第四話 イルキスの樹

 4-4 交渉

 複雑に入り組んだ階段や回廊を、ジュリアンは人目を避けて進んでいく。抜き身の剣を手にした賞金稼ぎの姿は、誰かに見られたら即悲鳴を上げられそうなのだが、正確に気配を読んで裏道を通っているせいか、誰にも見とがめられることはなかった。いつの間に地理を把握したのか、その足取りにも迷いはない。
 ジュリアンに手を引かれながら、フィラはさっきのジュリアンと男たちの会話を思い出していた。
 客人を生け贄として捧げれば、イルキスの神は豊穣の力を取り戻す。巫女がそう言ったから、男たちはフィラをジュリアンから引き離して捕らえようとした。しかし、ジュリアンの推測が確かならば、巫女はイルキスの樹の声を聞くことが出来ていないはずだ。だとしたら、その生け贄という発想はどこから出てきたのだろう。先ほどの様子からするとジュリアンには何か思い当たる節があるのかもしれないが、いつになく険しい表情で人の気配を窺いながら歩いて行くジュリアンに尋ねることは出来なかった。
 細い通路や柵のない狭い階段を通り、やがてフィラにも見覚えのある螺旋階段に辿り着いた。巫女の所へ案内されたときに通った、恐らくこの集落ではメインストリートに当たるのだろう広い階段だ。ここより上には巫女の座所しかないせいか、普通の住民の姿は見当たらない。
「フィラ」
 ジュリアンが間近にいるフィラでもやっと聞き取れるくらいの小声で囁いた。
「巫女の部屋の前では、さすがに戦闘になる。できるだけすぐに終わらせるが、もし乱戦になったら壁際に寄って、巻き込まれないようにしていてくれ」
「はい」
 フィラは声を押し殺しながら神妙に頷く。戦闘が始まってしまえば、フィラにできるのは邪魔にならないように気をつけて立ち位置を確保することくらいだ。
 ジュリアンは大丈夫だと言うように淡い笑みを浮かべてから、一人先行して螺旋階段のカーブに身を潜めた。恐らく扉の前の見張りの気配を窺いながら巧妙に擬装された魔術式を展開させているのだろう。壁に張り付いたフィラを守るように、ティナも姿勢を低くして身構える。
 そしてジュリアンは、ふっと音もなく消えた。一瞬置いて何か鈍い音。ほとんど聞き分け出来ないほどのスピードだったけれど恐らく二発。次いで何かが倒れるような音がやはり続けざまに二回聞こえて――それで終わりだった。どうやら乱戦になりようもないほど一瞬で勝負はついたらしい。
 ティナに促されてそうっと階段を上ると、扉の前にジュリアンが立っているのが見えた。その足下には、大柄な男が二人のされている。ジュリアンはフィラに気づくと、どこか呆れたように淡く微笑んだ。
「巫女の話し方と言い、さっきの手口と言い、どうも詰めが甘いな」
 柔らかな口調で下された手厳しい意見に、フィラは思わず苦笑いを浮かべる。権謀術数渦巻く光王庁で政治と宗教に関わっているとそういう感想になるのだろうか。フィラだけだったら、警戒していてもきっとどうにもならなかったと思うのだけれど。
「とにかく、話を聞こう」
 ジュリアンはふっと笑みを消して、巫女の座所に続く扉を開く。さっきと同じ場所に座っていた巫女は、それに反応して顔を上げ、外の物音に気づいていなかったのかはっと表情を強張らせた。
「な、何故……」
「それはこちらの台詞だ」
 ジュリアンは冷たく巫女の疑問を一蹴する。フィラでさえ震え上がりそうになるような声と視線だったけれど、でもさっきまでの様子からそれが演技だということはわかる。
「まず確認しておきたい。イルキスの声が聞こえなくなったのと、子どもが生まれなくなり作物の生産量が減り始めたのは共に五年から六年前。これは間違いないな?」
 ほとんど断定するようなジュリアンに、巫女はほとんど平伏しそうな勢いで頷く。その瞳に浮かんでいるのは、紛れもない恐怖だ。無理もない。さっきまでのジュリアンを見ていなければ、本物の殺気を向けられているとしか思えないだろう。
「な、何故……」
 酸素を求める魚のように口をぱくぱくさせながら、巫女は先ほどと同じ台詞をどうにか絞り出した。
