第六話 グロス・ディア

 6-3 ノクタ・エデオ

 天上から降りそそぐ光が茜色に変わる頃、一行はガラスの森の外れに辿り着いた。透明な木々に、そうではない普通の――とはいっても透明でないというだけで、フィラは見たことがない植物が混ざり始めたので、そうとわかる。周囲からガラスの木々が減るにつれて、案内する妖精たちの数も少しずつ減り始めた。
「案内できるのはここまでよ」
 透明な木が一本も見当たらなくなった頃、最後までついて来ていた数人の妖精たちがふわりと身を翻してジュリアンを見つめた。
「闇の祠はこの向こう」
「そこで匣の闇様にお話を聞いて」
「サーズ・ウィアが上手く来ることを祈っているわ」
「怒りはこわいもの」
「ええ、あれはきらいよ」
 そんなことを言いながら、妖精たちはくすくすと笑い合う。妖精たちが天魔や荒神と相容れないのは、怒りの感情とは無縁だから、なのかもしれない。フィラはぼんやりとそんなことを思いながら、不思議な森の住民たちを見上げていた。
「じゃあわたしたちは戻るわね」
「元気で」
「さようなら、さようなら」
 妖精たちに頷いたジュリアンに、促すように肩を叩かれて、フィラははっと我に返る。
「ここまでありがとうございました」
 言葉に魔術を乗せる方法がわからないフィラの言葉は彼らに通じていないようだったけれど、それでも深々と頭を下げた。
「また遊びに来てね」
「あなたのこと、結構好きよ」
「なんだか良い匂いがするもの」
「ずっと一緒にいたかったくらい」
 言葉が通じたのかはよくわからなかったけれど、感謝の気持ちは通じたのだろう。さざめくように返された妖精たちの好意が、素直に嬉しかった。

 妖精たちと別れてしばらく歩くと、湖の畔に出た。森は湖の少し手前で途切れていて、丈の低い草に覆われた野原が湖の縁まで続いている。
 そこまで来てようやく、フィラは頭上を覆っていたレルファーの木の全体像を見ることが出来た。湖の向こう、遙か遠くに霞む、巨大な塔のように見える幹は銀色だ。その幹は上空を覆う金色の雲を突き破っているように見えるけれど、よく目をこらせば実際には大きく広げられた枝がその雲を支えているのだとわかる。空を満たす光の雲は、やはりレルファーの広げる枝とそれを覆い隠す黄金の葉なのだと、やっと実感できる光景だった。深いコバルトブルーの湖は鏡のように凪いで、その木と輝く枝葉を映し出している。
 湖の畔には、妖精たちが教えてくれた『闇の祠』らしい建物が建っていた。らしいというのはそれが完全な漆黒で、光の当たる面も当たらない面も等しく真っ黒だったからだ。おかげで最初は空間が切り取られているようにしか見えなくて何が何だかわからなかったけれど、近付きながら見ると角度の変化でようやくそれが立方体の形をしていることがわかった。
「あれが祠……匣……?」
「見た目はそんな感じだな」
 近くまで寄って、外壁をぐるっと見て回る。立方体の一面は湖に面していたので、それ以外の三面を確認したけれど、入り口はどこにも見当たらなかった。
「入り口、ないですね」
「魔力が全く感じられないのも不自然だな」
 近寄って見ても凹凸も質感も感じられない、ただの漆黒でしかない謎の材質が不気味で触らずに見ているだけだったが、これはどこかを押したり引いたりしなければならないのだろうか。
「たぶん普通に入ればどこからでも入れると思うけど」
 少し離れたところに繋がれたリョクの頭の上でうさんくさそうに黒い箱を見つめていたティナが、何故か嫌そうに顔をしかめながら言った。
「僕その中に行きたくない。なんか、存在が掻き消されそうな気がする」
「……そうか」
 ティナの言葉に、ジュリアンはあっさりと頷く。
「闇と光、だからですか……?」
 それしか理由が思いつかなくて尋ねてみると、やっぱりジュリアンはあっさりと頷いた。
「闇とは要するに光が存在しない状態だ。一切の光が存在しない場所では、ティナは存在を保つことが出来ない」
