第五話 挿話

 5-1 面倒くさがる男

 ――疲れたな。
 一人きりになった聖騎士団団長執務室で、フランシス・フォルシウスは大きく息をつきながら革張りのチェアの背もたれに体重を預けた。
 聖騎士団団長の任を引き継いでから、今日で二週間になる。ジュリアンがユリンに飛ばされた時にも同じ仕事は引き継いでいたし、仕事を掌握していた幹部までいなくなっていた前回とは比べものにならないほど楽ではあるのだが、問題は信頼の回復だった。
 聖騎士たちはまだ良い。事情を知らない数人からは暗にお前を団長としては認められないというような態度を表明されたが、カイとフェイルとランティスが間に入ってくれているおかげで今のところ決定的な問題は起こっていない。このまま徐々に信頼していってもらえれば良いのだが、希望的観測に縋るのはフランシスの趣味ではなかった。少なくとも当面は三人に頑張ってもらう必要があるだろう。
 より厄介なのはその下の僧兵たち。ジュリアンたちがユリンに飛ばされていた頃、フランシスの下で働いていたことがある者たちだ。あの頃の印象が大変悪かったことは自覚している。戦場で肩を並べて戦っていた聖騎士たちに変わって、光王庁の中でぬくぬくと(それだけでもなかったのだが、日々天魔を相手に戦っていた僧兵たちからはそう見えていたはずだ)治安維持だけをしていた光王親衛隊が部隊を指揮する立場に立ったことは、彼らにとっては許せない出来事で、何より文字通りの死活問題だった。反発を感じた光王親衛隊のメンバーが上から押さえつけようと高圧的な態度に出ていたことも知っている。
 そして実際、天魔との戦いにおける犠牲は、明らかに聖騎士団が上に立っていたときよりも多かった。あらゆる手は講じたつもりだが、結果が全てだ。聖騎士たちが受け継いできた戦術、天魔に関する知識、戦いのための基盤となる情報網や観測装置――ジュリアンができる限りの情報を残していってくれたのは知っている。しかし、ジュリアンをユリンに封じ込めるということは、フランシスにとってもジュリアンからの情報が絶たれることを意味していた。
 馬鹿馬鹿しい話だが、正規のルートで聖騎士団側からもたらされる情報は光王親衛隊の立場から言えば信頼出来ない。フィアが聖騎士団に入り、スパイとしてそこで得た情報を流すという形にして初めて、フランシスは聖騎士たちが蓄積していた戦術データを部下に納得させられる形で利用出来るようになったのだ。とはいえ、どんなに努力しても付け焼き刃でジュリアンの代わりを務められるわけはなく、守り切れなかったものはたくさんあった。
 だからこそ、憎まれるのも蔑ろにされるのも当然のことだと思ってはいる。ただ、それでやるべきことに支障を来すのは本意ではない。
 幸いなことに、光王親衛隊を一人離れて聖騎士団に異動させられたフランシスはお飾りの団長だと思われていた。僧兵たちに関しても、動かしているのがカイやフェイルやランティスである限りは問題は生じにくいだろう。今のところ、フランシスが戦力として出なければならない事態は発生していない。
 光王親衛隊隊長には以前から目をつけていた親衛隊士の一人を選んでおいた。フィアとは年の離れた友人関係にある女性で、光王親衛隊にいながらレイ家とフォルシウス家の確執には距離を置いていた人物なので、レイ家出身の幹部が一気に増えた状況でもなんとかバランスを取ってやっていってくれるだろう。十歳以上年下でものすごく嫌っている相手であるフランシスにも、必要な助言は迷わず求めてくるところも気に入っている。
 そんなわけで人事的にはジュリアンがユリンで飼い殺しにされていた頃より遥かに恵まれているのだが、だからといって以前より時間があるかというともちろんそんなことはなかった。
 まずジュリアンとリサとレイヴン・クロウが抜けた巨大な穴を埋める必要があった。ジュリアンの穴埋めは自分でするとして、まず最初にしたのは、光王庁に幽閉されていたフィアを逃がすことだ。打ち合わせも何もする暇がなかったが、フィアは正確にフランシスの意図を汲み取って事情を知っているキース経由で聖騎士団に合流してくれた。おかげでフランシスは優秀な秘書兼諜報員を確保出来たわけだが、まだ戦闘要員が足りない。
