第四話 イルキスの樹

 4-5 揺らぎ

「ここは……外?」
 そんなわけはないとわかっていても、周囲の様子はそうとしか見えない。通り抜けてきたはずの光の滝も、もうどこにも見当たらなかった。
「イルキスが見ている風景、だと思う」
 ジュリアンが厳しい表情で周囲を見回しながら答える。
 荒漠と広がる、多孔質の黒っぽい岩に覆われた大地。時折稲光に輝く低く垂れ込めた灰色の雲は、その向こうに太陽があるからなのか不思議な輝きを放っていた。今まで旅してきた荒野よりさらに寂しい風景が、地平線の彼方まで続いている。神界に近いはずなのに、その風景は現実とほとんど変わらない。神界と交錯したときに特有の緑色の光も見えず、ただ昼間にしては暗い不毛の大地が広がっているだけだ。それでも肌に感じるぴりぴりとした空気と耳に聞こえてくる不思議な不協和音は、辺りが濃密な魔力に満ちていることを示していて、ジュリアンから手を離してはいけないのだと感じさせる。
「入ればすぐに会えると思ったんだが」
 ジュリアンは耳を澄ますように目を閉じて、周囲の魔力を探った。この環境で魔術を使うことは賢明ではないけれど、魔術を使わなくても空気の流れを読むように魔力の流れを読むことはできる。フィラにはまだ響き合う音の中のどれがイルキスのものなのか判断することはできなかったが、ジュリアンにはすぐわかったようだった。
「……あちらだ」
 しばらく気配を探った後でそう呟いて、ジュリアンは歩き出した。
 風の音と魔力の金属的な響きだけが聞こえる。尖った岩だらけの荒野は歩きづらく、果てが見えないだけに余計体力も奪われるような気がした。それでもジュリアンと手を繋いでいれば、どこまででも行けそうな気がする。
「いた」
 どれくらい黙々と歩き続けていたのか、雲の向こうの明るさが変わらないこの世界では、時間の経過を体感することは出来ない。
「あそこだ」
 ジュリアンが視線で示したずっと先に、誰か人が立っているようだった。誰もいない荒野に、たった一人立ち尽くしている人影は、まるで風雪に耐える今にも折れそうな細い若木のようだ。
「あの人が……イルキス……?」
「恐らく……話を聞いてみないことには『人格』が誰なのかはわからないが……」
 どこか歯切れ悪くそう答えたジュリアンは、フィラの速度に合わせてゆっくりとそちらへ向かう。
 近付くにつれて、その人影の前で線路が二本、交差しているのが見えてきた。荒れ果てた大地を横切る朽ちない線路。それはつい昨夜見た、あの恐ろしい天魔を思い出させる。同じことを考えたのか、ジュリアンの表情も微かに険しく強ばった。けれどその横顔はどこか納得しているようにも見えて、フィラはジュリアンがどこまでこれを予見していたのかと内心首を傾げる。
 人影の輪郭がはっきり見え始めて、それが灰色のマントで身体を覆った少年であることがわかってきた。少年は疲労に崩れ落ちそうな姿勢で、けれど何かを待ち構えるように、線路の先を鋭い視線で見つめている。その瞳がはっと見開かれるのと同時に、ジュリアンも少年の視線の先を追うように身構えた。
「……来る」
 何が来るのかは、フィラにも何となくわかってしまう。そして予想通り、線路の向こうから轟音が響き始める。夜闇の中であれば、光っているのがわかっただろう。狂ったような速度で迫ってくるのは、紛れもなく昨夜見たあの天魔だった。ここはイルキスの体内だ。あの天魔が走っていた現実の世界ではなく、イルキスが見ている風景が映っているだけ。それなのに、昨夜と同じ恐怖がこみ上げてくる。何も事情はわからないのに、ただ背筋が寒くなるような嫌な感じがする。
「そういうことか」
 ジュリアンが低く唸るように呟いた。どういうことか問いかけたいけれど、天魔の轟音がもう会話を掻き消すほど近く迫っている。疲れ切った様子で線路際に立っていた少年が、力を振り絞るように両腕を上げて、魔力を解き放った。木管楽器の響きにも似た、高く澄んだ魔力の音がする。その音は少年の前を横切る線路と共鳴し、そこに虹色の回路を走らせた。
 交差する線路、線路に干渉する魔術――バラバラだった情報が、一つに繋がり始める。それを粉々に打ち砕くように、轟音は迫る。立ち尽くしたままのジュリアンが何も手を打たないから、ここにいる限りは現実で出会ったときのように隠れる必要はないのだとわかった。それでもどうしようもなく怖い。指先が冷たくなっていくのを感じながら、ぎゅっとジュリアンの手を握る。大丈夫だと言うように握り返された掌から、共鳴するように音が響いてくる。調律のたびに聞いて、もうすっかり覚えてしまったジュリアンの音だ。それを聞くだけで、少しだけ気持ちが落ち着いた。
