第四話 イルキスの樹

 4-6 到達

 出発の準備は翌朝起きてからになってしまった。出発の準備を整えたところで昨夜フィラを浴場に案内した女性が朝食を運んでくる。さすがにもう食物に何かを仕掛けられたりすることはないだろうというジュリアンの判断で、朝食はご馳走になることにした。
 いかにも手作りらしい不揃いな形の素朴なパンと、ナッツと乾燥した果物。少し変わった味のヨーグルトとチーズは、レプカの乳を加工したものなのだという。もともとグロス・ディアに生息していたレプカはイルキスの樹の環境によく適応しているらしく、この樹の見た目からは考えられない数が飼われているはずだとジュリアンが教えてくれた。
 朝食を食べ終えた後、二人は夜のうちに探検に出かけてしまったティナを置いて巫女の座所へ向かう。イルキスと会って、グロス・ディアへ送ってもらう方法を確認するためだ。巫女はもうとっくに来ていて、どこか泣きそうな表情で光の滝を見つめていた。昨夜見た時よりも、光も滝の勢いも明らかに増している。
「その後、イルキスと契約は交わせましたか?」
 昨夜の強圧的な態度を捨てたジュリアンが、穏やかに尋ねかける。振り向いた巫女は、やはり泣きそうな表情で深く頭を下げた。
「はい。ありがとうございます。あのような……ことをしでかしたにも関わらず、お救いいただいて何と感謝すれば良いか……」
 感極まったように震える声には、感謝だけではなくて悔恨も滲んでいる。きっともうあんなことはしないだろうと、フィラは密かに胸をなで下ろした。
「頼まれておりましたレプカ一頭、一ヶ月分の水と食料はご用意できております」
「助かります。イルキスと話をしても?」
「もちろんでございます。イルキス様もそれをお望みでしょう」
 丁寧に頭を下げた巫女に頷いて、ジュリアンはフィラの手を取る。そしてそのまま光の滝の中へ足を踏み入れた。
 その先には、昨夜とは全然違う風景が広がっている。不毛の荒野ではなく、深い深い森の中に二人はいた。濃い緑を通して、やわらかな木漏れ日が踊る。それだけでユリンの森と似ているような気がしてしまうけれど、生えている植物は違う種類のもののようだし、鳴き交わす鳥たちの声も聞こえない。
「おはよう」
 昨日よりだいぶ明るい声が聞こえた。周囲を見回すと、森の風景の中からふっと浮き出るように、白髪の少年が現れる。髪も肌も昨日よりつやを失っているけれど、瞳の色は昨日よりも濃く、何より浮かんでいた焦燥と不安が消えていた。
「天魔の封印は上手く行ったみたいだ。またあの結界を抜け出してしまうことがないように、サーズウィアが来るまでは僕が見張っておくよ」
「よろしくお願いします。レルファールの皆のことも……特にあの巫女は少し短絡的なところがあるようなので」
 ためらいながらも容赦ない評価を下すジュリアンに、少年は苦笑する。
「そうだね。君たちにもずいぶんと迷惑をかけてしまった。僕の声が聞けないせいで、シンカを支えてくれた人たちに相談出来なかったこともあるんだと思う。許してくれとは言えないけど、過ちを繰り返さないように導くことは守護神である僕の役目だ。それは最後まで果たすよ」
 頼もしい答えに、ジュリアンもどこかほっとしたようだった。
「人間の情報ネットワークに入り込むのは疲れるけど、中央省庁区とWRUの動きにも注意を払っておく。君がここにいるということは、近いうちにかなり大きな動きがあるんだろう? そうなればこの地にも影響があるはずだ」
 何だかさらっとすごいことを言われた気がして、フィラは目を見開く。
「イルキスは植物の根を通した情報だけでなく、人間のネットワークの情報も利用している可能性がある、という仮説は正しかったわけですね」
 しかし面白がっていそうな表情で問いかけるジュリアンには、とっくに予想出来ていたことのようだった。何だかフィラに対する解説も兼ねていたような気がする。
「アラン・ボウチェクの論文だっけ? 彼も面白いよね。海底ケーブル敷設の調査で気づかれちゃったみたいで少し気にかけてたんだけど、その後の追求はなかったから未だにただ乗りさせてもらってるよ」
 少年はにこやかに頷いているが、ネットワークに接続するのも本当はお金を払わなくてはいけないんじゃなかろうか。いや、神様からお金を取るのは無理だろうけれど。
「長く生きていると神々もしたたかになっていくんですね」
「そりゃそうさ。そのぶん人間に近づいているわけだからね」
 妙に人間くさい仕草で肩をすくめた少年は、ふっと笑みを消す。