 本当ならランティスに復帰してもらいたいところだったが、それはどう考えても不可能なので代わりに研究開発関係の仕事を一部回した。フェイルの手伝いと戦術関係の仕事を既に引き受けていたランティスは、しかし「おう良いぜ。その代わり貸し一つ減らしておいてくれ」と言ってあっさり引き受けてくれた。貸したつもりもない貸しを減らせと言われるより、皮肉の一つでも言われる方が落ち着くのだが、もともとランティスは光王庁に長くいた人間でもない。もしかしたら世間ではこれが普通なのかもしれない。生まれたときから光王庁のトップで働くことを宿命づけられていたフランシスには、その辺の機微はよくわからないし、たぶんわかる必要もない。
 というわけでフランシスが抱えきれない仕事の一つは行き先が決まったのだが、戦闘要員の件はまだ解決していなかった。人材を探している間にもスパルタ主義のフェイル・ヴァーンは情け容赦なく聖騎士団団長として把握しておかなければならない規則やデータを積み上げていくし、その間にも四年前の混乱に乗じてフォルシウス家が聖騎士団の力を削いだ余波ですべてジュリアン一人の肩にのしかかっていた天魔の動向に関する分析関係の業務が行き詰まる。天魔の動きに関する情報がいかに大切であるかということは、以前の引き継ぎで嫌と言うほど思い知らされていたので、ここで手をこまねいているわけにはいかない。
 ランティスに研究開発部門を回しただけでは人手充分とは言えないことに気付いたフランシスは、とりあえず父――ジェラルド・フォルシウスの権限が弱っているのを良いことに、フォルシウス財閥系の研究機関から元々聖騎士団の下でその仕事をしていた人間とさらにフィアの知り合いを数人引き抜いて聖騎士団の下の研究部門に回し、カイがジュリアンの決めた方針を元に調整を進めていた光王庁立博物水族館との共同研究にも一応の道筋をつけた。博物水族館はフォルシウス家が実権を握っている文化部の管轄なので、その辺の調整はジュリアンよりもフランシス向きだったとは思う。
 そんな根回しと調整に奔走しつつ、フェイルから出された宿題の規則とデータはとりあえずフィアに暗記してもらって要約版だけ頭に叩き込んだ。
 そして今日は軍部に顔を出し、WRU国境付近の混乱沈静化に聖騎士団も向かわせる代わりに、フェイルが目をつけていた数人の僧兵を回してもらえないかと交渉をしていた。元々は聖騎士候補として育成されていた者たちだ。キースとサンディに集めてもらった情報によれば、本人たちも聖騎士団の下へ戻ることを希望しているらしい。そしてフォルシウス家有利と見て文化部にすり寄っていた軍部の実権を握るゴルト家は、ここ最近レイ家との関係修復に熱心だ。向こうでも幹部候補として扱われている数人を引き抜くのは骨が折れるが、渋る人事担当者を説き伏せて軍部代表であるゴルト家当主との面会まで持っていったから、あとは明後日の交渉次第だ。
 それを片付けたら次は――
 執務室の外に人の気配を感じて、フランシスは考え事をいったん中止する。
「入って良いよ」
 わざわざ団長執務室の扉の前で気配を大きくしてノックの手間を省くような人物は、一人しか思い当たらない。
「失礼します」
 入ってきたのはフィアだった。姉と同じ長さまで伸ばした髪をアップにまとめ、薄く化粧をして眼鏡をかけ、光王庁事務員の制服に着替えただけなのだが、それだけでずいぶんと印象が違う。その辺ですれ違ったくらいでは、彼女がフィア・ルカだとわかる人間はあまりいないだろう。
「二週間お疲れさまでした」
 知性を強調する装いに相応しい口調と微笑で、フィアはそう告げた。
 フィアの態度はどこまでも業務的だったが、フランシスはその一言だけでさっきまでの疲れが吹き飛んだような気分になって笑いかける。
「うん、怒濤の二週間でしたね。俺もさすがに疲れましたよ」
「そうですね。明日は一日お休みを取れるように調整いたしましたので、体力と体調の回復に努めてください」
「……体調?」
 うっすらとした笑みを唇に浮かべたまま、フランシスは問いかけた。
「本日昼頃から微熱を出されていたのでは?」
「何で知ってるの?」
「見ていればわかります」
 体内にセンサーでも仕掛けられていたらこわくて良いなとか思ったのだが、どうやらそうではなかったらしい。それは残念だが、しかしフィアの回答はそれはそれで嬉しいものだった。
