第三話 無給休暇

 3-1 おひげのおじさん

 エレベーターを降りると、巨大な回廊が目の前に続いていた。それこそ竜の通り道にでもするつもりとしか思えない、縦横数十メートルはあろうかという地下通路だ。もうずいぶん使われていないらしく埃だらけだったが、巨大な天井のアーチはなめらかでひび一つ入ってはいない。光王庁の建物のように白いわけではなく、素材そのままの冷たい灰色がどこまでも続いていた。
 最下層に到達する少し前に立ち上がったジュリアンは、いつも通りの落ち着き払った様子で魔力光を灯してから歩き始める。照明が生きているのはエレベーターの周辺だけだったので、少し歩いてしまうとあとはジュリアンの灯した明かりだけが頼りだ。
 歩きながら、フィラは未だにどこか夢の中にいるような奇妙な気分を味わっていた。それはユリンの下に広がるこの風景が余りにも非現実的すぎるせいかもしれない。以前に来た時はほとんど神域と交錯している状態だったせいで、多少現実離れした風景でも後でそういうものかと受け入れられたけれど、改めてユリンの延長としてこの風景を見ると、余りにも日常からかけ離れている。
「ここは魔竜石工場の搬入口だ」
 歩きながら、ジュリアンが説明してくれる。やはり竜を運び込むための通路なのだろうか。
「何だか寒いですね」
 サンディが用意してくれた上着は団服と同じ性能だけあって、寒くも暑くもないように体感温度を調節してくれているけれど、それでも頬に当たる空気は冷たい。
「外もかなり寒いはずだ。その服なら大丈夫だと思うが」
 もう春も半ばなのに、吐く息も白かった。だいぶ下ってきたはずなのだが、高地にあるユリンよりもかなり気温が低いようだ。
「ここを抜けた先にキースたちが用意してくれた車がある。今日はそれに乗って、一番近くにある居住区まで行こう。違法居住区だから、中央省庁区に情報が漏れる心配はない」
「違法……居住区?」
 聞き慣れない言葉だった。
「何らかの理由で正式な居住区内に住めない者が集まって暮らしている集落だ。一応聖騎士団が取り締まらなければならない範囲ではあるんだが、事情を鑑みて黙認している部分もある」
 淡々と話すジュリアンは、けれどどこか複雑な感情を抱いているようにも見える。
「今日行く予定の居住区は、WRUからの脱走兵たちが集まっている区域だ。あまり治安が良いとは言えない。出来るだけ俺の側から離れないようにしてくれ」
「は、はい」
 やや緊張を覚えながら、もしかしたら行ったことがあるのかもしれないと、昔のことを思い出していた。エステルと二人で旅をしていた頃。エステルは『違法居住区』だとは言わなかったけれど、WRUの脱走兵たちのところへ演奏しに行く、と言ってうらぶれた居住区へ連れて行かれたことはあった。
「あの、もしかして私、行ったことありますかね……?」
 フィラとリタの接点を調べるために、ジュリアンがフィラの足跡を全て調べさせたことは知っている。
「……そういえばあったな」
 少し考え込んだ後、ジュリアンはあっさりと頷いた。
「知り合い、いるかもしれませんね」
「その辺はあまり詳しく調べていないが、可能性はあるな」
 そこでふとジュリアンは言葉を切って立ち止まる。
「どうしました……?」
 どこか困惑したように額に手を当てるジュリアンに、フィラは首を傾げた。
「いや……もしかしたらそこで二、三日逗留することになるかもしれない」
「何か用事が?」
「そういうわけではないんだが……」
 複雑そうな表情で言い淀むジュリアンを、フィラはじっと見上げるしかない。
「少し、体調を崩したようだ」
「えっ!?」