 そうしている間にも、天魔は容赦なく迫り、目の前の線路を駆け抜ける。昨夜車の中から聞いたときより距離はあるが、間を隔てるものがない分轟く音が凄まじい。甲高い魔力の音は先頭列車の顔面から発される悲鳴のようだ。充分離れているはずなのに、砂混じりの冷たい風も吹き付けてくる。耳をふさぎたくなるような音が通り過ぎていくのを、フィラはただ目を見開いて無言で待った。ジュリアンたちにも少年の存在にも気付くことなく、天魔はただ線路を――少年が魔術で誘導した分岐の方へ向かって駆け抜けていく。
 列車が分岐を通り抜けた途端に、線路脇の少年は力尽きたようにがくりと膝をついた。
「行こう」
 列車が行ってしまうのを待ち構えていたように、ジュリアンはすぐに歩き始める。二人が近づいてきたのに気付いた少年は、気怠げに顔を上げた。灰色のフードの下から白樺の樹皮に似た色の少し長めの髪がはらりと零れ落ち、新緑のいろの瞳が真っ直ぐにジュリアンを捉える。
「君は……?」
 声変わり前の少年の声は、戸惑ったように揺れていた。
「ああ……君は、宿命《さだめ》の子か……」
 そう呟きながら、よろよろと立ち上がる。ジュリアンが微かに緊張したのがわかって、フィラは思わずその横顔を見上げた。
「グロス・ディアに行くんだろう? 手伝いたいけれど、僕はどうしてもここであの天魔を食い止めなければならないんだ」
 少年の言葉は、まるで何もかもを見通しているようだ。中央省庁区の芽から情報が伝わったのか、あるいはほかの、神々独自のネットワークでもあるのだろうか。今はティナもいないし、尋ねられる雰囲気でもない。
「レルファールの巫女の依頼でこの状況の原因を探りに参りました。レルファールの民への加護が途絶えたのは、あの天魔が原因ですか?」
 緊張を押し殺して静かに尋ねたジュリアンに、少年は疲れ切ったような笑みを浮かべる。
「そう……約束だから」
「約束……?」
「約束したんだ。シンカと。僕がシンカを取り込む代わりに、レルファールの皆を守るって。でも」
 守れない、と悔しそうに呟いた言葉は、声になっていなかった。
「力が足りない。どうしたら良いかもわからない。シンカの声も、もう聞こえなくなってしまった」
 泣きそうになったのを隠すように、少年は俯く。
「グロス・ディアのレルファーに力を借りることは」
「無理だよ。今は地球のあちこちで大規模な神界との交錯が起こっている。他の木はそれを食い止めるのに精一杯だし、本体の魔力はサーズウィアのために取っておかなくてはならない。とてもこちらへ回すような余力はない」
 少年は力なく首を横に振り、天魔が消えた線路の先を見つめた。
「君がサーズウィアを呼んでくれなければ、神界はますますこの星を侵食していく。そうしたらもう、レルファーが集積している魔力を全て使い切っても元には戻れない……戻れないんだ」
「……そこまで切羽詰まった状況なのか……?」
 ジュリアンは愕然と呟く。その声が痛々しくて、フィラは思わず握っていた手に力を込めた。
「他の神に伝える気はないよ。もしもこのことが荒神に伝われば、破滅を呼ぶ引き金になりかねない」
 グロス・ディアのレルファーに繋がる木たちだけが共有していた情報。それを人間であるジュリアンに伝えるのは、ジュリアンがサーズウィアを呼べるから、なのだろう。それがわかっているジュリアンは、目を閉じて少年の言葉を噛みしめていた。元より失敗は許されない。それでも、その言葉の重さを感じずにはいられない。そんな表情に見える。
 けれど瞳を開いたときには、その横顔にははっきりとした意思の光が宿っていた。
「……とにかく、今はこの状況を何とかする必要があるはずです」
「何とか……?」
 少年は訝しげにジュリアンを見上げる。
「天魔が結界の外に出たのは、神界との交錯が原因で間違いありませんか?」
「そう……だけど」
 少年にもジュリアンの真意はわからないのか、ますますその表情は困惑の色あいを深めた。
「神界と交錯する頻度が上がっているのなら、それを利用しない手はない。例の天魔が結界の外に出たのと同じ現象で、逆に結界内へ戻します」
 きっぱりとした宣言に、少年は表情を強張らせる。
「それは……でも、僕は……世界律に逆らって神界との交錯を拡大することは出来ない。今こうしていることだって、シンカとの契約がなければ荒神とやっていることは変わらないのに……」
「シンカ、というのは、レルファールの巫女のことですね?」
 苦渋に満ちた呟きに、ジュリアンは低く問いかけた。
「そうだ……ここへ来て、僕との契約を書き換えて、そして消えた」
「その契約を守り続ける限り、あなたは次の巫女と契約を交わすことも出来ない」
「……そうだ」
