第七話 霧の向こう

 7-5 明日、晴れたら

 翌朝、夜明け前に起き出したフィラとジュリアンは、手早く朝食を終えて旅の支度をし、ノクタの案内で神殿の奥へと進んだ。リョクに積んだ荷物はほとんど宿泊した部屋に残していく。いざというときの機動性を少しでも高めておくためだ。
 まずは昨日見た祭壇の向こう側の扉から、祭具室らしい細長い部屋へ入る。奥へ向かって伸びる祭具室の両脇の壁は、あちこちに歯車のついた作り付けの棚になっていて、金細工に色とりどりの宝石がはめ込まれたきのこみたいな形の器や、天秤に似ているけれど梃子でも動きそうにない謎の器具や、トカゲと太刀魚の中間のような見たことのない生き物を模した杖などが博物館の展示物のように綺麗に並べられていた。その棚を横目に、リョクがどこかにぶつかったりしないように気をつけながら奥の扉まで辿り着く。両開きのその向こうは、やはり歯車だらけの壁と、下へ続く階段だった。
「祭壇からこの奥にかけてがこの神殿の聖域です。レルファーの根に続いていますので、足下に気をつけて進んでください」
 祭具室の壁は白く輝いていたけれど、歯車に覆われた階段の壁は光る材質ではないらしく、奥に行くにつれて真っ暗になっている。歯車に描かれた魔法陣を走る魔力の光だけが、闇の中にちらちらと明滅していた。
「明かりをつけるの、私がやってみて良いですか?」
 ジュリアンが僅かに躊躇ったのを見て、フィラは慌てて提案してみる。
「そうしてもらえると助かる」
 どこか気まずそうなジュリアンに真剣な表情で頷いて、フィラは胸ポケットから匣を取り出した。
「ノクタさん。練習も兼ねてお願いしたいんですけど」
「わかりました。私に魔力を預けていただければ、それを私が魔術として構築します」
 端的な説明だったけれど、今まで何度かジュリアンには同じようにしてもらったことがある。怖々と魔力を預けるフィラに、ノクタは少し苦労しながらも数秒で魔術を構築し、安定魔力光の白い明かりが辺りを照らし出した。
「……それだけ時間がかかるということは、確かに少し練習しておいた方が良さそうだな」
 じっと様子を見ていたジュリアンが、小さくため息をつく。
「そうですね。今のうちに波長を合わせる練習はしておいた方が良いでしょう。比較的『添いやすい』魔力のようですが」
「添いやすい?」
 魔術の勉強をしたときにそんな言葉が出てきた覚えがなくて、フィラは思わずジュリアンを見上げた。
「治癒魔術向きだということだ」
 そう言えば治癒魔術の効率に関しては量より質だみたいな話をフィアから聞いたことがあった。その辺りの経験から来る体感的な言葉は、フィラにはまだ少し理解しにくい。
「とにかく、今は進みましょう。練習は歩きながらでも出来ると思います」
 ノクタが冷静にそう告げて、一行は緩やかな螺旋階段を降り始める。イルキスの樹のような高低差の激しいところで生きているせいか、リョクも危なげない足取りでついてきた。
 その歩みに合わせてさっき生み出した魔力光を移動させることが、当面の練習課題になった。歩きながら魔力を預けるのに少し苦労して、最初はだいぶ光がふらふらしたり点滅したり変な形になったりしたけれど、十分くらいでそれも落ち着く。
「良いですね。この感じなら、危急の際もある程度使えそうです」
 淡々と評するノクタにジュリアンは少し不機嫌そうだったけれど、フィラはほっとした。危急の際――そんなことがなければ良い。そう思うけれど、絶対にないとは言い切れない以上、一つでも安心材料を増やしておきたかった。
 そうやってノクタとの連携を深めながら降りていくうちに、白い石で出来ていた階段が徐々に木の質感に変わっていく。壁も磨り減った古木のようになめらかな飴色に変わり、段々と木のうろの中にいるような雰囲気になっていった。
「ここがレルファーの根……?」
「ええ。その入り口です」
 周囲を見回して問いかけたフィラに、ノクタがすかさず答える。
「かつてここは、聖都に仕える精霊使いたちの修行場でした」
「精霊使い……?」
「俺たちが神と呼んでいる存在を、グロス・ディアでは精霊に該当するような言葉で呼んでいたんだろう」
 首を傾げるフィラに、今度はジュリアンが静かに答えた。
「なるほど……。あ、でも、信仰はしてたんですよね?」
 聖都の立派な神殿も、信仰されていたというフィウスタシアも、そうでなければ説明がつかない。
「信仰されていたのはある程度力のある精霊です。人間同士でも偉業を成し遂げた者を神格化したりするでしょう」