 慌てて顔を見上げる。出血の影響もあるはずだけれど、確かに顔色は良くないし、ジュリアン自身がそう言うからには、きっと何か予兆があるのだろう。考えてみれば、ここのところ気が休まる暇もなく睡眠不足のまま働きづめで、さっきは大怪我で出血もしているのだから体力を消耗していないわけがない。治癒魔術があるとは言っても、結局は本人の回復力を強化したりホルモンバランスや神経信号を誤魔化すだけで、人体の基本的な機能は変えられない。無理を通せばどこかに副作用は出てしまうのだと、魔術理論の基礎と一緒に教わった。そうやって誤魔化すよりは、どこかで一度休息を取っておく方が良いのかもしれない。
「……わかりました。じゃあ、早めに休めるところにつかないと、ですね」
「ああ」
 ジュリアンは頷いて、ふと背後を振り返る。何だろうと振り向いたフィラは、白い子猫がこちらに向かって駆けてくるのに気付いた。
「ティナ」
 腕の中に飛び込んできた子猫に、フィラはほっとして呼びかける。
「無事で良かった……」
 ジュリアンから無事は知らされていたけれど、改めて顔を見ると安心した。
「それはこっちの台詞だよ。まーた無茶するんだから」
 ティナはこれ見よがしにため息をついて、フィラの肩によじ登る。
「で、そっちもあんまり本調子じゃなさそうだね」
 ちらりと視線を向けられたジュリアンは、少しだけ困ったように微笑した。
「まあ、そうだな」
「まったく、最初からこれじゃ先が思いやられるね」
 大げさなため息をついたティナは、けれどどこかほっとしたように力を抜き、ジュリアンも同意するように苦笑を深める。
「余り遅くなっても困るな。先に進むか」
「そうですね」
 出来るだけ早く休んで欲しいフィラは、即座に頷いて再び歩き始めたのだった。

 たぶん一キロ近くは歩いたと思う。最後の数十メートルは吹き込んだ砂礫や風雨や雑草による浸食でだいぶ荒れていて、なぜだろうと不思議に思っていたらトンネルの先はそのまま野外だった。シャッターが中途半端な位置で止まっていて、周辺に横転してそのまま朽ちた車両の残骸らしきものもあるから、もしかしたら廃棄されたときに何かあったのかもしれない。壁や落ちている残骸にある傷が、何か鉤爪で切り裂かれた痕のように見えることは、あまり深く考えない方が良さそうだ。
 いつの時代のものかもよくわからない瓦礫を乗り越えて外に出ると、そこは暗い森の中だった。ユリンの外なのだから当たり前だけれど、ジュリアンが灯してくれた魔力光がなければ星一つ見えない真っ暗闇だ。足場も悪かったので、ジュリアンがごく自然に手を引いてくれる。
 そうして出口から五分ほど歩いたところで、灌木の下に隠れるようにして止まっていたキャンピングカーに辿り着いた。小型のバスくらいある車で、一見すると本当に走れるのかわからないくらいのおんぼろだ。でも、こうでなければ治安の悪い地域を抜けるには不都合があるのだろう。キースたちが用意したものならば、整備状態は心配ないはずだ。
「あの、私、運転しましょうか?」
 立ち止まって改めて見上げたら、さっきよりもさらに顔色が悪くなっていたので、フィラは恐る恐る問いかけてみた。
「……実車運転したことないだろう、まだ」
「う……はい……」
 やっぱり駄目かとかむしろフィラが運転する方が気が休まらないだろうかとかぐるぐる考えていたら、ジュリアンに軽く頭を小突かれる。
「まともな道に出るまでは俺が運転する。そこからは頼む。練習も兼ねてな」
「は、はい。お願いします!」
 思わず勢いよく答えてしまったフィラに穏やかな微笑を向けて、ジュリアンは運転席に乗り込んだ。

 まともな道、とは言うものの、舗装が整備されていたのはずいぶん前のことらしく、土に埋もれて雑草も生い茂る半分獣道みたいな道路だった。時折アドバイスをくれていたジュリアンが途中で目を閉じてしまったので、ここで事故るわけにいかないと気合いを入れて運転していたら、ようやく予定していた集落に辿り着いた頃にはフィラの肩は緊張ですっかり強張ってしまっていた。上半分が削り取られた亀の甲羅のような、やや歪な外壁に囲まれた居住区を前にこのまま入っていっても良いのだろうかと思案していると、それまで両腕を組んで目を閉じていたジュリアンがふっと目を覚ました。