「まあ、自分で光るけどさ。たぶん吸収されちゃうから、ちょっとは消耗するよね」
 ティナは完全にやる気なさそうにリョクの頭から背中に向かってころんと落ち、そこでもぞもぞと丸くなる。
「荷物番は頼むぞ」
 ジュリアンはそう言い置いてからフィラの手を取ろうとして、はっと動きを止めた。
「……そうか。お前も残った方が良いな」
「あ……そっか、そうですよね」
 言われるまで全く気付いていなかったけれど、考えてみればフィラの中にも光の神の力がある。
「やっぱり影響あります……かね?」
「その可能性は否定出来ないな」
 そう言われてしまうと、頷くしかない。
「結界は張っておく。ティナ、維持の方も頼む」
「はーい」
「すぐ戻る」
 尻尾で返事をしたティナに頷いた後、ジュリアンはフィラにそう告げて、何も気構えることなく黒い立方体の中へ入っていく。確かにティナが言った通り、どこからでも入れるようだった。ジュリアンの姿は吸い込まれるように立方体の形をした闇の中へ消えて、フィラはなんとなく心細い気持ちになりながら、草を食むリョクの側の石に腰を下ろす。
 以前ならティナがいれば、エステルに置いて行かれても不安になんてならなかったはずなのに――いや、違う。不安と言うより、心配なのだ。ジュリアンのことを信じていないわけではないけれど、何があっても守ってくれる親代わりだったエステルとは違う。無事に戻ってきてほしいと祈ることしか出来ない自分が悔しいなんて、エステルに対して思うことはなかった。

 足を踏み入れた闇の中は、想像していたとおり一ミリ先も見えない文字通りの漆黒だった。数歩進んだところで立ち止まり、何か反応が起こるのを待つ。
 それほど時を置かずに、『彼女』は現れた。ジュリアンの半分ほどの背丈しかない、光沢のある黒いワンピースを着た少女。肩より少し伸びた髪も艶やかな黒で、肌は白い。特徴的なのは黒曜石のように輝く白目のない瞳と、少し尖った耳だ。人間に近いけれど、人間ではあり得ない容姿。グロス・ディアに似たような種族がいたかどうか、残念ながらジュリアンの知識では判定することが出来ない。少女の姿は、闇の中に幻のように浮かんでいる。自分の手すら見ることが出来ない闇の中で、少女に当たっている光などあるはずもないのに、その姿を『見る』ことが出来るのは不思議な感覚だった。
「ようこそいらっしゃいました、宿命《さだめ》の子よ」
 はっきりとジュリアンたちが使っている共通語だとわかる言葉が、直接脳内に流れ込んでくる。
「私は匣の中の闇。神殿の魔女。ノクタ・エデオ。そしてこの場所は私が落とした影の一つ」
 妖精たちが語ったのと同じ言葉を少女は繰り返したが、今はなんとなく意味がわかる気がした。
「闇の眷属。ミラルカに仕える者……あるいはその分身、ということですか」
「そうですね。そのように解釈していただいて構いません。確かに、私はミラルカの意志を伝えるために作られた分身のようなものです」
 分身とは言うが、彼女自身の本体もここにはないのだろう。感覚としてわかる。彼女は本当はここにはいない。
「必要であれば私のことはノクタとお呼びください。かつて私をそう呼んだ人間がおりましたので」
 ジュリアンは頷いて、そして覚悟を決めた。
「私をここへ呼んだ理由は?」
 半ば答えは理解していた。彼女がミラルカの意思を体現する存在であるならば、つまり、サーズウィアが確実に来ることを望んでいるならば。
「あなたが目指す場所を示すため、そしてあなたの目的達成を支援するために、私はここに影を落としました。しかし、本来私の力は本物の『匣』の中でしか発揮されない」
 少女は真っ直ぐジュリアンを見上げたまま、平坦な声で話し続ける。
「あなたには『まとも』でいていただかなくては困ります。しかし、それを治すには私の所まで辿り着いてもらわなければならない。その前に力尽きていただくわけには参りません」