「質問しているのはこちらだ」
 対するジュリアンの答えも、先ほどと同じように容赦ない。どうやら巫女に主導権を渡すつもりは欠片もないようだった。恐らく聖騎士団団長だった頃には使わなかったはずの強圧的な交渉の手法。立場も後ろ盾もない今は実力と雰囲気だけで渡り合わなければならないから、わざと威圧するような態度を取っているのかもしれない。
「イルキスに力を取り戻してもらうために旅人を生け贄に捧げるという発想はどこから出た?」
「それは、イルキス様ご自身が」
「嘘をつくな」
 最後まで言わせることなく、静かだけれどフィラも一瞬どきりとするほど鋭い声でジュリアンは巫女の言葉を遮った。ひゅっと音を立てて息を吸い込んだ巫女は、顔面を蒼白にしてジュリアンを見上げる。
「お前はイルキスの声を聞くことが出来ない。生け贄を捧げればイルキスの力が復活するかもしれないと思った理由は別にあるはずだ」
 ジュリアンの声は確信に満ちていた。根拠があるのかはったりなのかは、フィラにもさっぱりわからない。
「先代の……み、巫女様が、半年ほど前にイルキス様の……本体に力を借りてくると言って、我が身を生け贄に捧げたのです。しかしイルキス様の力は蘇らず、私も……私も、先代の巫女様の後でイルキス様と契約を結び、その任を引き継ぐよう言われていたにもかかわらず、声を聞くことすら能わず……」
 巫女は震える声で、切々と訴えるようにジュリアンを見上げる。
「旅の方、あなたはイルキスの声を聞くことが出来るのですか? 出来るのなら、どうか我らを……」
 縋るような瞳を、ジュリアンは冷たい表情を崩さないまま見つめ返した。
「生け贄にされかけた上に妻を手籠めにされそうになったのに、救ってやる義理があるとでも?」
 ジュリアンが高圧的な態度に出ているのは交渉で優位に立つため、のはずなのだが、何だかそれ以上の怒気を感じる。というより、問題はその内容――
「えっ!?」
 一拍遅れて驚いたフィラに、ジュリアンは一瞬ものすごい後悔の表情を浮かべた。「気づいてないなら言うんじゃなかった」と顔に書いてある。しかし、フィラにはそれについて冷静に考えている余裕などない。
「それって……つまり……」
 つまり、魔力の高いジュリアンを生け贄に捧げて、フィラは数年間生まれなかった子どもを一人でも多く産ませるために誰かにあてがうつもりだった、ということだろうか。
 すうっと血の気が引いていくのを感じた。さっきジュリアンが来てくれなかったらどうなっていたことか、考えたくもない。思わず身を引いて壁に貼り付いてしまったフィラに、ジュリアンはため息をついた。
「そういうことだ。協力してやる義理はない」
 巫女の表情が絶望に染まる。ジュリアンがこの交渉の行方をどちらへ持っていこうとしているのかわからなくて、フィラは壁に貼り付いたまま対峙する二人の表情を見比べた。
「そんな……それでは、私たちは……この樹に生きる皆は……」
 俯いて唇を噛みしめた巫女に、ジュリアンはふっと険しい表情を緩める。その瞳に浮かぶのは、たぶん憐れみではない。痛み、悲しみ、そして迷い、だろうか。
「手段は他にもあったはずだ。賞金稼ぎギルドに依頼を出すことも、光王庁に救いを求めることも」
「彼らが何をしてくれると言うのです!?」
 顔を上げた巫女の瞳から、涙が溢れ出す。張り詰めていた何かがふつりと切れてしまったように、涙は次から次へとあふれ、巫女は顔を覆って嗚咽を漏らした。
「少なくとも、ここを訪れる旅人を狙うよりは解決に繋がる可能性も被害を被る可能性も低かっただろう。わかっていないようだが、こんな所まで来るような賞金稼ぎや商人は相当な実力の持ち主だ。先ほど俺たちを襲ったような練度では、到底敵うはずがない」
 感情的に叫んだ巫女に対して、ジュリアンはどこまでも冷静で理性的だ。
「我々は滅びるしかないと言うのですか!? 諦めて、座して死を待てと!?」
 顔を覆ったまま、巫女は幼い子どものように首を横に振って叫ぶ。ジュリアンの声など、ほとんど耳に入っていないようだ。