「着いたか」
 寝起きの声でぼそりと呟く。
「は、はい」
「ここから運転を代わる。お前は念のため、後ろに隠れていてくれ」
 若い娘が顔を見せるのはやはりあまり良くないのだろう。フィラは素直に頷いて、ティナと一緒に後ろの居住部分に移動した。それから車はフィラが運転したときよりずいぶんとなめらかに移動して、少ししてから停止する。ジュリアンが運転席の窓から誰かとやりとりする気配がして、また移動が始まった。なんとなく息を殺しながら、フィラは車がどこかへ到着するのを待つ。
 また五分ほど走って、再び誰かとの会話を挟んでから車は止まった。落ち着かない気分でティナを撫でていると居住部分の扉が開いて、ジュリアンが顔を出す。
「着いたぞ」
 促されるままに車を降りると、そこは薄暗いガレージの中だった。周囲を照らし出しているのは、骨董品でもそうそう見かけないほど旧式の裸電球だ。形が歪だから、もしかしたら手作りなのかもしれない。
 数台止まっている他の車はフィラたちのキャンピングカーと比べてもずいぶん古ぼけていて傷や錆も多く、廃車寸前のものをどうにか誤魔化して使っているような風情があった。
 そこから裸のままぐちゃぐちゃになっている配線や腐食して穴の開いた配管が天井を走る通路を抜けて、傾いた急な階段を上る。階段の先の破れた布が貼り付けられた扉を開くと、そこはホテルのロビーだった。やはり歪な形の裸電球が天井から吊り下がり、すり切れて灰色になりかけたえんじ色の絨毯を照らしている。そこだけ妙に立派な大理石のカウンターの向こうには、威嚇するように牙を剥いた熊型天魔の首の剥製がかけられていて、その下にあまり手入れの行き届いていない髭をぼうぼうに伸ばした男が座っていた。
「いらっしゃいませ」
 背後の熊が唸ったのかと思ってしまうようなドスのきいた声で男が挨拶してくる。
「しばらく世話になる」
 ジュリアンもほとんど横柄なくらいの口調で答えながら、カウンターに歩み寄った。この場所では洗練された敬語は浮いてしまうからだろう。
「一部屋か二部屋か」
「一部屋」
「何泊だ」
「とりあえず二泊」
 訛りの強いとがった単語が間髪入れず行き来する間、フィラはじっと髭面の男を見ていた。見覚えが、あるような気がする。
「そっちの娘っ子は」
 最後に男は、じろりとフィラを見て尋ねた。
「妻だ」
 簡潔な答えに、男は目を見開く。
「妻だぁ!?」
 男はぎょろりとした灰色の目をフィラに向け、ぶしつけなほどじろじろと見た。
 ――やっぱり見覚えがある。その瞳の色を覚えている。
 じっと見つめ返すフィラに、男は少したじろいだようだった。
「あの……」
 ジュリアンにちらりと視線をやると、彼はフィラの予想に確信を与えるように頷いてくれる。
「私、以前ここに来たことがあると思うんです」
「何だと……?」
 あり得ないとでも言いたげに、男は渋面を作った。
「おひげのおじさん、ですよね?」
 今さら小さい頃の呼び名を使うのも恥ずかしかったけれど、名前を知らないのだから仕方がない。
「まさか……」
 見開かれた灰色の瞳に理解の色が浮かぶのを、フィラはどこかくすぐったいような気持ちで見つめる。
「覚えて……らっしゃいますか?」
 答えがわかっていても、期待を込めて尋ねずにはいられなかった。髭面の男は「は、はは……」とどこか呆然とした笑いを零す。
「わ、忘れるわけがねえ。こんな掃きだめにガキを連れてくる非常識なんざ一人だけだ」
 半分立ち上がりかけていた男は、深々と息をつきながらまた座り込んだ。
「しかし……旦那、いったいどうやって」
「客に事情を聞かないのがここの流儀だろう」
 平然と流すジュリアンに、男もまたいつもの調子を思い出したように表情を消す。
「……その通りだ。部屋は二階だ。食事は出さねえ。勝手に調達しな」
「ああ。ありがとう」
 ジュリアンは頷いて、男がカウンターの上に放り投げた鍵を受け取った。