第七話 霧の向こう

 7-4 彼と彼女を繋ぐもの

「カルマは……」
 ジュリアンは歯切れ悪く切り出した。
「ウィンドとランによって封じられていた、人類を憎むフィウスタシアの側面だ。その封印が解かれたのは、今から三十年ほど前のことだと言われている」
 ジュリアンは痛みを堪えるように目を伏せ、静かにため息をつく。
「封印を解いた人間が誰なのかはわかっていない。わかっているのは、封印が解けたカルマを気象兵器として利用するため、WRUが人工の核を彼女に与えたという事実だけだ」
 それがジュリアンとどう関係しているのか、話の行方が見えなくてフィラはまたぎゅっと両手を握りしめた。
「その核は、フィウスタシアの核を写したものだった。風霊戦争時代に、彼女が捕らえられていた研究塔で作られた……」
「それって……」
 思わず息を呑む。神の核は、その神が現界に実体として現れるために必要なもの。現界と神界を繋ぐ結節点。そう習ったことがあった。
「それによって、カルマはウィンドやランからは独立して行動することが可能になったが、最初に復活したカルマは先代……俺の前の聖騎士団団長によって倒されている」
「そう……なんですか?」
「ああ。それほど力を取り戻していなかったこともあるし、先代団長の魔力がピークだったこともあるだろう。その時彼が持ち帰った核が、今は俺の中にある」
 呆然とジュリアンの瞳を見上げながら、彼が緊張していることに気付く。それを告げることは、たぶんジュリアンにとってはとても苦しいことなのだろう。もしもフィラが逆の立場だったら、受け入れてもらえるか怖くて仕方ないはずだ。サーズウィアを呼べる存在を作り出すために、彼の実の祖父が埋め込んだ神の核。それが、元々はカルマのものだったなんて。
「俺が半分竜なのは、その核が埋め込まれているからだ」
 珍しく笑うのに失敗したジュリアンの頬に手を伸ばす。触れた指先から、気持ちが伝われば良いのに。そんな叶うはずもない願いが胸を掠める。ジュリアンがそっとフィラの手に手を重ねて、けれどその表情は、痛みを堪えるように苦しげなままだった。
「だから、カルマが俺を、あんなふうに言う理由は」
 言いたくないことを、言わせようとしている。そう気付いた瞬間、衝動的にキスをしてしまっていた。続きをジュリアンに言わせたくなくて、言わなくてもわかるから、大丈夫だからと――それだけではなくて、何か言葉にならない思いも、全部まとめて伝えたくて。
 唇が触れたのは一瞬で、次の瞬間にはフィラは我に返っていた。自分で自分の行動にびっくりして身を離すと、ジュリアンも目を見開いてフィラを見つめている。さっきまで少し引いていた血の気が逆流したみたいに、一気に顔が熱くなった。ジュリアンを見ていられなくなって俯きながら、そういうタイミングじゃなかっただろうと自分を罵りたくなる。いくら何でも、これはない。あんまりにもあんまりだ。沈黙が怖い。
「お前……」
 呆れたような声色に、ますますいたたまれなくなった。
「……すみません」
 ちょっと頭を冷やしてきた方が良いかもしれない。そう思ってベッドから降りようとしたら、無言で後ろから引き寄せられた。
「わっ!?」
 かなりの勢いで後ろに身体が傾いて、そのままジュリアンの腕の中に閉じ込められる。
「な、何すんなら!?」
「お前が逃げるからだろ」
 とっさに出た訛りがおかしかったのか、どこか笑いを含んだ声が耳元で囁いた。
「に、逃げたわけじゃ! ……ないんですけど」
 と言ったからには逃げるわけにいかなくなって、フィラは諦めて肩の力を抜く。どうしようもなくいたたまれなくて振り向けない。
「質問の答えには納得出来たのか?」
 背後からの問いかけは思いの外真剣だった。
「……はい」
 そう答える間にジュリアンはフィラを包み込むように姿勢を変える。
「聞きたかったのは、カルマと戦ったとき彼女が言っていたことだろう」
 ――疎まれ、蔑まれ、排斥されながら、それでも人類を救おうというのですか?
