第三話 無給休暇

 3-5 エステル・フロベール

 旅は順調だった。天魔と交戦する羽目にも今のところなっていないし、食べ物や飲み物にも困らない。
 出来るだけゴミや洗い物を出さないようにと、食事は調理せずにすむ携帯食料が中心だったけれど、キースたちが心を砕いてくれたのか味は悪くなかった。日持ちのする根菜や果物や乾物も少しあったので、時々はそれを使ったアウトドア料理を楽しむことも出来た。
 車に積んであるバッテリーはジュリアンが魔術で充電出来たが、それでも無制限に使うわけにはいかない。魔力も体力も無駄遣いは出来ないし、竜化症の悪化も心配だった。
 そんなわけで調理をするときも、フィラは薪を集めて火をおこすところから始めた。魔術が使えないフィラと魔術が苦手なエステルが旅をしていた頃は、貴重なガスや電気を節約するためによくやっていたことだ。
 ジュリアンもサバイバル訓練で一通りのことは叩き込まれたらしいが、実際魔術を使わずにそんなことをしたのは訓練の時以来で懐かしいと笑っていた。
 野外生活や長い長い運転の最中、二人でいろんなことを話した。まずは違法居住区の成り立ち。WRUから流れてきた脱走兵たちと聖騎士団が、熾烈な闘争の末に妥協点を見出して、奇妙な協力関係に落ち着いたこと。それが各地にある違法居住区となり、そこに光王庁では存在を認められていない戦災孤児や犯罪者たちが集まって少しずつ集落が大きくなっていったこと。光王庁からは独立した組織である賞金稼ぎギルドがそこに食い込み、光王庁で制御しきれない戦力を上手く使って天魔に対抗する手段の一つとしていったこと。
 ジュリアンからそんな話を聞きながら、フィラも以前旅した先で見聞きしたことを話した。子どものいる居住区と子どもを全然見かけない居住区があることには、幼いながらも気付いていたこと。エステルはそれについては説明してはくれなかったけれど、子どものいない居住区でフィラを可愛がってくれる人には、積極的にフィラを預け、交流させてくれていたこと。
 どうしてエステルがあちこちを旅していたのかは、フィラにはわからない。そういう話を真面目にしてくれる人ではなかった。いつだってエステルは気まぐれで、行きたいと思ったところにふらっと行ってしまうような人だった。それはフィラを引き取る前からずっとそうだったらしい。
 フィラが一人で留守番出来るようになると、ティナを子守に残して数日間帰らない日もあった。そんな風に自由に生きていたエステルが、なぜフィラを引き取ったのかもわからない。思い返してみると、ずっと一緒に暮らしていたのにエステルのことはわからないことばかりだった。
「もしお前がエステル・フロベールに引き取られていなかったら」
 これ以上進むと安全に休める場所がなくなる、という理由で、賞金稼ぎたちが利用するシェルターに宿泊することになった夜。井戸とかまどが使えるからとフィラが作ったシチューを味わいながら、ジュリアンは言った。
「お前はたぶん、『飢えた子ども』になっていたんだろう」
 フィラとフィアがいた孤児院は、フィラが引き取られたときにはもう経営が破綻しかけていたらしい。あっという間に軍に引き取られていったフィアと違って、魔力のないフィラは持て余されていた。
「先生は……それを知って私を引き取ったんでしょうか」
「可能性はあるな」
 二杯目のシチューを美味しそうに飲んで、ジュリアンは穏やかに微笑した。
 地面をならしてコンクリートの壁と天井を設置しただけのシェルターは、とにかく天魔の襲撃を避けられれば良いという雰囲気の殺風景なものだ。結界を張るための魔術式は用意されていたが、そこに流す魔力は自力で調達しなければならない。術式を一目見たジュリアンが「効率が悪い」と言って書き換えたのはここに到着してすぐの話だ。それから車をシェルターの中に引き込み、積んであった魔竜石で結界を維持することになった。そもそも発動のさせ方がわからないと笑っていたエステルと旅していた頃と比べると、段違いの安心感だ。ジュリアンがそんな作業をしている間に、フィラは火をおこしてシチューを作ったのだった。
「エステル・フロベールの人間関係についても調査はした」
 空になった皿を綺麗に食べ尽くされた鍋の中にまとめながら、ジュリアンは記憶を辿るように呟く。
「あまりに交友関係が広いので、リタとの接点があるとしたらそちらかと思ったんだが」
「もしかして、全部調べたんですか?」
 エステルの交友関係なんて、フィラだってたぶん半分も把握できていない。
「まあ、リタと繋がりそうな所は」
 少し気まずそうなジュリアンに、フィラは少しだけ身を乗り出す。
