の発動条件を探すためだったようだ。そんな余裕を与えたつもりはなかったのに、あの戦闘中にそこまで分析されていたことには舌を巻くほかない。
「フィラさんに渡した銃……まさかそんな使い方をされるとは思っていませんでした」
 そう。あれはただの気休めだった。誰の気を休めるためのものだったのか、今となってはもうわからないけれど。
「無防備な君の核を破壊できるだけの強さの拳銃をフィラに渡すってさ。殺して欲しかったわけ?」
「そんなわけないでしょう。たまたまですよ」
 ティナの推測を、笑顔でかわす。そんなわけはない。そんなことは、考えもしなかった。それは確かなのに、何故か言い当てられたようなひやりとした感覚が胸の内を過ぎる。
「それにしても殺人とはね。僕は人間なんかじゃありませんよ」
 ずいぶんお優しい言い方をしてくれるものだと、クロウはまた皮肉げな笑みを浮かべた。
「君の認識はどうでもいいよ」
 ティナは面倒くさそうにクロウの皮肉を一蹴する。
「大事なのはフィラがどう思うかだから」
 ティナはそう言うと、あくびをして立ち上がった。同時に感じた気配に、クロウは舌打ちしたい気分になる。油断していた。
「まさか、生きていらしたとは」
 立ち上がりながら振り向く。朽ちて崩れ落ちた螺旋階段の残骸の上に、ほとんど気配のない浮遊の魔術を纏ってふわりと降り立った女騎士は、クロウと目が合うとあからさまに嫌そうな顔をした。
「うっわ失礼だな。何その幽霊でも見たような表情《カオ》」
「幽霊じゃないんですか?」
 あの時の手応えからして、リサが生きているなどということはあり得ない。剣すら構えずに埃や工具を蹴散らしながら歩いてくるリサは、死にかけた気配どころか負傷の気配すら見当たらない。これが幽霊でなくて何だと言うのだろう。
「なぜ貴方が生きているんです? 光の巫女の力ですか?」
 得体の知れないものへの恐怖。常ならばそれを向けられる側である自分が、今は見慣れたはずの同僚にそれを向けている。皮肉なその状況に、我知らず歪んだ笑みがこぼれ、同時に襲いかかってきた恐怖が薄れていくのを感じた。
「いや〜、どっちかってと私の悪運の強さが原因かな」
 そんな複雑な心の動きは当然のように無視して、リサはいつも通りの軽薄な調子で肩をすくめる。
「んでさ、二択なんだけど」
「はいはい」
 ピースの形に右手を突き出すリサに、半ば投げやりに答えた。どんな選択肢が与えられるかはさすがにわかりきっているし、ここで奇をてらってくるような相手でもない。
「ここで死ぬのとWRUへの協力をやめるの、どっちがいい?」
 ここで死ぬ場合はちゃんと痛くないように殺してあげるよ、などとリサは冗談めかして言っているが、敵対を決めた瞬間に情け容赦なく切り捨てられるのは間違いないだろう。威圧的に放出されるリサの魔力が、とても勝ち目がないことをクロウに教えてくれている。『悪運の強さ』にはこの得体の知れない力を手に入れたことも含まれているのだろうか。はぐらかされた時点で、この厄介な元聖騎士から情報を引き出すことは諦めているが。
 クロウは一つため息をついた。死ぬか生き地獄を生き抜くかなんて、こんなに冷静な状態で考えることではないような気がする。さっきの、あの瞬間ならば迷わなかったのに。
「さあって、クロウ君はどうするのかな〜」
 考え込んでいるクロウに、リサは軽い調子で決断を迫った。いたぶるつもりすらないのだろう。ここでクロウを殺しても、リサは良心の咎めなど感じることなく、フィラにもジュリアンにもその末路を知らせることはしないはずだ。その確信が、微かな苛立ちのような感情を呼び起こした。
「……死にたいとは思いませんね」
「ふうん?」
 答えたクロウに、リサは驚きを装って眉を上げる。実際には面白がっているだけだ。感情を隠すのにはたぶん失敗した。
「んじゃ、もうあの二人を狙ったりはしないってことで……指切りでもする?」
「お断りします。契約書でも書かされた方がマシです」
「あー、それはめんどくさいからいいや」
 普段からその類のことはカイに任せきりだった書類仕事の苦手な騎士は、そう言って踵を返す。
「んじゃ、言質は取ったし約束破ったら死んでもらうってことで決まりね。後はご自由にどーぞ」
 リサはひらひらと手を振りながら、廃物遺棄坑の闇に消えていった。ふと足下を見下ろすと、さっきまでそこにいたはずのティナの姿も消えている。気持ち良いほど冷淡な連中だった。クロウは再び廃物の積もった床に座り込み、頭痛を堪えるように額を押さえる。
 ――自由。自由になってしまった。ずっと欲しくて、けれどずっと恐れていたもの。
 どうしたら良いのか、これから何がしたいのか、何もわからなかった。