第三話 無給休暇

 3-6 モノクロームの平面映画

 わざわざ居住区から一日の距離を出てきた人々もいるのかもしれない。宵闇が迫ってくる頃に訪れたドライブインシアターには、もうずいぶんと車が入っていた。広い駐車場を外灯が明るく照らし出している様は、とても個人が運営しているとは思えない雰囲気だ。ここの農場の主は余程羽振りが良いのだろう。
 入り口で身分証明書として賞金稼ぎギルドが発行するライセンスカードを見せたジュリアンは、さっき出会った農夫が教えてくれた通り半額の入場料を払って、駐車している車の後ろの方に回る。周辺の農場で雇われているらしい男女が背の低い車が前になるように誘導していて、それを察して後ろに回ったジュリアンに良い笑顔で親指を立てて見せた。
 ジュリアンは車を止めると、入口で手渡されたやはり手作りらしい冊子を見ながらカーステレオの周波数を調整し、音声を拾う。やや滑舌の悪い女性の声が、上映中の注意や周辺の施設についての説明をぼそぼそと繰り返している。
「何だかわくわくしますね」
 性分なのか、わざわざ眼鏡をかけて冊子を隅から隅まで読んでいるジュリアンにフィラは笑いかけた。
「ああ、そうだな。結局映画館にも行ったことなかったから」
 パンフレットから顔を上げたジュリアンに、フィラは目を見開く。
「そうなんですか?」
 確かにあまり行く機会はなさそうだが、大学時代にはあったんじゃないかと思っていた。
「ランティスには何度か誘われたんだが、タイミングが合わなかったんだ」
「なるほど……」
 言葉には納得しつつも腑に落ちないのは、ジュリアンがフィラよりも余程落ち着いて見えることだ。
「それにしてはスムーズでしたよね。移動とか、音の調整とか」
「まあ、だいたい並んでいる車の方向と法則から推測すれば……何がおかしい」
 フィラが途中で笑い出したのに気づいて、ジュリアンは眉根を寄せた。
「いや、さすがだなあって」
「さすがって何が……」
「どうせのろけでしょ」
 不審そうに問い返そうとしたジュリアンを、ティナが遮る。
「それよりさ、映画館って何の意味があるの? 家で見るのと違うわけ?」
 フィラの膝からもぞもぞと運転席と助手席の間のクーラーボックスによじ登ったティナは、不思議そうにフロントガラスの向こうを眺めた。
「もっと知らない人がいた……」
「純粋に興味なかったんだろ」
 ジュリアンが再びパンフレットに視線を落としながら呟く。
「それもそうなんだけどさ。猫の格好だと入れてもらえなかったんだよね。姿消してまでついてくほど興味なかったし。エステルが見たがる映画ってろくなもんじゃなさそうだったし」
「そうなの?」
「うん。フィラと見に行くときはかっこつけてたみたいだけど、一人で行くときはだいたいエむごっ」
 ジュリアンがものすごい速さでティナの口をふさいだが、だいたい察しはついてしまった。
「……先生、自分の欲望に忠実だったんですね……」
 知りたくはなかったが、だいたいわかってはいたことだ。ジュリアンは気まずそうにパンフレットを睨み付けている。
「えっと、そういえばスクリーンが見当たりませんけど」
 前方に何か舞台みたいなものは見えるけれど、その上には何もない。ビラを見た印象から、立体ホログラムではなくてスクリーンに投影するレトロな上映方法なのかと思っていたのだけれど。
「ああ……魔術でウォータースクリーンを維持してそこに投影するらしいな。上映が月一回で水の神と契約しているなら不経済というほどではないか」
 いつの間にか上映方法まで把握していたジュリアンが答える。パンフレットを見ながらそんなことを考えていたのかと思うとやっぱりちょっとおかしい。興奮しているせいか笑いの沸点が低くなっているフィラは、またうっかり笑い出しそうになった。その様子をティナが不満そうに見上げる。
「で、家で見るのとどう違うの? 光王庁のあの部屋の方が綺麗に聞こえるし綺麗に見えそうなんだけど?」
 どうやらさっきの疑問に答えてもらえなかったことに納得がいっていないらしい。
「あれはランティスが選んだ設備だから、たぶん一般家庭には当てはまらないぞ。普通はもっと控えめな設備のはずだ」
「ふうん……まあ、確かにエステルが持ってたモニターはほとんど掌サイズだったね」
 そんな会話が続くうちに、駐車場を照らしていた外灯が消えた。
「あ、始まりますよ」