「そういうこと、ありましたっけ……?」
 ジュリアンの横顔を見上げる。厳しい表情で先を見据えたまま、それでもジュリアンは律儀に頷いた。
「風霊戦争以前の宗教も多くが聖人を信仰の対象にしていた。政治的な意図をもって神格化された者もいたしな。リラもある意味ではそういう存在だ」
 話しているうちに、階段の一番下まで辿り着く。不思議なことにそこには草が生えていて、湿った青くさい匂いがした。踏み出した瞬間のふかっと草が沈む感触に驚いて辺りを見回したフィラは、いつの間にか周囲の壁が消えているのに気付く。
「ここから先がレルファーの根の中。精霊の道です」
 フィラとノクタで作り出した魔力光に照らされた森は、しんと静まりかえって水底のような青い空気に満たされていた。
「ここを抜ければ私の本体はすぐそこです。そしてそこが、宿命《さだめ》の子よ、あなたの旅の終着地点でもあります」
 それから、と、歩き出す二人を引き留めるようにノクタは続ける。
「決して道を離れないでください。広がっているように見える森は全て幻。道を離れれば、そこは即ち土の中です」
「い、生き埋めになるってことですか……?」
 余り歓迎できない想像にフィラは思わずジュリアンに一歩近付いた。
「その通りです」
 平然と答えるノクタは、それが恐ろしいことだとは微塵も思っていないようだ。先に注意してくれたということは、不都合があることはわかっているのだろうが。
「まっすぐ進んでください。出口が近付いたら、明かりを消します」
「出口からお前の本体までの距離は?」
 油断なく周囲を見回しながら、ジュリアンが静かに問いかける。
「メートル法でよろしいですか?」
 ノクタの知識がいったいどこに由来しているのかフィラが疑問に思っているうちに、ジュリアンは「それで良い」と頷いた。
「五十メートル程度です。今のところ、周囲に荒神の気配は感じません」
 ジュリアンは感触を確かめるように何度か右手を握って開き、それから意を決したように前を向く。
「行こう」
 その言葉を合図に、一行は再び歩き始めた。
 葉擦れの音一つしない静まりかえった森を、一行は黙ったまま進んで行く。一歩進む毎に、鼓動が早くなる。この森の終わりが、旅の終わり。覚悟はしてきたはずなのに、それでも足取りが重くなる。終わらせるのが怖い。――こわい。
 それでも、静かに這い上がってくるような恐怖を抑えつけて、フィラは前に進む。隣を歩くジュリアンもきっと同じ気持ちでいる。一人だけ立ち止まることなんて出来ない。最後まで一緒に行って、そして一緒に帰ると、そう決めたのだから。
 どれくらい無言で歩いたか、やがてノクタがそっとフィラの魔力に干渉して、辺りを照らしていた魔力光を消した。周囲が暗くなって、道の先に光が見える。
「間もなく出口です。念のため準備を」
 ノクタの言葉が終わる前に、ジュリアンはレーファレスを呼び出して、その代わりにフィラにリョクの手綱を手渡した。否が応でも高まっていく緊張に、受け取る手が震えてしまう。必要以上にぎゅっと手綱を握り締めながら、最後の十数メートルを一歩ずつ踏みしめながら進んだ。
 近付いてくる光は、レルファーの葉から降りそそぐ光にしては少し弱くて、霞がかかったような灰色だ。やがてその光の中に、ぼんやりと森の風景が浮かび上がってくる。霧の中に見え隠れする、曲がりくねった黒い木の輪郭。まるで風景画のように楕円形に切り取られた景色が、やがて目の前に迫ってきた。
 最後の一歩。その一足を踏み出そうとした瞬間、ふいにがくりと足の力が抜けた。つんのめるように立ち止まったフィラに気づいたジュリアンが振り向いたけれど、その身体はもう『向こう側』へ足を踏み入れていた。嫌な予感にはじかれるように、フィラは手を伸ばす。けれどその手は、見えない壁に遮られた。同じように手を伸ばしたジュリアンが、壁の向こうで一瞬呆然とする。
「フィラ、下がれ」
 すぐに我に返ったジュリアンが焦燥の滲む声で指示を出し、フィラはそれに従って数歩下がった。ジュリアンはこちらとあちらを隔てる見えない壁に手を当て、集中して魔術を組み立てている。
 ――こんなところで魔術を使う羽目になるなんて。
 手にしたままだった匣をぎゅっと握り締めながら、唇を噛みしめた。もう一歩早く、フィラも一緒に出ていたら。すり寄ってきたレプカが、そうではないと言うように首を振る。
「フィラのせいじゃないよ。なんか、僕も引き留められた感じがした」
 レプカの背中の上から、ティナが全身を緊張させながら呟いた。