「それで、昨日約束した件だけど」
 ジュリアンも真剣な表情になって、少年を真っ直ぐ見据えた。
「レルファールの皆には君たちの行き先は知らせない方が良いと思う。妙な希望や憶測を呼びたくはないからね」
「同感です」
 静かに頷いたジュリアンに、少年も頷く。
「とりあえず予定通りに旅立ってくれるかな。森の途中で道を開くから、そこまではティナに案内してもらって。それと、悪いけれど最終地点までは送れない。グロス・ディアは今、荒神の侵入を防ぐための結界に覆われている。僕が君たちを送れるのはその結界の外までだ」
「わかりました。よろしくお願いします」
 ジュリアンが恭しく頭を下げて、短い会合は終わりを告げた。

 フィラと共に巫女のところへ戻り、様子を見に来ていたティナと合流しつつ出立の挨拶をしてイルキスの樹を下る。好奇心に満ちた子どもたちが覗き見してくるのは相変わらずだ。フィラは気付いていないようだったが、最初に巫女のところへ案内された時から五歳以下に見える子どもがほとんどいないことは気になっていた。そうでなくてもイルキスの力が弱っていることには気付けただろうが、決定打になったことは間違いない。
 イルキスの加護を失うだけでこうなってしまったのは、この周辺の地域が荒神の怒りによる影響を強く受けているせいだ。光王庁が天魔の群れを狩り、荒神を征討しようとするのは、治安の維持のためだけではなく、荒神の影響を周辺地域に及ぼさないようにするためという目的もあった。聖騎士団が組織されてから約七十年、ジュリアン自身も戦いに明け暮れていてそこまで意識したことはほとんどなかったが、こうして荒神の影響を目の当たりにすると改めて世界は人類を滅ぼそうとしているのだと、それに抗うために戦っていたのだと実感する。
 行き交う人々やイルキスの樹に実る果物を見ていると豊かな場所に見えるのに、とても危ういバランスの上に成り立っているのだと思うと苦い気持ちがわき上がった。そしてそのバランスは、どう転んでももうすぐ崩れる。
 あんな状態であってもイルキスは結界を維持し、人々が食いつないでいけるだけの食料を供給していた。けれどそれもきっと長くは持たなかっただろう。イルキスが力尽きれば、食料が尽きる前にこの集落は天魔に蹂躙されてしまう。
 サーズウィアが来たとしても同じだ。この世から魔術と神は消えてなくなるが、天魔も共に消えてしまうわけではない。そうなる前に、魔術を使わない兵器で天魔に対抗できるだけの力を持った地域へ、イルキスは守るべき民を導かなければならない。ジュリアンがサーズウィアを呼ぶまでに。そして、もしもサーズウィアが来なかったら――
 余計なことを考えているうちに、大樹の麓まで降りてきていた。麓の広場では大荷物を積んだレプカを引いた男――最初にここへ来た時案内してくれた男が立っている。どこか気まずそうに視線を逸らしている男の周囲では、ジュリアンとフィラが大立ち回りを演じる羽目になったことなど知らない人々が目を輝かせている。二人が襲われたことは伏せられているが、図らずも巫女のついた嘘が真実になってしまったことで、すっかり救世主扱いになってしまったらしい。ジュリアンは中央省庁区にいた頃にそういう扱いには慣れていたが、フィラは落ち着かなげに視線を泳がせている。
 二人は人垣の間を抜けてレプカに歩み寄った。うさぎのような長い耳に薄茶色の艶やかな長毛の大人しい草食動物は、濡れたような黒い瞳でじっと二人を見つめている。積まれている荷物を確認し、キャンピングカーから持ってきた荷物をさらに背負わせる間にも、レプカは微動だにしなかった。どうやらずいぶん訓練されているらしい。
「荷物はこれで問題ないでしょうか?」
「大丈夫です」
 答えながら、じっと大人しくしているレプカの首を撫でてやる。
「最も賢いレプカを選びました。名はリョクと申します」
 手綱を手渡しながら、男は慇懃にそう告げた。
「ありがとうございます」
「お世話になりました」
 手綱を受け取ったジュリアンの隣で、フィラも深々と頭を下げる。当てつけでも何でもないところがますます男の罪悪感を誘ったのか、男は恥じ入るように俯いた。
「こちらこそ、お礼の申し上げようもございません。旅のご無事をお祈りしております」
 頷いて歩き出した二人に、たぶんわけがわからないまま興奮しているのだろう子どもたちが勢いよく手を振ってくる。
「また来てね〜!」
「今度は一緒に遊んで!」
 無邪気な声に送られて、ジュリアンはフィラと思わず目を見合わせた。
「一体何だと思われてるんだ……?」