 どうにもならない状況に、少年が苛立っているのがわかる。ジュリアンも黙ったまま考え込んでしまって、成り行きを見守るしかないフィラは落ち着かない気分で線路の向こうを見つめた。次にあの天魔が戻ってくるのはいつなのだろう。現実の世界と時間の流れが同じなのかどうかすら、フィラにはよくわからない。
「……我々で何とかします」
 長い黙考の後でジュリアンが出したのは、そんな結論だった。
「君は人間だ。世界律の揺らぎを捉えて増幅させることなんて出来るの?」
「先日手本を見せてもらったばかりなので」
 手本――クロウのことだ。リサは『ミニ・サーズウィア』と表現していた。
「サーズウィアを呼ぶ魔術式とあの時読み取れた式を照合し、交錯のきっかけとなる揺らぎを捉えて増幅する方法は既に用意してあります」
 旅の間、そんなことを研究していたなんてフィラも知らなかった。いや、夜寝る前に何かものすごく複雑で特殊な書き方をされた魔術式をいじっていたのは知っているけれど。そういえば一度聞いた時にサーズウィア関連だとは話していたかもしれない。どちらにしろ、あまり常識では考えられない難度の研究を常識では考えられない速度で進めていたことは間違いなさそうだ。
「そう……わかったよ。じゃあ、僕に残された魔力を君に託そう。レルファールを守るために一年分くらいは残しておいてもらうけど」
 少年はそう言って、初めて笑みを浮かべる。決断を終えたからなのか、どこか清々しい表情だった。
「どうせサーズウィアが来たら僕は消える。一年も待たせたりはしないよね?」
 清々しく、けれど紛れもなく悲壮な決意を込めた言葉を受け止めるように、ジュリアンは一度瞳を閉じる。握った手に少しだけ力を込めて、それからジュリアンはゆっくりと目を開いて少年を見つめた。
「……もちろんです」
 真っ直ぐな誓いに、少年はほっとしたように微笑む。その瞳は、微かに潤んでいるように見えた。

 少年と契約を終えると、ジュリアンは現界――もとの世界へ戻った。神であるイルキスは神界から現実の世界に影響を及ぼすのが普通のことだが、人間にとっては向こう側で魔術を使うのは消滅《ロスト》の危険が大きすぎるからだ。
 待っていた巫女に、イルキスは暴走する天魔が環状線の外に出ないよう力を尽くしているため、レルファールのために使う余力がないこと、イルキスの力を借りてもともとその天魔を封じ込めていた結界の中へ押し戻し、その中にある環状のレールを走らせることに成功すれば再びイルキスの加護が戻ってくることを説明する。それによってイルキスの寿命があと一年になることは、ジュリアンは意図的に伏せているようだった。サーズウィアを呼びに行くことを明かせない以上は仕方ないのかもしれない。
 そしてジュリアンは巫女にイルキスの力を借りる許可を得ると、レプカを一頭借りて真夜中の荒野へ出て行った。ティナと一緒に残されたフィラは、元の部屋に戻ってじっとジュリアンを待っている。先に寝ていろと言われたのだけれど、どうしても目が冴えてしまって眠れなかった。
 フィラには何も言わなかったけれど、大規模な魔術を使うことになるのは間違いない。出来るだけ竜化症が悪化しないように、戻ってきたらすぐに調律をさせてもらわなければ――
 そんなことを考えながらベッドに横になって、戻ってくる足音が聞こえないかと耳を澄ましている。ティナは大きい方の姿のまま、扉の脇で丸くなっていた。
 結局、ジュリアンが戻ってきたのは夜明け近くなってからだった。音もなく入ってきて静かに水を飲んだジュリアンの顔色は悪い。思わず起き上がってしまったフィラに、ジュリアンは苦笑する。
「すまない。起こしたか?」
「いえ……大丈夫ですか?」
 顔色の悪さもそうだけれど、やはり魔力も乱れているようだった。
「少し規模の大きい魔術だったからな」
 ベッドに腰掛けたジュリアンの手を取って、瞳を閉じる。調律のために耳を澄ませば、歪んで軋むような音が聞こえてきた。
「竜化症……」
 その先を聞くのが怖くて、言葉が途切れてしまう。けれど本当は聞かなくてもわかっていた。旅の間にも少しずつ進んでいたそれが、フィラにもはっきりとわかるくらい進んだということが。
「大丈夫だ。イルキスにここからグロス・ディアまで『道』を開いてもらうことになった。その分日程を短縮できる」
 ――サーズウィアを呼んで、それでも消滅《ロスト》しないために出来ることは、可能な限り、竜化症の進行を遅らせること。
 いつか夢の中でランが言っていた言葉が、重くのしかかってくる。必ず一緒に帰るのだと信じていても、それでもやっぱりその時が来るのは怖い。この手を、ぬくもりを、向けられる眼差しを、失いたくない。ぜんぶ、ぜんぶ欲しい。その先の未来まで、ずっと。
 凶暴に乱れた魔力を調律しながら、フィラはそう願い続けた。