 思い出そうとすると、簡単に冷ややかな魔女の声が耳の奥に蘇った。あんな混乱の後なのに、まるで色褪せていない記憶が逆に恐ろしい。
 ――愚かで愛しい私の子。そんなことをしても、お前は何者にもなれはしない――
 まるで魔女が今ここにいて囁いているような生々しい記憶に、フィラは思わず縋るようにジュリアンの手を握る。
「あの時、お前が側にいてくれて良かったと今は思っている」
 肩口に顔を埋めたジュリアンの声が、首の後ろで静かに囁いた。全身で守られているような感覚に安堵しながら、心のどこかがそれをもどかしく思う。
「私がいなかったら、そもそもカルマは襲ってこなかったんじゃ……」
「どうだろうな」
 違うのだろうか。カルマがあの時狙っていたのは、フィラの中にあるリラの力だったはずだ。でもその最終目的がサーズウィアの阻止だとしたら。
「……私がいなくても、襲ってきていた……?」
「ああ。そして、俺たちは負けていたはずだ」
 その意味するところを考えて、フィラは小さく身震いする。リラの力がなかったら、きっとあの場を切り抜けることは出来なかった。
「もしもカルマが襲ってきたときに、お前と出会っていなかったら……」

 出会っていなかったら。
 少女の存在を確かめるように、我知らず全身に力が入ってしまう。サーズウィアを呼ぶ望みを失ったジュリアンを、それでも魔女は襲撃したはずだ。なぜならカルマは、人類が滅びるまで――あるいはカルマ自身が滅びるまで、安らぐことは出来ないはずだから。
 ウィンドと分離したことで、彼女が自ら怒りを静める手段はなくなってしまった。あったとしても怒りが収まることはなかっただろうが、怒りに支配された自分自身にすら魔女は苛立っているように見える。あの時魔女がジュリアンに向かって語った呪いのような言葉は、そのまま彼女自身に向けた、そして切り離されてしまったウィンドに対しての呪詛だ。その言葉をリラの力の行方もわからないまま、仲間も全て失った状態で聞いていたら。そしてあの時フィラが自分の正体を知らないまま縋り付いてこなかったら。水の神器をリーヴェ・ルーヴのところへ運んでくれなかったなら。
 きっと自分はあの戦いのどこかで竜になり、魔女が望むとおりに人類を滅ぼす側に回っていた。
 フィラのぬくもりを感じながら、それでも手足が冷たくなっていくような気がする。それすらも、右手は生体機能を保つための魔術によって作られた偽物の感覚なのだが。
 フィラを救うために竜に変化したときに、人の形を失った状態で人としての自我を保ち続けることは出来ないのだと、ジュリアンは知った。戻ることが出来たのは、リラの力が側にあったから――そしてそれをフィラが使ってくれたからだ。
 カルマの狙いはサーズウィアを阻止すること。そのためにフィラの中に眠るリラの力を狙い、水の神器の力を使ってジュリアンたちから彼女を奪おうとした。
 ――本当に?
 冷たい疑問が、ふいに思考の奥底から浮かび上がってくる。サーズウィアを止めるだけならば、ジュリアンを殺せば良い。他にそれを実現できる人間は、少なくともあの大陸にはいなかった。けれど魔女は……ジュリアンを本気で殺そうとはしていなかったのではないだろうか。確かにそうだとは言い切れない。しかし、ジュリアンを殺すより、リラの力を手に入れることを優先していたのだとしたら、危険なのはフィラの方なのかもしれない。そうする理由があるとは思えないが、ユリンでの魔女の行動を見る限りその可能性を切り捨てることは出来なかった。
「ジュリアン?」
 思考に沈んでいたジュリアンを、柔らかな声が呼び戻す。心配そうにこちらを振り向こうと身じろぎするフィラに、ジュリアンは微かに首を横に振った。
「大丈夫だ。少し考え事をしていた」
 ――魔女の狙いが何だったとしても、必ず守ってみせる。
 心の中だけで誓った言葉を口に出せなかったのは、それが誰よりも自分のためだとわかっていたからだ。彼女が側にいなければ、きっと自分は簡単に化け物になってしまう。本当に守られているのは自分の方だと、嫌になるほどわかっている。でも、それでも、だからこそ、守り切らなくてはならない。共に生きたいと願ってくれた、誰よりも大切な存在を。
