第六話 グロス・ディア

 6-2 妖精の国

 翌朝も、金色の光の中で旅の続きは始まった。相変わらず生き物の気配はない。昨日と同じように、密に生い茂った灌木を避けて歩いて行く。一日目には目にするものすべてが珍しくて見とれてしまっていたけれど、さすがに二日目ともなると不安の方が大きくなってくる。行けども行けども景色は何も変わらない。
 お昼頃、休憩場所と決めた空き地の近くにちょうど昇りやすそうな木があったので、ティナが偵察してくると言って駆け上がっていった。食事の途中で戻ってきたティナは、やっぱり方向は合っていると保証してくれる。
「でもほんとに妙だよね。ここまで生き物がいないって」
「うん。植物はちゃんとあるのに……」
 花が咲いているのに、飛び交う虫一匹いないのはどうしても不自然だ。
「昨夜から思っていたんだが」
 ジュリアンが重々しく口を開く。
「もう結界の内側にいるんじゃないだろうか」
 その言葉を聞いたフィラとティナは、思わず目を見交わしてしまった。
「イルキスが間違った情報を伝えたってこと?」
 そんなことがあり得るのかと言わんばかりに、ティナが目を見開く。
「彼が間違うとは思えないが、もしも途中で誰かが魔術に干渉したとしたら……」
「誰かって……」
 いけないとわかっていても、思わずフィラは身震いしてしまった。
「誰かが……いるとしたらこちら側にいるはずだ。気配を探ってみてはいるんだが、今のところ何も接触して来る前兆はないな」
 ジュリアンが言葉を切ってしまうと、重苦しい沈黙がその場を支配した。
「……なんか、不気味だね」
「うん……」
 ティナの言葉に頷きながら、フィラは目の前にひらりと落ちてきたレルファーの葉を何気なく受け止める。意識せずに手のひらに乗せてしまったそれを、地面に落とさなければいけなかったのだとフィラはすぐに気づいて、手を放そうとした。けれど、それより早く葉の中から『何か』の魔力があふれ出して、フィラの中へ流れ込んでくる。
「何か来る」
 その葉から流れ込む魔力が、そのまま言葉になって零れ落ちたみたいだった。ジュリアンが一瞬で身構えて、座っていたフィラの腕を取り、自らの背中に庇う。それと森の向こうから何かが透明な木々を突き破るようにしてやって来るのが見えたのが、ほぼ同時だった。
「天魔!?」
 ティナが声を上げながら姿を変化させ、大きい方の形を取る。その間にジュリアンは剣を構えながらフィラとリョクを守るように結界を張った。フィラは慌ててリョクが逃げ出さないようにその手綱を取る。手の中の葉は、いつの間にか消えていた。
 一際大きな木を避けて空き地に飛び込んできた天魔に、その瞬間容赦なくジュリアンが放った雷撃が襲いかかる。飛び退いた天魔の姿は、大きくなったティナとどこか似ていた。獰猛な山猫に似た姿に、鳥の翼のような形に長く背中の方へ延びた黒い耳と、長い角。ティナと決定的に違うのは、その被毛が柔らかな白ではなく、血に汚れたような黒であることだ。身体はそんなに大きくはない。けれど、今まで虫一匹見かけなかった美しい森で出会うには、あまりにも禍々しい姿だった。
 天魔はまず、自分と似た姿のティナに牙を剥く。竜素の黒にまだらに染まった牙に、ティナは果敢に威嚇を返しているけれど、見ているフィラは気が気ではない。
 均衡を崩したのは、やはりジュリアンだった。ほとんど何の予備動作もなくティナの鼻先を掠めるように叩き込んだ雷撃に、天魔は虚を突かれたように飛び退る。その喉元に向けて、ティナが飛びかかった。迎え撃つように大きく口を開いた天魔に達する直前で、しかしその姿はふっと掻き消える。ティナの背中を追いかけるように放たれていた雷撃が、正確に天魔の口に吸い込まれ、喉を貫いた。断末魔の叫び一つ上げることなく、天魔は大地に倒れ伏す。
 ひどく長く感じられたけれど、天魔が空き地に飛び込んできてからほんの数秒の勝負だった。
「まったく。囮にするならするって先に言ってよね」
