第八話 真昼の月

 8-2 青い空に

 最初にそれを知らせたのは、爆発的な魔力の揺らぎだった。光の速さで世界を駆け抜けた巨大な波が、サーズウィアの到来を人々に告げる。
 現象が広がる速度からして、実際に魔術が使えなくなり、灰色の雲が消えるのは数日後だと、光王庁付属の研究機関は計算をはじき出した。それに備えて光王庁の各部署は各地に連絡を取り、対応を指示していく。

 ユリンには朝から灰色の重苦しい空が広がっていた。今朝から偽物の空を映し出すための魔術が解除され、『本物の空』が見えているからだ。今日は狩りに行く予定がなかったので、レックスは最近さらに入り浸るようになった踊る小豚亭を訪れ、その理由を誰かが教えてくれないかと期待しながら朝食を取っていた。
 光王庁がサーズウィアを呼ぶことを公式に発表した後、ユリンの人々は城に呼ばれて記憶を取り戻すかどうか再度意思確認されることになった。そのおかげで、今ではもうレックスやソニアの両親も外の世界の記憶を取り戻している。仕事の前にも思い出話をしておきたい話し好きの人々で、踊る小豚亭はいつも以上に賑わっていた。幼い頃ユリンに来たために、本当のところ外の記憶がほとんどないレックスは、にこにこしながら皆の話を興味深く聞いている。
 そんなときに知らせを持ってきたのはサンディだった。彼女はフィラたちが旅立った後も、領主の城に時折顔を出しては情報を集めてきて、エルマーやエディスやバルトロに様々な外の世界の情勢を伝えてくれている。本当は協力するためのスキルを何も持っていないレックスやソニアには、彼女が持ってくる情報を伝える必要などないのだろう。それでもキースとサンディは律儀に何の能力もない二人にも情報を伝えてくれたし、そうしてもらうことで二人とも仲間として認めてもらえたような誇らしい気分になることが出来た。
「団長がやり遂げてくださいました。もうすぐ青空が来ます」
 踊る小豚亭に入ってくるなりそう語ったサンディは、いつもの無表情で冷静過ぎる彼女からは考えられないくらい興奮しているようだった。その話をエディスやエルマーやたまたまその場に居合わせた人々と一緒に聞いている間に、ソニアやバルトロやたまたまユリンに立ち寄っていたキースも集まり始める。
 あの子たちが取り戻した空をみんなで迎えてあげよう。
 そう言い出したのはエディスだった。レックスもそうだったけれど、サンディの興奮が伝染するようにすっかりお祭り気分になってしまった人々はすぐその気になって、あっさりその日の仕事を休みにすることを決めてしまった。エディスを中心とした大人たちが子どもみたいにはしゃぎながらピクニックの支度をし、白花の丘に皆を引っ張っていく。
 それについていきながら、レックスも心が浮き立っていくのを感じていた。
 ――もうすぐ、本物の青空がやって来る。