 あと少しで辿り着く旅の終着地点。きっとそこでカルマは待っている。彼女を出し抜けばジュリアンの勝ち。それが出来ずに力尽きれば負けだ。
「もしも明日、カルマと行き会うことがあったら」
 出来るだけ落ち着き払った声になるように注意を払いながら、ジュリアンは静かに話し始めた。
「まず何よりも、逃げることを優先する」
 姿勢を変えてジュリアンを見上げたフィラが、神妙な表情で頷く。
「最悪でもノクタの本体に辿り着きさえすれば、竜化症を気にせず戦うことが出来るしな」
 出来ればそうなって欲しくないと思ったのだろう。フィラは眉根を寄せながら、それでも黙ってまた頷いた。
「お前も、何かあったらノクタを投げつけてでも逃げてくれ」
「何だか……扱い悪いですね……?」
 神妙に頷きかけたところではたと我に返ったフィラが、理解を示しても良いものか迷うような微妙な表情で呟く。
「ああ……なんとなく、好感が持てなくて」
 その理由がフィラを泣かせたからだということははっきりしているのだが、それを言うのはさすがにはばかられた。そして認めたくないと自分でもわかっている、もう一つの理由も。
「ティナがそろそろ戻ってきたいそうだが、他に聞いておきたいことは?」
 フィラの顔を覗き込むと、至近距離で紅茶色の瞳が瞬く。
「もう大丈夫です。あ……でも、この体勢で呼び戻すのはどうなんでしょう?」
 言われてふと自分の今の状況を考え直した。この余りにも近すぎる距離を、最近は疑問にも思わなくなってきている。
「それもそうだな。何してたんだって怒られそうだ」
「……本当に」
 フィラは少し困ったように、けれどどこかほっとしたように微笑んだ。

 戻ってきたティナとノクタに、ジュリアンは出来るだけカルマに見つかる可能性が低い道を選びたいと告げた。
「この聖都まで届いているレルファーの根があります。その中を通り、出来るだけレルファーの近くで地上に出る、という道はいかがでしょうか。私の本体は地上にあるので、レルファーの根元で一度地上に出なければいけませんが、ここに荒神が侵入した形跡はありませんから、道中は比較的安全なのではないかと思います」
 話を聞いたノクタは、相変わらずの淡々とした声でそう告げる。
「それと、私の役割について一つ提案が」
 ノクタがそう言った途端、あからさまに警戒した表情になったジュリアンに、フィラは目を瞬かせた。さっき話していたときも思ったけれど、どうやら本当に相性が悪いらしい。ジュリアンがこんな風に必要以上に嫌悪感を露わにするのは珍しいことだった。
「とりあえず聞こう」
 内容如何によっては一切受け付けないとでも言いたげな厳しい口調でジュリアンは答える。
「その少女が持つ魔力についてです。リラの力はサーズウィアを呼ぶために温存しなければなりませんが、彼女の持つ魔力は今のところ使われていない。私が今自分で動かせる魔力量はほんの少しですが、彼女の魔力を代わりに動かすことが出来れば、危急の際少しはお役に立てると思うのですが」
 ジュリアンは眉間に皺を寄せて考え込んだ。どう見ても提案を歓迎している表情ではない。フィラにとっては、それでジュリアンの負担が減るのなら縋り付きたいような提案ではあるのだが、その表情を見ているとフィラの一存で引き受けるとは言い出しづらかった。
 考え込んでいたジュリアンは、ふと目を上げてフィラの瞳を覗き込む。
「私は……それで少しでも安全になるなら」
 視線で意見を求められたように感じてそう言うと、ジュリアンは何故か悔しそうに目を伏せた。
「わかった」
 顔を上げたジュリアンは、フィラの手の上の匣を射抜くように見つめる。
「フィラの身の安全を最優先にするなら、その条件を呑もう」
「あなたの身の安全が最優先ではない理由を聞かせていただいても?」
 ジュリアンはやはり不機嫌さを隠そうともせずに乱暴なため息をついた。
「その必要はない」
「なぜでしょうか」
 にべもなく言い放つジュリアンに、けれどノクタはそれを気にする様子もなく食い下がる。ジュリアンはどこか苦しそうにまた目を伏せた。
「どうせ今のお前には理解出来ない」
 その明確な拒絶はさすがに察したのか、ノクタはさらに重ねて問いかけることはせずに沈黙する。
「じゃあ、お願いします」
 小さくささやきかけたフィラに、ノクタは僅かに躊躇いながら「はい」と答えた。