 不機嫌な呟きとともに、ティナがいつもの子猫の姿でリョクの頭の上に現れる。こんな事態にも動じなかった賢いレプカは、その声に反応するようにぴくぴくと耳を動かしたが、落ち着いた様子なのは変わらない。リョクが逃げ出したりしなくて良かったと、フィラは改めてほっとした。ここではぐれてしまったら、きっと二度と出会うことは出来ないだろう。
 ジュリアンが辺りを警戒するように見回しながら魔力の流れを探り、安全だと判断してからフィラを守っていた結界を解除する。
 その瞬間、一行を取り巻く森の雰囲気が変わった。静まりかえった、何の気配もしなかった森のそこここから、誰かのひそひそと囁き合う気配や、くすくすと笑い合う気配が漂ってきている。はっきりとした言葉を捉えることはフィラにも出来なかったけれど、葉擦れのようにもガラスが触れ合うようにも聞こえる不思議な音は、確かに誰かの声であるようだった。
 ジュリアンが一度引っ込めた警戒心を剥き出しにして、探るようにまた辺りを見回す。
「……誰だ?」
 低く問いかける声に、周囲は一瞬静まりかえった。けれどすぐにジュリアンが視線を向けた先の一本の木から、高く澄んだ魔力の音が響く。透明な幹の中に漣のように光が集まり、やがて小さな人の形になる。
「妖精……?」
 そうとしか思えない姿に、フィラは思わず声を上げた。十五センチほどの身長の、桃色の花片のような色のふわりとしたワンピースを身に纏った少女が、木の幹の中で瞳を開ける。その背中にはガラス細工で作られたような、トンボに似た羽が生えていた。
「レイリスの姿の神を連れているなら間違いないわ」
 少女は白目のない紅玉の瞳でジュリアンを見ると、ぱっと笑顔になってそう言い放った。ガラスをこすったときのような高く響く声は、遙か木の梢の上から響いてくるようでも、いつか竜が語りかけてきたときのようにフィラの頭の中で響いているようでもある。
「あなたが宿命《さだめ》の子」
「わたしたちの救い主ね」
 フィラが呆然と見とれている間に、周り中の木という木、茂みという茂みから、同じような姿形の様々な色を纏った少女たちが現れていた。植物の中から抜け出してふわふわと漂う少女たちは、それぞれ違う色を纏っていたけれど、皆似すぎている上に縦横無尽に動き回るので、ほとんど見分けることができない。
「天魔を倒すのもあっという間だったわ!」
「やっぱり強いわ!」
「さすがね!」
「これなら大丈夫かしら?」
 彼女たちにそんなつもりはないのだろうが、風に揺さぶられた木の葉擦れのように次々と言葉を重ねられると、まるで包囲されているような気分になってしまう。警戒しながら隣へ戻ってきてくれたジュリアンも、どう反応したら良いのか迷っているようだった。
「でもレイリスが天魔になるなんて……」
「やっぱり結界の鍵を開けるべきじゃなかったんだわ」
「でも結界を開かなければお客人が来られなかったのよ」
 二人が困惑している間にも、妖精たちはマイペースに話を続けていく。
「それに匣《はこ》の闇様が開けてくれってレルファーに言ったのよ」
「匣の闇様が決めたことには従うしかないわ」
「ええそうよ。わたしたちでは止められなかったわ」
 匣の闇様とは何だろう。疑問に思ったけれど、ジュリアンの横顔を見上げる限り彼にもわかっていないようだった。
「でも天魔は怖かったわ」
「そうよ。おかげで誰も木から出られなかったのよ」
「わたしたちの数も減ってしまったわ」
「またすぐ生えてくるわよ」
「でも天魔は怖かったわ」
「あの……」
 まるでフィラたちのことなど忘れてしまったようにさやさやと囁きかわす妖精たちに、フィラは思い切って声をかけてみる。その瞬間、森全体がざわっと意識をこちらへ向けてきたような感じがして、同時に妖精たちも一斉にフィラを見た。その余りに劇的な変化に、フィラは思わず一歩後ろへ下がってしまう。
「何故、私たちの前に姿を現したのですか?」
 ジュリアンがフィラに代わってゆっくりと尋ねかけた。その言葉に不思議な倍音がかかっていることで、ジュリアンが何か魔術を乗せているのがわかる。もしかしたら、そうしなければ妖精たちとフィラと同時に言葉を通じ合わせることが出来ないのかもしれない。