 天魔の群れが異変を感じて散り散りに逃げ去ったのを契機に、カイは僧兵団を砦の中へ避難させた。既に魔術が使えなくなった後のことを見越して、砦の中には魔術に頼らない武装が運び込まれ、整備も配備も終わっている。
 必要な指示と雑務をすべて終えた後、状況の変化を注視するよう部下に命じて、カイは一人砦の外に出た。本来なら兵を率いる立場の者がすることではない。けれど、どうしても『その時』を共に迎えたい相手がいた。
「もうすぐですね」
「そだね〜」
 行く手から、そんな緊張感のない会話が聞こえてくる。荒廃した大地には、避難開始前までの戦闘で死体となった天魔がそこここに横たわっていた。
 そんな死臭に満ちた場所で、周りを何も気にすることなく『何か』の上に座って空を見上げているのはリサだ。天魔の群れが引き、聖騎士団と僧兵が撤退した後で倒されたのだろう、まだ濃い魔力の気配を漂わせた武装多脚砲台にも見える何かの上に座って、抜き身の剣を無造作に手にしたままいつもの何が楽しいのかわからない笑みを浮かべている。
「カイさんが来ていますよ」
「知ってる知ってる」
 大地に蹲る黒い影の足下からそう告げるクロウを振り向きもせずに、リサは軽い調子で答えていた。やれやれ、とでもいうように肩をすくめてから、クロウがこちらを振り向く。
「僕は席を外しますよ。お邪魔でしょうからね」
 何と答えたら良いのかわからなかったが、もともと答えは期待していなかったのか、クロウは返事を待ちもせずにさっさとカイとすれ違って去って行く。その背を肩越しに一瞬振り返ってから、カイは改めてリサの元へ足を運んだ。
「リサ」
 呼びかけながら、リサが上に乗っている『何か』を観察する。鋼鉄に似た質感の黒い材質で出来た、六本脚の怪物。この戦場でも何度か目にしたことがあるWRUから派遣された|再生されし子等《リジェネレイテッド・チルドレン》だ。何度も苦戦させられた相手だったが、ついに仕留められたのかと思うとどこか空しいような息苦しさを感じた。
「よっ」
 リサの軽い声が、落ち込みかけた感傷からカイを掬い上げる。
「お前が倒したのか?」
「ん、こいつ?」
 カイが問いかけると、リサは指の背でノックするように軽く六本脚の背中を叩いた。乾いた金属質の音が微かに響く。カイが頷くと、リサは苦笑いしながら肩をすくめた。
「私と、クロウでね。聖騎士や僧兵が撤退してってくれないとクロウが全力出せなくってさー。ここまで決着長引いちゃった」
 そう言って地平線へ視線を移すリサの隣に、カイはよじ登る。
「もったいないとは思ったけどね。せっかくもうすぐ面白いものが見れんのに、ここで死んじゃうなんてさ」
 かーいそーにねー、とまったく同情していない口調で呟いて、リサは目を細めた。
 その視線の先に広がるのは、灰色の空。原始的な魔術式が走るあの雲は、全て魔術によって編み上げられたもの。この世から魔術が消えたとき、何よりも劇的に変化するのは空だろう。そう知っているから、リサは待っている。
 リサと背中合わせになるように座り込み、同じ気持ちで地平線を見つめながら、カイも気配を感じていた。もうすぐ、もうすぐだ。リサももう何も言わず、ただ地平線を見つめて待っている。
 やがて地平線が白く燃え上がった。灰色と灰色の境目でしかなかったそこが、真っ白に輝く。ただの線にしか見えなかった光は瞬く間に厚さを増し、こちらへ近付いてくる。灰色の雲が、吹き払われるように消えていく。降りそそぐ光が揺らめきながらカーテンのように迫ってくるのを、黙ったまま呆然と見つめていた。
 ずっと待ち望んできた光だ。喜びよりも、なぜだろう。泣きたいような感傷に襲われる。ちらりと振り向くと、リサは無表情にその光を見つめていた。
「なんかさ、終わったって感じしないね、意外と」
 ぽつりと力なく落とされた言葉に、カイは思わず眉をひそめる。
「死ぬまで終わりなど来ない。そういう話じゃなかったのか?」
「へっ? 何が?」
「……生き続けるんだろう」
 何百年一人で生きることになっても、その間ずっとこの世界に残った神や天魔と戦い続けることになっても。それは確かに以前リサが言った言葉だ。
「そうだけどさー」
 地平線を見つめたままのリサは、カイがじっとその横顔を見続けていることに気付いていないようだった。降りそそぐ光はもう目の前だ。荒れ果てた荒野が陽光に照らされて、今まで灰色だった世界に僅かに茂った草の緑やシロツメクサの花の白、スミレの紫が鮮やかに浮かび上がる。灰色の雲の影が二人の上から消える直前、リサの唇が小さく動いた。
 ――これで、ひとり。
 声にならない言葉に、カイは唇を噛みしめる。絶対にそうはさせない。この世界から魔術が消え去っても。
 通り過ぎる光のカーテンが瞬く間に背後に去って行く。顔を上げて青空を見上げたリサは何も言わない。同じように空を見上げながら、カイは改めて誓う。
 これは終わりなどではない。その命が果てるまで、追いかけ続けてみせる。

「ランティスさーん、空見るんだったら穴場行きません?」
 場所取りに出ていたモニカが事務室に戻ってくるなり浮かれた声でそう言った。
 一時間ほど前に観測された魔力波から、サーズウィアが来たことはもう中央省庁区中に知れ渡っていた。正式な調査結果を待たずに光王庁内部もざわざわと落ち着きをなくし、先ほど光王から公式発表があって光王庁の上空を覆う結界が安全性を確認した上で解除されると、皆仕事そっちのけで空が見える場所に出て行ってしまった。
 最後まで各地の自警団や僧兵団に指示を出していたフェイルやランティスたちも、ようやくはしゃげるだけの余裕を手に入れたところだ。そして余裕が出来て真っ先に場所取りに動き出したのが、エセルとモニカだった。
「穴場?」
「聖騎士団関係者専用の避難階段でーす!」
 片手を挙げて楽しそうにそう言うモニカの後ろから、エセルもひょこりと顔を出す。
「フェイルさんも行きますよね?」
「はいはい。もちろんですよ」
「はやくはやく! もう始まっちゃいますよ!」
 急かすモニカは、サーズウィアの到来をまるでイベントか何かかと思っているようだ。実際それに近くはあるのかと思いながら、ランティスは途中だった仕事を中断して周辺をさっと片付け、立ち上がる。
 事務室の戸締まりをしてほとんどスキップしそうな勢いのモニカとエセルについていきながら、隣を歩くフェイルの様子をちらりと伺った。フェイルはいつも通りに細い目をさらに細めて微笑んでいるが、微かに伝わってくる緊張感は間違いなくジュリアンの身を案じてのものだ。空が晴れても、ジュリアンとフィラが無事かどうか確かめる術はない。
「あっ、もう始まってる!」
 廊下の突き当たりのいつもは締め切られている扉を、無理矢理もぎ取ってきたメンテナンス権限でこじ開けたエセルとモニカが、はやくはやくと手招きしている。
 扉の外は少し開けた踊り場になっていた。いざという時に出来るだけ大勢が安全に避難できるように階段が広めに作ってあるから、四人で空を眺めるには充分過ぎるほどだった。穴場だというモニカの言葉に間違いはない。
 光王庁でもかなり高い位置にあるこの場所からは、空だけではなく中央省庁区の様子も一望の下に見渡せた。光王庁の発表を聞いた人々が家の外やベランダや屋上に出て、百数十年ぶりの青空がやって来るときを待ち構えている。
 遙か地平を見渡すと、西の空が白く染まっていた。
「来る来る!」
「団長やった〜!」
「もう団長じゃないけどやった〜!」
 子どものようにはしゃぐエセルとモニカに微笑しながら、ランティスは近付いてくる陽光に目を細める。瞬く間に吹き払われていく雲の影と陽射しに照らされた大地の境目が、西の荒野からどんどん近付いて来ていた。まるでそこを境に世界が生まれ変わっていくように、鮮やかな色の奔流が押し寄せてくる。
 エセルたちと一緒になってはしゃぐ気持ちにはなれなかったけれど、それでも気分が高揚していくのを感じた。
(さあ次は)
 生まれて初めて浴びる本物の陽光に、道路を埋め尽くす人々が両手を振り、歓声を上げ、帽子を投げ上げる。
(早く帰ってきておっさんたちを安心させてやれよ)
 自分のことを棚に上げてそううそぶきながら、ランティスも青空に手をかざした。