「実は昔からちょっと疑ってたんですけど」
 ジュリアンとティナの他に誰が聞いているわけでもないのに、何となく声をひそめてしまった。
「先生って、もしかしてスパイだったんですか?」
 視界の隅でティナがぴくりと耳を動かしたのを感じながら、じっとジュリアンの目を見つめる。
「……違う、とは言い切れないな」
 ジュリアンはフィラの真意を探るように目を細めてから、とてもジュリアンらしい答えを返してきた。
「スパイそのものではない。第三特殊任務部隊《レイリス》に情報を提供する人間が雇っている情報屋に、情報を売っていたことがある、という程度だ」
 やけに細かい補足説明がついてくるのも予想通りだ。
「各地を旅していたし、行く先々に知り合いも多かったから、有用な情報が集まる人物ではあったんだろう。天才音楽家として幼い頃から注目されていながら、成人後はあまり舞台に立つことを好まず各地の路上で音楽を聴かせていたが……そういう生き方をすると本人が公言していたこともあって、スパイだと疑われることはそれほどなかったはずだ」
「それほど……」
 たぶん出来るだけ正確に情報を伝えようとしてくれているジュリアンの言葉を、フィラは繰り返す。
「全くなかったわけじゃないんですね」
「ああ。覚えがあるみたいだな」
 あっさり頷いたジュリアンに、少しだけほっとした。
 エステルが何も教えてくれなかったのは、たぶんフィラが子どもだったからだ。エステルがもし生きていたら、今のフィラには教えてくれただろうか。考えても答えが出るわけはないけれど、ジュリアンが話しても良いと思ってくれたなら、エステルも駄目とは言わない気がする。何の根拠もないけれど、何となくそう思う。
「時々光王庁の関係者っぽい人に呼ばれていくことがあったから……それでスパイなんじゃないかって疑うようになったんです。でも、先生は聞いても何も教えてくれませんでした。やましいことはないし、あっても私を関わらせるつもりはないからって」
「それは……そうだと言っているようなものだな」
 ジュリアンが複雑そうなのは、そういう言い方に思い当たる節があるからかもしれない。
「やっぱりそうですよね」
 食事が終わったのを見て膝に乗ってきたティナを撫でながら、フィラは微笑んだ。
「だから、そんな嘘が下手じゃスパイなんか務まらないんじゃないかって無理矢理思うようにしてたんです」
 エステルが光王庁の軍部や光王親衛隊から高圧的に呼び出されても、きっと誤解だと自分に言い聞かせていた頃を思い出す。育ての親が悪いことをしているかもしれない、とは、やっぱり思いたくなかった。フィラにとってのエステルは、ただ一人フィラのことを守ってくれる人で、尊敬すべき師匠だったのだから。
「実際、本職のスパイではないしな。法に抵触するようなことも……していなくはないが、わざわざ取り締まるほどのものでもない」
 その気持ちがわかっているみたいに、ジュリアンは安心させるような言葉をくれて、それからふと悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「法に照らし合わせて考えると、俺たちの方が余程悪人だな」
「そういえばそうですね」
 エステルがしていたことといえばせいぜい違法居住区に出入りしていたことくらいだろうが、今のフィラたちはそれどころか光王庁からとんでもないものを盗み出して逃亡中で、おまけに身分や名前まで偽っている。
「あ、そう言えば名前、気をつけないといけなかったんですよね」
「ああ。今は良いが、どこか居住区に立ち寄るときには気をつけないとな」
「『団長』は間違えなさそうですけど」
 わざと呼び方を変えると、ジュリアンは苦笑した。
「その呼び方、久しぶりだな」
「せっかく直したのにまた逆戻りですね」
 名前で呼ぶまでの葛藤を思い出して、フィラも微妙な笑みを浮かべる。
「そう言えば努力するとか言ってたな。いったいどんな努力を……」
「聞かないでください!」
 フィラはティナを放り出す勢いで立ち上がって、まとめてあった食器と鍋を取り上げた。そのままシェルターの隅にある井戸の前の洗い場へ向かい、猛然と食器類を洗い始める。すぐにジュリアンが隣に来て、無言で洗い終わった皿を拭き始めた。
「二日後くらいに少し規模の大きい居住区に到着する予定だが、その周辺の大農場にも住んでいる人間が多い」
「大農場って……天魔は大丈夫なんですか?」
 皿を手渡しながら、フィラは小さく眉根を寄せる。