「諦めろなどとは言っていない。生き続ける権利は誰にでもある。だが、努力の方向を誤れば、それは滅びを早めるだけだ」
 それでもジュリアンは辛抱強く話し続ける。
「旅人を襲ったなどと知られれば、それこそここを訪れる者はいなくなる。場合によっては、それを理由に光王庁が支配力を強める可能性もあるだろう。皆の命を預かるなら、そんな危険を呼び込むような短絡的な手段を取るべきではない」
 話している間に、巫女の気持ちは少しだけ落ち着いてきたようだった。泣いて感情を発散したせいかもしれない。
「どうしたら……良かったのですか……」
 気づいたジュリアンが沈黙の間を取ると、巫女はぽつりとそう呟いた。
「こちらの要求は一夜の宿、滞在中の安全の保証、レプカ一頭、一ヶ月分の水と食料だ。そちらの要求は?」
「……え……?」
 独り言のつもりだったのか、答えが返ってくるとは思わなかったというように巫女は顔を上げて目を見開く。
「こちらの要求に見合う内容であれば、協力しても良い」
「内容……要求……?」
「具体的に、俺たちにしてほしいことは?」
 巫女は狼狽した表情で救いを求めるように視線をさまよわせ、けれどやがて膝をじっと見つめて考え始めた。
「……こうなった原因と……解決策が、あるのなら……」
 絞り出すように告げられた言葉に、ジュリアンは微かにほっとしたようなため息をつく。
「了解した。とりあえず原因の調査は引き受けよう。解決策については、原因を突き止めてからまた交渉させてもらう」
 ジュリアンは初めからそうするつもりだったように迷いなく答えると、フィラの前で行儀良く成り行きを見守っていたティナにちらりと視線を送る。ティナはジュリアンの視線に気づくと、これ見よがしにため息をついて見せた。
「こんな連中に情けをかけるなんて、君、お人好しがうつったんじゃない? いいけどさ。戻るまでここには誰も近付けないから、安心して行ってきて良いよ」
「ああ、頼む」
 断片的なやりとりでは、これから何をしようとしているのか今ひとつわからなかった。
「どこへ行くんですか?」
 尋ねながら、ふと不安の影が胸の内を過ぎる。
「イルキスと話す必要があるが、どうもこちらから出向かなければ話をすることは出来ないようだからな」
 そう言いながらジュリアンが視線を向けるのは、巫女の背後に流れ落ちている緑色の光の滝だ。
「あの光の中が本当の『うろ』なんですね」
「ああ。イルキスの本体もそちら側にいるはずだ」
 本当の『うろ』――人工的に削り取られた幹の中の小部屋ではなく、イルキスの体内へ続く入り口。その向こうは、神界と交錯したときよりさらに神界に近い環境になっているはずだと、ジュリアンは話していた。だとしたら、そこに一人で行った場合に消滅《ロスト》する確率も上がるはず。
「あ、あの、私も……!」
 連れて行って、と言う前に、ジュリアンが左手を差し出した。
「一緒に来てくれるか?」
「はい!」
 迷わずその手をとったフィラに、ジュリアンは淡い笑みを浮かべる。そしてすぐに表情を消して巫女を振り返った。
「戻るまでここには誰も近付けないでくれ。心配ないとは思うが、特にその『入り口』には絶対に触れないように」
「こ、心得ております」
 緊張した面持ちで頷く巫女に、ジュリアンは初めて穏やかな微笑を向けた。
「イルキスがレルファールの民を見捨てていないことだけは確かだ。信じて待てとは言えないが、希望を捨てる必要もない」
「ありがとう、ございます……」
 巫女は感極まったように顔を赤くして俯く。
「行こう」
 まだ大きくなったままのティナとどこか虚脱したような表情の巫女を後に残して、ジュリアンは光の滝の中へ足を踏み出した。透明な光のように見えるのに、中に入るとその姿は完全に見えなくなってしまう。手を引かれたままのフィラは、慌ててその背中を追いかけた。
 光の幕を通り過ぎた瞬間、周囲の景色は一変する。
 そこにあったのは不毛の荒野と、薄く不吉な光を放つ灰色の空だった。