 世紀の瞬間を一応目にすることは目にして、フランシスはさっさと執務室に戻った。やらなければならないことはまだまだ山積している。サーズウィアの到来で魔術が基本的に使えなくなったことで、天魔やWRUの残党との戦い方は大いに変わってくるし、今後起こってくるだろう混乱に乗じて後先考えずに光王やランベールを叩こうとするフォルシウス内部の動きも抑えなければならない。
「こんな時くらいはしゃいでも良いと思いますけどね」
 冷たくて甘いものが飲みたい、と思ってはいたが言ってはいないはずなのに、フィアが持ってきたのはよく冷えたレモネードだった。
「はしゃいでますよ。もう充分」
 さっきまで隣で青空を見上げていたのだから、フランシスがはしゃいでいることくらいフィアにはお見通しのはずだ。レモネードをフランシスに手渡したフィアは、その言葉を肯定するように軽く肩をすくめてから、すっかり定位置になっているサブデスクの前に座ってフランシスが下した決定の最終チェックを始める。
「ランベール様でさえ、その瞬間だけは自宅でお迎えになったのに」
「俺が自宅に帰っても誰も歓迎してくれませんし」
 拗ねた口調にフィアは困ったように苦笑した。
「そんなことはないと思いますが」
「少なくとも表立って青空を歓迎できる空気ではないでしょう」
 真面目に答えてしまったせいか、フィアは言葉に詰まったようにフランシスを見返す。
「自分が歓迎されることより、英雄の帰還を歓迎する方法を考えた方が今は建設的だと思うんですが、君の意見は?」
「嫌な予感しかしませんね」
 歓迎される英雄に同情しているらしい恋人に、フランシスは「よくわかってらっしゃる」と満足した笑みを浮かべた。

 青空は広がっていく。
 あらゆるメディアを駆使してこの空の祝福を伝えようとする『光の巫女』アースリーゼの上にも。
 光王庁近くの居住区でジャガイモ畑の心配をしながら屋根の上で空を見上げるヤン・バルヒェットとその家族の上にも。
 海辺でアザラシを追いかけているうちにすっかりサーズウィアが来ることを忘れてしまい、周り中から上を見ろと急かされたアラン・ボウチェクの上にも。
 初任務として、光王庁に勤めるフォルシウス家の者の中にこの混乱に乗じて不穏な動きをする者がいないかどうか探るよう命じられたルッカ・エイディの上にも。
 違法居住区に立てこもりながら、その外壁が魔力を失った天魔に対してどれくらい有効かを息を詰めて見守っている、ホテルの主や常連客の賞金稼ぎや情報屋の上にも。
 ユリンの城の塔に登って歓声を上げる僧兵たちや、城専属の料理人ジェフ・ダレルや未だに城に出入りしているピアニストのアメリ・ローウェルの上にも。
 イルキスの樹の導きで、光王庁の支援を受け入れることを決めたレルファールの民の上にも。

 そして、ユリンの研究所跡地で終わりの時を待つ、闇の竜の上にも。

 崩れ落ちたドーム天井から差し込む光に、彼女はその時が来たことを悟る。最後の力を振り絞って、彼女は遙か遠くから聞こえる声に応えた。
 ――受け入れよ、支援せよ、闇の眷属。我らの最後の奇跡を――
 もちろんだ、と、リーヴェ・ルーヴは思った。それは彼女にとっても、どうしても叶えたい願いだったから。