 カーステレオから流れる案内が始まりを告げる音楽に変わる。前方の舞台裏からさあっと水が流れる微かな音がして、薄青い光に照らされた水幕が空中に浮かび上がる。噴水のように白く煙る細かい水滴に映し出された映像は、意外と荒さも揺らぎもない。それでも立体ホログラムよりは少しだけ揺らぐから、それが幻想的な雰囲気を醸し出していた。
「……意外と良いかもね」
 クーラーボックスの上で箱座りをしながら、ティナが感想を述べる。星も月も街の明かりもない夜空の中で、浮かび上がる水のスクリーンはとても綺麗だ。調子を確かめるようにいくつかの幾何学的な模様が映し出された後、カーステレオから流れ続けていたのと同じ注意や施設の案内が軽快な音楽と共に映し出された。それから一瞬の暗転をおいて、身構える間もなく映画が始まる。
 戦勝記念碑だろうか。石に刻まれた戦士や戦車のレリーフを背景に浮かび上がる白黒の文字で映画は始まった。次々と映し出される知らない街の風景に、フィラは思わず見とれてしまう。白黒で細部はぼやけているけれど、くっきりとした陰影は太陽の光を感じさせる。今のこの世界にはない強い光が、今では辿り着くことも難しくなってしまった遠い大陸の遠い都を照らし出す。その数百年前の、在りし日の姿を。
「女優さん、綺麗ですね」
 車の中だから、普通の映画館と違って会話をするのは自由だ。自宅とも映画館とも違うこの雰囲気は、ドライブインシアターに独特のものなのかもしれない。映し出されているのは、ローマを訪れた王女が舞踏会に出るシーンだった。使われている言葉は古いけれど、ちゃんと字幕がついているので話がわからなくなることはない。
「ああ。かなり背が高そうだな」
 明らかに人物より背景の方に気を取られているらしいジュリアンが、ややピントのずれた返答を寄越す。美人がダンスしているシーンにその感想はどうだろう、と思いながら、映画は続いていく。
 過密スケジュールに嫌気が差した王女が泣き出すシーンで、ジュリアンはぼそりと「リタを思い出すな」と呟いた。
「あんな感じだったんですか?」
「顔立ちは違うが……行動はだいぶ……」
 複雑そうにスクリーンを見つめるジュリアンが、なんとなく兄目線になっている気がする。
「王女様、お転婆ですね」
 やがて宮殿を抜け出してしまった王女に、フィラは思わず感想を漏らした。
「リタもああやって抜け出してたんだろうな……」
 深々とため息をつくジュリアンは、やっぱりなんだか映画とは違うところでダメージを受けているみたいだ。
「もしかして、警備体制について考えてたりします?」
「……若干」
 スクリーンを睨み付けるジュリアンは、割と本気で心配そうだった。
「職業病ですね」
 それと兄心がない交ぜになっているのだろう。コメディ調の映画を素直に楽しめないジュリアンに、フィラは密かに同情した。
「まったくだ。もう失業したのにな」
 自分でも自覚はあるのか、ジュリアンはまた重いため息をつく。
「転職ってことにしておきましょうよ、一応ほら、賞金稼ぎなんですし」
 小声で感想を話し合い、途中で用意してあった夕食も取りながら映画を見る。旅先なのに、まるで光王庁の部屋にいるときのようなのんびりとした時間だった。
 宮殿を抜け出した王女は相手役の男性と出会い、ローマを観光していく。どたばたとしたコミカルなシナリオと、次々に映し出される風景の中に混じる古代の遺跡。
「あれ、二千年以上前のものなんですよね?」
「ああ。古代ローマの遺跡だからな」
 フィラが尋ねると、ジュリアンはその遺跡が何なのか教えてくれる。フィラは知らなかったのだが、どうやら有名な遺跡ばかりらしい。
「ローマに行ってみたくなりますね」
 本当に一日で回れる範囲にあの遺跡群があるのかと思うと、何だかものすごい所のような気がした。
「そうだな……海を渡れるようになったら計画してみるか」
 ごく自然に零れ落ちた未来の約束が嬉しくて、フィラは微笑む。そのままスクリーンに視線を戻すと、ちょうど大きな顔の前で主役二人が話しているところだった。嘘つきが手を入れると噛まれるという伝説があるという、大きな顔の口の中に男が手を突っ込み、噛まれたふりをして王女を驚かしている。
「……あの悪戯、ジュリアンもやりそうですね」
 気恥ずかしさに何か言おうと思って、とりあえず思いついたことを口に出した。
「お前は俺を何だと思ってるんだ」
 あの男は何をやっているんだ的な視線でスクリーンを睨み付けていたジュリアンが、不本意そうに答える。
「やらないですか?」
 問い返すとジュリアンは無言で考え始めた。なんとなく、ああいう機会があったら仕掛けてきそうな気配がある。そう思って尋ねたのだが、即答ではなく考え込んでいる時点でやっぱり怪しかった。