「くそ!」
 魔術では壁を破壊出来ないのか、ジュリアンがレーファレスで力任せに壁を叩く。それでも壁は破れることも姿を現すこともない。思わず駆け寄ったフィラを、ジュリアンは苦渋に満ちた瞳で見下ろした。手の中のノクタが何かを訴えるように震えて、フィラは握り締めたままだった手を開く。
「ノクタ。どういうことだ」
 怒りに燃えた瞳が、射抜くようにノクタを見据えた。
「レルファーが荒神となっている、という状況しか考えられませんが、そうなる可能性があるとは……」
「解決策は!」
 冷静に答えるノクタを遮って、ジュリアンは切迫した様子で尋ねる。
「ありません。サーズウィアを呼べば……あるいは」
 言葉の途中で、ジュリアンの顔色が変わった。
「そんな時間はありません。宿命《さだめ》の子よ」
 声の聞こえた方向、ジュリアンの視線が向けられた方を、フィラもはっと身を返して見つめる。静まりかえっていた森が微風にざわめき、その薄闇の中から浮き出るように、カルマが現れた。
「無駄ですよ、宿命《さだめ》の子。それは結界ではありません。そちらとこちらは既につながってはいないのです」
 哀れむような微笑を、カルマはフィラの背後のジュリアンに向ける。ぎり、とジュリアンが奥歯を噛みしめる音が聞こえた。カルマは慈愛に満ちた笑みを、今度はフィラに向ける。
「愛する者。フィラ・ラピズラリ。リラの力を渡しなさい」
 誘うような言葉と、フィラの身体を動かそうとする魔術に、フィラは必死で抗った。抗いながらちらりと後ろを振り向くと、壁の向こうでジュリアンが何か叫んでいるのが見える。さっきまで聞こえていた声が、今はもう聞こえない。すぐ近くにいるようなのに、本当はすごく遠い。それが感覚でわかってしまって泣きたくなった。
 それでもフィラは必死に考える。この状況を変える方法。何か、何か出来ること。いつの間にかジュリアンの声は遮断されてしまっていたけれど、まだ姿は見えている。見える――つまり、光は届くということだ。
「……ティナ」
「本気で言ってるの?」
 小さく呼びかけると、フィラが何を求めているのか瞬時に理解したらしいティナが、怒りを隠そうともせずに唸った。
「お願い」
 ――私も賛成です。リラの力でも転移出来ないよう結界が張られていますが、ティナさん一人だけなら私が逃がせます――
 ノクタの声が、頭の中だけで響く。
 少なくともここでリラの力を奪われてしまえば、ジュリアンもフィラも助かる可能性はゼロだ。例えノクタの力を借りてリラの魔力を使ったとしても、フィラが魔女に勝てる可能性はない。だったら。
 フィラは魔女を睨み付けたままリョクの背に手を伸ばして、腕の中に飛び込んできたティナを抱きしめた。
「そう、お前は諦めないのですね」
 滑るように歩み寄ってくるカルマよりも、ノクタが魔術を完成させる方が早い。フィラの中のリラの魔力が圧縮され、ノクタが作った道筋を辿って瞬く間にティナの中に流れ込む。すべて渡し終えた瞬間に、ティナは実体化を解き、光の束になってジュリアンのいる『向こう側』へ走った。瞬間移動したように肩の上に現れたティナには気付いてすらいない様子で叫ぶジュリアンの姿が、振り向いたフィラの視界に焼き付けられる。その青い瞳にわざと見せつけるように、魔女の腕がゆっくりとフィラの首に巻き付いた。
「お前は何も救えない」
 ちがう。
 魔女が抱き寄せる力に抗えないまま、呆然とこちらを見つめるジュリアンに、それでもフィラは首を横に振ってみせる。
「私を憎みなさい。愛しい子。私がお前を愛するように」
 どうしてだか、魔女もジュリアンと同じくらい、泣きたがっているように感じた。向こうとこちらを隔てる見えない壁が、まるで鏡ででもあるかのように。
 そのあり得ないはずの感傷を振り払うように、魔女はフィラを拘束する腕の力を強めた。同時にジュリアンの姿を映し出す楕円形の鏡が遠ざかっていく。振り払いたいのに、身体の自由がきかない。
 やめろ、行くなと、ジュリアンの唇が震えながら動いたように見えた。こちらの声が聞こえているのか、考える余裕もなくフィラは叫ぶ。
「ジュリアン、私、生きるから!」
 動こうとしない身体に力を込めて、無駄だとわかっていながら手を伸ばした。
 ――絶望しないで。諦めないで。だって約束した。
 手が届かなくても、声が聞こえなくても、それでも伝われば良いと願う。
「だから帰ってきて! 絶対に!」
 闇の中に消えていくその姿に、その人だけに、フィラは叫んだ。
「帰ってきて……!」