「案内をするためよ」
「そうだわ、案内しなくちゃいけなかったのよ」
「忘れてたわ」
「怒られるところだったわね」
 全く緊張感のないざわめきに、ティナが思い切り呆れた表情になったのが視界の端に見えた。
「『匣の闇』様というのは?」
 ジュリアンが冷静に問いかけると、妖精たちはまたさらさらとざわめいた。
「匣の中の闇よ」
「神殿の魔女ね」
「ノクタ・エデオとも言うわ」
「会えばわかるわよ」
「会ってもわからないかも」
 要領を得ない妖精たちの言葉に、フィラはジュリアンと目を見合わせる。
「えっと……よくわかりませんね」
「そうだな」
 好き勝手に喋り続ける妖精たちからは、あまり具体的な情報は得られそうにない。
「これだから妖精の相手は嫌なんだよ……」
 ティナが心底面倒くさそうに首を振り、リョクがぴくぴくと耳を動かした。
「ティナ、何か思い出したのか?」
「何か?」
 まだ何事か囁きかわす妖精たちはとりあえず放置して、ジュリアンがティナに問いかける。
「まるで彼らを知っているような口ぶりだったが」
 ティナは不思議そうに小首を傾げ、次いで難しい表情で考え込んだ。けれどすぐに諦めたように首を横に振る。
「……そんな気がしただけだよ」
 ティナがそれ以上何も思い出せないと判断したらしいジュリアンは、改めて妖精たちに向き直った。
「それで、案内とは、いったいどこへ?」
「闇の祠よ」
「匣の闇様とお話していただかなくては」
 やはりどうしてもその『匣の闇』という誰かと関わらなくてはならないらしい。その正体がさっぱりわからないのは不安だけれど、レルファーに指示を出せるということは、神様、なのだろうか。敵ではないと、思っても良いのだろうか。
「……考えられるのは」
 魔術を乗せない言葉で、ジュリアンが呟く。
「ミラルカに関係する神か眷属か……そのどちらかだな」
「ミラルカ……えっと、原初の神、でしたよね」
 魔術史の勉強で覚えた名前を、フィラはどうにか記憶の底から掘り当てた。ユリンにいた頃、ジュリアンからこの世界の正しい歴史を教えてもらったときにも出てきた名前だったはずだが、それがどうして『匣の闇』と結びつくのかはよくわからない。
「ああ。グロス・ディア大陸を地球に運んできたと言われる神だ。グロス・ディアの歴史書に名前が記されている以外、詳細は不明だが、闇の神として信仰されていたという話もある」
「闇の……」
「しかし、匣というのはよくわからないな」
「やっぱり、行ってみるしかないですかね?」
 二人が会話しているのには構わずとりとめもなく話し続けている妖精たちは、信頼して良いのかと考えると不安だけれど、少なくとも悪意はなさそうだ。
「そうだな。『匣の闇』という存在が本当にレルファーを動かせるなら、信頼出来るかどうかを確かめた方が良いだろう」
 どのみち、ここまで彼らの存在にまったく気付けなかった時点で、何か危害を加えるつもりがあるならいくらでもやりようはあったはずだとフィラでもわかるから、ついていく以外の選択肢はあまり考えられない。
「わかりました。案内をお願いします」
 ジュリアンが改めて妖精たちに頼むと、すっかり脱線して別の話に興じていた彼女たちはまたさやさやとざわめき合った。
「もちろんよ」
「ついて来て」
「すぐよすぐ」
「でもちょっとはかかるかも」
 妖精たちはそう言うと、光の帯のように列を作り、森の奥へと流れ始めた。一行は踊り回る妖精たちに囲まれながら、その帯の向かう先へとついていく。
 妖精たちはもともといた木から遠く離れることはできないのか、行く先々で新しい妖精が列に加わり、その代わりに別の妖精が脱落して戻っていくようだった。そんなふうに次々と入れ替わりながらも、進む先はしっかりと決まっている。ガラスの森に妖精たちが乱舞する風景は幻想的で、フィラはまたさらに夢の中にいるような気分が深まっていくのを感じていた。