「……出来なくはない」
 考え込んだ末に、ジュリアンはどうしようもない答えを返してくる。
「……やるってことですね」
「その可能性はあるな」
 ジュリアンが気まずそうにぼそりと呟いた瞬間、ティナが憤然と立ち上がった。
「否定しないとか! 顔面十字にひっかいてやりたい!」
 毛を逆立てて牙まで剥いたティナの頭を、ジュリアンは半分抑えつけるように撫でる。
「する予定はないからやめてくれ」
「あってたまるか!」
 仰向けに身を捩ったティナは、ジュリアンの手に猫パンチを連続でお見舞いした。
「そもそも俺は本当に噛まれそうだ」
「ほんとだよ! 顔が噛まないなら僕が噛む!」
 猫パンチを繰り出しつつ宣言通り甘噛みも始めたティナの喉を、ジュリアンはスクリーンを見つめたままくすぐり始める。
「いや、何言ってるんですか……」
 じゃれ合う一人と一匹に、フィラは思わず半眼になってしまった。

 やがて楽しい時間は終わり、王女はもとの世界へ戻っていく。ジュリアンはやっぱり最後までリタのことを思い出していたようで、複雑な表情をしていた。
 映画の余韻が消えるのを待って、スクリーンは維持する力を失ったようにさっと飛沫になって落ち、それまで消えていた外灯が点る。帰れる距離から来ていたのだろう車は三々五々駐車場を出て行き、そうでない人々は併設されている宿泊施設に移動していった。ジュリアンやフィラのように中で宿泊できる大きさの車は、まだ数台残っている。
 そうして周囲に静けさが満ち始めた頃、二人は前部座席から降り、細々とした用事を片付け始めた。無料で使わせてもらえる貴重な水をありがたく利用して、溜まっていた洗い物を片付け、シャワーを浴びて寝る支度をする。いつものように簡易寝台を引き出し、念のために車を守る結界を張ると、もう今日の仕事は終わりだ。
 人心地ついてから、さっきの映画の感想を話し合った。とは言っても、恋愛ものだった映画の内容に関しては二人とも照れてしまうので、話題はローマの観光地と映画館のことばかりになってしまう。
「映画館にはよく行ってたのか?」
 狭い簡易寝台で寒さを避けるように身を寄せ合いながら、ジュリアンが尋ねた。昼の日照が足りないせいか、春が深まっても夜は寒い。
「そうですね……よくってほどじゃないんですけど、一年か……二年に一回くらいは」
 庶民にとってはかなり割高な娯楽だったので、それでもたぶん多い方だ。
「そんなものか……ランティスは学生時代には月に一回は見に行っていたみたいだが」
「ランティスさんは好きそうですよね」
 映画自体もそうだが、映画館の設備や音響なんかも楽しんでいそうなイメージがある。聖騎士団に入る前のランティスの生活は知らないけれど、多少無理しても見に行きそうだ。
「好きなんだろうな、たぶん。しかし一度映画館帰りのランティスとアランの会話を聞いたことがあるが、あれは映画の感想じゃなかったぞ」
「えっと、つまり、もしかして……」
「主に映画館の設備と使われている魔導技術の感想だった」
「……わあ、やっぱり」
 予想通りすぎてちょっとおかしかった。ジュリアンならついて行けそうだが、フィラにはまったく理解出来なさそうな世界だ。いや、聞いてみたらみたで面白い話が聞けそうではあるけれど。
「設備も上映する映画そのものも、中央省庁区の映画館とここではだいぶ違うようだな」
「そうですね。映画館で平面映画って、私も初めて見ました」
 中央省庁区の映画館で上映するような映画はごく最近撮影されたものだ。平面映画が撮られていたのは風霊戦争よりかなり前の話で、今では趣味で撮影してネットワーク上に流している人間が一握りいるくらいだろうか。
「元のデータを探すのも大変そうだな。ほとんど考古学の域だ」
 考古学という表現がまたジュリアンらしくて小さく笑いながら、ふとリタのことを思い出す。
「リタと、映画一緒に見に行きたいねって話をしたことがあります」
 笑いを消して呟くと、先を促すようにジュリアンがそっと背中を撫でた。
「さすがに無理だったので、携帯端末で一緒に見てたんですけど」
「どんな感想を言ってたんだ?」
 問いかけるジュリアンに、フィラは悪戯っぽく声をひそめる。
「だいたいヒーローの悪口でした。最後には認めることが多かったですけどね」
「……なるほど」
 同じような調子で自分も悪口を言われていたのだろうということを察したらしいジュリアンは、複雑そうに――けれどどこかほっとしたようにため息をついた。