 歓声を送られた経験はあるが、子どもに遊んでくれなどと言われたことはない。
「えーと、懐いても良い外から来た大人が珍しい、のかな……? 外から来た人には注意しなさいって、いつもは言われてそうですよね」
 懐くって何にだ、と思ったのは表情に出ていたのだろう。フィラが小さく肩を震わせて笑う。
「また来たいですね。今度は観光に」
「ああ……そうだな」
 叶わぬ願いだとわかっていて、頷いた。サーズウィアが来た後で、この場所が残っている可能性はない。それをわかっているはずのフィラは、名残を惜しむように振り返って目を細める。薄暗い木立の向こうにそびえ立つイルキスの樹は、その行く末がわかっていても、どっしりと盤石であるように見えた。

 一時間ほど歩いたところで、ティナの案内で道の脇に逸れる。
「思いがけずショートカット出来て良かったよね」
 レプカの頭の上に陣取ったティナが、しっぽで行き先を示しつつ呟いた。しっぽの気配を追いかけるように、レプカの耳もぴくぴくと動く。手綱を引くジュリアンの隣を歩きながら、フィラは気になって仕方ない様子でレプカを観察していた。レプカは見たことがないと言っていたから、きっと物珍しいのだろう。ジュリアンもレプカと接するのは聖騎士団の訓練で扱い方を一通り習ったとき以来だったが、リョクという名のこのレプカは訓練用のレプカたちと比べてもかなり賢く大人しいようだった。少し手こずるかもしれないと危惧していたのだが、どうやらその心配もなさそうだ。イルキスの助力を得られたことと併せて考えると、レルファールでトラブルに巻き込まれたことも結果的には悪くはなかった。ただ、その原因とそこに至るまでの犠牲を考えると気分は重くなる。
 充分街道から遠ざかったところで、ティナが「ここだよ」と告げた。天へ向かって真っ直ぐ伸びる巨大なセコイアに似た木が二本、門柱のようにそびえている。高さはどちらも百メートルくらいはありそうだ。さっきまで鳴き交わしていた鳥たちの声が消えて、辺りは不思議な静寂に包まれていた。イルキスの守護に包まれている森には最初から濃密な魔力が漂っていたけれど、ここは特に濃い。恐らくはここに立っている二本の木自体が、イルキスの分身のような存在なのだろう。
「この境界を越えれば、もうそこはグロス・ディアだよ。覚悟は良い?」
 リョクの頭の上から、ティナが少し緊張した様子でジュリアンとフィラを見た。
「この向こうの状況はわかるのか?」
「ちょっと待って」
 ティナは瞳を閉じてイルキスと交信を始める。ジュリアンが直接話しても良いのだが、この先何があるかわからない以上、出来るだけ魔力は温存しておきたかった。
「イルキスの樹のネットワークで割り出した、目的地に一番近くて安全な場所だって。天魔と会う可能性は低いみたいだよ」
「そうか。情報提供感謝するとイルキスに伝えてくれ」
 そう頷いてから、ジュリアンはフィラを見下ろす。
「じゃあ、行くか」
 努めて軽くそう言うと、緊張した様子だったフィラはほっと表情を綻ばせた。
「はい」
 その手を取って、二本の木に向き直る。
「こちらこそありがとう、いつでもどうぞ、だってさ」
 緊張感のないティナの声を聞きながら、レプカの手綱を引いた。
 境界線を踏み越える瞬間、奔流のように濃密な魔力が押し寄せてくる。フィラが縋るように握った手にジュリアンも力を込める。森の匂いが変わる。辺りを覆っていた静寂が、漣のような葉擦れの音に塗り替えられていく。
 イルキスの体内へ入ったときと同様に、一歩踏み出しただけで風景は一変した。フィラが小さく息を呑む。
 そこは真夜中の森の中だった。けれどさっきまでいた森とは色彩が全く違う。夜闇に浮かび上がるように淡い光を放つ、ガラス細工にも似た色とりどりの木々がどこまでも続いている。向こう側が見通せる木々が重なり合っている様は、まるで複雑なレース模様のようだ。地面もまるで真珠のような光沢の淡く光る小石に覆われていて、まるで同じ世界とは思えなかった。
「すごい……」
 フィラが呆然と呟く。まるで夢の世界に迷い込んだような風景は、ジュリアンにとっても予想以上のものだった。知識として持っていたよりも遙かに、グロス・ディアの環境は光王庁の周辺とは異なっているのかもしれない。
 何よりも、肌を突き刺すほど濃密な魔力の気配に肌が粟立つ。この環境に長く身をさらすのは危険だ。
 ――急がなければ。
 焦燥を抑えつけるように深呼吸をすると、フィラがそっとその不安に寄り添うように身を寄せてくれた。