「余り大丈夫ではないな。だからこそ、大地主が自分で腕の立つ者を雇い、結界を張って維持しているケースが多い。大きい居住区だと自警団がかなり広範囲の天魔を警戒しているから、そういうやや脆弱な結界でも対応できる可能性が高いんだ。結界の中に住めないような人間が集まってくることも多いようだが……」
「そう……ですよね」
 中央省庁区の人口ももう飽和状態だと言われている。WRUの脱走兵でなくても、結界の中に居場所を得られない人々もいるのだ。そういう人々が少しでも天魔のいない安全な場所を目指すとしたら、やはりまず最初に考えるのは規模の大きい居住区の近く、ということになるのだろう。
「大農場の傭兵の中には野盗まがいの人間もいる。用心のために、明日と明後日は俺が運転しよう」
「わかりました」
 ここまでも、フィラが運転を任されたのは天魔と出会う可能性が低い場所や時間帯のみだった。道路は舗装されているとは言ってもあまり手入れされていないので、スピードを出していると時々ひっくり返りそうになってしまうくらい揺れる。ジュリアンが運転するともっと速度が出ていてもあまり揺れないので、真っ直ぐの一本道でも運転技術の差は出るのかと驚いた。つまり、いざというときに逃げることを考えるともちろん運転は任せてしまった方が良い。
「すみません……そ、その分美味しいもの作りますね!」
 一瞬しょんぼりしかけたフィラは、明日の朝もかまどが使えるから久しぶりにパンを焼くつもりだったこともあって、つい力を込めて宣言してしまう。
「楽しみにしている」
 一瞬目を丸くしたジュリアンは、すぐに破顔して頷いた。

 朝食に焼きたてのパンとチーズと卵で作ったサンドイッチを食べてから、また朝早くに出発する。
 地平線の彼方まで続く荒野と灰色の空。風の音しかない静まりかえった世界には、荒れた道が一本だけ続く。ラジオが圏外だったので、眠気覚ましに何か演奏してくれと頼まれたフィラは、なぜか車に積んであったソプラノウクレレくらいの大きさの小型のギターを弾いていた。
「ギターも上手いんだな」
 運転しながらジュリアンが意外そうに呟く。
「旅の間、先生とギターやアコーディオンを演奏して日銭を稼いだりしてたんです。久しぶり過ぎてだいぶ忘れちゃってますけど」
 そこまで話したところで、フィラは道の先にトラクターが走っているのに気付いた。キャンピングカーの半分も速度が出ていないから、すぐに追いつくだろう。
「農場の車ですかね?」
「そうだろうな」
 こちらに気付いて路肩に寄ってくれたトラクターに、ジュリアンもスピードを落とした。
「ありがとう」
 窓を開けてジュリアンが片手を上げると、トラクターに乗っていた農夫が顔を上げた。所々抜けた歯と荒れた肌のあまり栄養状態の良くなさそうな男だったが、にかっと笑った表情は何だか楽しそうだ。
「いよう兄ちゃん、賞金稼ぎかい?」
「ああ、そうだ」
 ディーゼルエンジンの騒音に負けない声で怒鳴ってきた農夫にジュリアンが怒鳴り返すと、男は後ろからごそごそと何かビラを取り出した。
「兄ちゃん強そうだからな。これやるよ」
 ジュリアンが受け取ったビラをそのまま手渡されたフィラは、興味津々にそれを覗き込む。
「……ドライブインシアター?」
 いかにも手作りな雰囲気のビラには、大きな文字で『ドライブインシアター』と書かれている。
「『ローマの休日』。西暦一九五三年に公開された恋愛映画……これ、上映するんですか?」
 助手席から尋ねたフィラに、農夫は愛想良い笑顔を向けた。
「そうだよ! 月一でやってるんだがあんたら運が良いよ。今日の夜からだ。今から町の方に行くんだったらちょうどその辺で野営だろう。夜間の警備をしてくれる賞金稼ぎなら半額で入れてくれるから行ってみると良い。ここだけの話、水道もタダで使わせてもらえるからね」
 ここだけの話というには大声で、農夫は告げる。
「それは助かるな。情報感謝する」
「なんの! うちの農場主の道楽なんだがね、客が大入りだとご機嫌になるからよ! ぜひ行ってやってくれや!」
 ジュリアンが再び車を加速させて、農夫は「気をつけてなー」と叫びながら手を振ってくれた。フィラも「ありがとうございます」と叫び返しながら、手を振り返す。
 それから改めて、もらったビラに目を落とした。
「車に乗ったまま見る映画館、みたいですね」
「場所は?」
「えっと……確かに今日泊まる予定の場所付近みたいです」
 時々確認していた旅用の地図とビラに書かれた地図の縮尺を見比べながら、フィラは頷く。
「じゃあ行ってみるか。ちょっと面白そうだしな」
「はい!」
 変わった映画館のことも、ジュリアンと映画を見られるということもどちらも楽しみで、フィラは元気よく頷いた。