「まとも……竜化症のことか……」
 予想通りの話ではあった。グロス・ディアに入ってから、常にかなり強力な魔術を使い続けているような負荷を感じている。できる限り魔術を使わないようにはしてきたけれど、さっきの戦闘でも普段の状態ならほとんど進まないはずの竜化症がはっきりと進むのを感じた。何らかの対策はしなければならないと、ジュリアンも思っていたところだ。サーズウィアが確実に来ることを望むノクタと名乗る存在にとっても、これは憂慮すべき事態であるはずだ。
「そうです。先ほどのように誰かを守りながら戦っていては、あなたにとっての負担が大きい。あの少女の中にある光の神の力をあなたの守護神に移し、あの少女はここへ置いていってはいかがですか?」
 その思考を理解した瞬間、胸の奥が冷えた。
 フィラをここに――? あり得ない。妖精たちはさっきは友好的な態度を示していたけれど、あれは気に入った人間を悪意なく自分たちの世界に引き込む類のものだ。
「そのための支援なら」
「それは出来ない」
 最後まで聞く必要もないとばかりに、ジュリアンは一言のもとにノクタの提案を切り捨てた。
「理由は?」
 ジュリアンを咎めるでもなく、ノクタは淡々と問い返してくる。
「共に行き、共に帰ると約束した」
「約束は守れなければ意味のないものなのでは?」
「……そうだ」
 だからこそ、フィラをこんなところに置いては行けない。さっきだって、本当は妖精たちはフィラを連れて行きたがっていた。
「光の神の力を持って行けるなら、あなた一人の方が生存率は高まると思いますが」
「それは俺の感情を考慮に入れなかった場合の話だろう」
 敬語を使うのも忘れたまま、無愛想に低く答える。
「あなたが生存を願うのは、あの少女が共にあるからなのですか」
「そうだ」
 迷いのない答えに、ノクタは情報を処理する時間を稼ぐように白目のない瞳を瞬かせた。
「……わかりました。人間の感情が竜化症の進行に影響を与えることは私も知っています。感情の強さが影響の強さに関係することも」
 一定の理解を示す言葉に、ジュリアンは一瞬安堵しかける。
「ですが、もしもやはり足手まといでしかないと判断したら、いつでも私を呼んでください」
 けれど次いで放たれた言葉は結局何もわかっていないもので、ジュリアンは湧き上がる怒りを押し殺して強張った笑みを浮かべた。
「彼女のいない世界で生きていても意味がない」
 ジュリアンが呟いた言葉を理解出来なかったのだろう。ノクタは何も反応しない。
「支援する意志があるなら、フィラを守ってほしい。俺が消滅《ロスト》せずにサーズウィアを呼ぶ可能性を高めるためには、それが一番効率が良い」
 まるで脅し文句だが、フィラに妙な手出しをさせないためなら手段を選んではいられなかった。それにフィラがいなくなったら、きっと本当に自分はサーズウィアを呼ぶ意思を失う。自分が破滅することになっても、周りのもの全てを破壊してでも、それでもフィラを守りたいと思ったあの時と、思いは何も変わっていない。いや――むしろ同じ状況に置かれたら同じことをするだろうという確信は、強くなる一方だ。
 ノクタはやはり理解していない様子だったが、結局少し考え込んだ末に頷いた。
「わかりました。感情と竜化症の関係については、私よりもあなたの方が正しい判断を下せるものと考えます」
 知らぬ間に力が入っていた拳を、ジュリアンはゆっくりとほどく。
「リラの力を移し替えるために用意した力は、あなたに託しましょう」
 その宣言で、短い話し合いは終わりを迎え、ジュリアンは緊張に詰めていた息を吐いた。
(フィラ……)
 失いたくないその名を、心の中で祈るように呼ぶ。諦めたくない。諦められない。だから諦めない。そう決めて二人でここまで来た。
 だから、必ず。必ず――
 祈りながら、ジュリアンは待った。己の周囲を包む闇が晴れるのを。