「よく見てくれてるんですね」
 満面の笑みのフランシスに、フィアは深々とため息をつく。
「頭の回らないフランシス様なんてどう考えても相当レベルの高い役立たずですから」
 いいなそのフレーズ、と思ってにこにこしていたら、対照的にフィアは訝しげに眉根を寄せた。親しくもない人間にそんな軽口を叩くような人ではないと知っているから嬉しいのだが、また何か誤解をさせてしまったのかもしれない。フィアにそんなことを言われたところで、傷つくわけなどないのに。
「今日ももう帰って休んでください。明日休みとはいえ、その分明後日以降はまた忙しくなりますから」
「そうしようかな。さすがに疲れましたしね」
 つけっぱなしだった端末の電源を落とし、軽く伸びをする。
「問題は実家じゃ休まらないところかな。聖騎士団の宿舎って空きあります?」
「クロウさんの部屋が空いていますが」
 フィアは「知ってるくせに」という表情を浮かべながら律儀に答えた。もう一つの空き部屋はフィアが元々使っていた、というか使う予定だった部屋だ。そのことはもちろん口に出してはくれない。いつもならわざわざそれを指摘して「この変態」みたいな視線で睨んでもらうところだが、今日はちょっとそうする元気もなかった。
「借りても良いかな?」
「施設部の許可が下りれば。内線をお借りします」
 自分でやれと言われるかと思ったが、フィアは自分で施設部の事務室に連絡を取って使用許可を取ってくれる。まあ聖騎士団の施設部には良い印象を持たれていないから、フランシスが自分で貸してくれと言っても渋られたことだろうが。
 フィアの方は、正式には第三特殊任務部隊《レイリス》所属だが、表向きにはフェイルに見出された事務職員兼フランシスのお目付役ということになっている。フェイルやランティスからの信頼が厚いのと事務処理で能力の高さを示しているおかげで、一般の僧兵たちからも一目置かれているようだった。今もフランシスが自分で手続きを頼んだときとは比べものにならないほどスムーズに空き部屋の使用許可を取り付けている。
「許可が下りました。鍵を受け取って参りますので、その間に帰宅のご準備を」
「ありがとう。良い部下に恵まれて幸せですね」
 フィアは何と答えたら良いのかわからないという表情でフランシスを見て、結局何も言わないままふっと視線を逸らした。
「失礼いたします」
 笑顔すら見せないまま、フィアは執務室を出て行く。最近彼女の心からの笑顔を見ていないな、などと頭の中に花が咲いたようなことを考えながらそれを見送る。その背中がドアの向こうに消えてから、フランシスはようやく深々とため息をついた。
「疲れたな……」
 明日休みということは、忙しさを理由に顔を出さずにいた実家へ戻らなければならないということだ。そしてまた病気療養中の父と看病中の母にちくちくと裏切りを責められなければならない。まあ、わかっていてやったのだし後悔もしていないけれど、ひたすら面倒だとは思う。一番面倒なのは、今の自分ではそれを笑ってやりすごす自信がないというところだ。
(――ひとりになりたい)
 ふっとそんな弱気な思考が脳裏を過ぎる。
 部下には恵まれている。動く目的もはっきりしている。迷うことなど何もないし、今のところ利害が一致しているランベールにもそれなりに可愛がられてはいる。レイ家がこのまま力を持ちすぎるのは望ましい事態ではないので、いずれはフォルシウス家の復権のために対立することになるだろうが、少なくともそれはサーズウィアが来てWRU周辺のごたごたが片付いてからだ。
 これ以上望むものなどないほどの環境なのに、なぜ。
「やっぱり体調が悪いとろくなことを考えないものなんですかね……」
 フィアが言っていたとおり、頭の回らない今の自分は相当レベルの高い役立たずなのだろう。
 ――寝るべきだな。
 結局、あらゆる問題は体調不良に起因するのだとフランシスは結論づけた。少なくとも今日のところは一人で静かに眠れるのだし、一晩眠れば明日の有り余るストレスをやり過ごすくらいの余裕は出来るだろう。
 大丈夫、明日になれば。
 ――こんな弱さは、きっと消えている。
 自己暗示のように、そう言い聞かせた。