第八話 真昼の月

 8-3 月

 眩い陽射しに照らされて目覚める。何度か瞬いて目が慣れると、崩れたドーム状の天井の向こうに、陽射しに輝く木々の緑と、その間から降りそそぐ光と、そして青い空が見えた。
「ここは……?」
 擦れた声で呟いて、はっと身を起こす。途端に酷い目眩に襲われて、フィラは頭を押さえた。
 自分がどうしてここにいるのか、長い夢を見た後のように混乱している。穏やかな木漏れ日の下で、それでもどこか薄ら寒い影が足下から這い上がってくるような焦燥があった。
「私……どうして……」
 どうして、一人なのだろう。
 そう思った瞬間、ぞくりと背筋が冷えた。
(思い出さなきゃ)
 どうしてここにいるのか。一体何が起こったのか。
 震える呼吸を押さえ込んで、気持ちを落ち着ける。記憶はすぐに戻ってきた。

 ジュリアンの姿が見えなくなると、辺りは闇に閉ざされてしまった。何も見えない。暗く冷たい虚無の中へ引きずり込まれて行くみたいだ。呼吸が苦しくなって、暗闇におぼれそうになる。
 ほとんど締め付けるように捕らえる手を振り払おうと必死でもがいて、でもカルマの力は緩まなくて、ただ焦燥だけが募っていった。誰も助けに来てくれるはずがない。ジュリアンもティナも手の届かないところにいて、約束を守るためには自分で助からなくてはならない。――それなのに。
 この手には何もない。何の力も――
 酸素が足りない。頭がぼんやりしてきて、何も考えられなくなってくる。諦めたくないのに。
 身体だけでなく、心まで闇の中に落ちていくような気がして、フィラは嫌だと叫んだ。声にならない声で、誰にも届かないとわかっていて、振り絞るように、このまま終わるのは嫌だと叫んだ。
 その叫びが届いたように空気が揺れる。その揺らぎを追って、何かが駆けてくる。少しだけ空気が動いて呼吸できるようになったフィラは、ぐらぐらする視線をどうにかそちらへ向けた。
 聞こえるはずのない足音を響かせながらこちらへ向かって走ってくるのはリョクだ。薄茶色の艶やかな長毛の穏やかで賢い草食動物は、しかし今まで見せたことがないような俊足で迷わずこちらに駆け寄ってくる。それに気付いたカルマが何故か緊張したように身体を強張らせて、フィラを拘束する腕に微かな隙が出来た。
 ――今しかない。
 フィラは身を捩り、どうにかその腕の中から抜け出そうともがく。ほんの僅かに身体が離れたその瞬間を見計らったように、リョクが魔女を突き飛ばすように体当たりしてくる。逆方向に飛び込むようにカルマの手を逃れたフィラは、勢いのままに朧気な感触しかない床の上を転がった。
 どうにか止まったところで顔を上げると、リョクがフィラを守るように魔女との間に立ちはだかっている。
「また邪魔をするのですか? これはお前が望んだことなのに」
 魔女は冷ややかな瞳でリョクを見据える。その視線の先でリョクの輪郭がぼやけて、違う形に変わっていく。
「そう。望んだのは私」
 長い銀髪が揺れて、フィラは目を見開いた。
(ウィンドさん……?)
 そうとしか見えないのに、聞こえる声はランのものだ。もしかしてウィンドもこんな声だったのだろうか。そんなはずはないのに、記憶が上から書き換えられていくように彼女が誰だかわからなくなってしまう。
「でも私は、後悔している」
 ウィンドと同じ後ろ姿の少女は、ランの声と口調で静かに魔女に語りかけた。
「後悔している。私は……私たちは」
 一歩近付いた少女に気圧されるように、魔女も一歩後ろへ下がる。その姿が迷うように揺れた。
「私は、あなた。あなたは、私。私たちは、同じ存在《もの》」
「お前は私ではない。ラン」
 少女を警戒するように、カルマの魔力が膨れあがる。
 その言葉には、何故か言い知れない憎しみと呪詛が滲んでいるようで、自分に向けられたわけでもないのにフィラは思わず身震いした。しかしカルマと対峙する少女には、恐れる様子は微塵もない。
「その名を持つ人間は、もうこの世にいない。ランは死んで、私と一つになったから」
 カルマはただ憎々しげに少女を見つめる。その意識からは、もうフィラは消えてしまっているようだった。
「私と……つまり、あなたと。……フィウスタシア」
「私はお前ではない!」
 少女がもう一歩近付くと、カルマは警戒心を露わに魔術を構築し始めた。明らかに攻撃的なその魔術に、しかし少女は頓着することなくフィラの方へと振り向く。余りにも無防備な様子に、カルマですら虚を突かれたようだった。
「また会えましたね。フィラ」
 慈しむような微笑みは、間違いなくウィンドなのに、彼女が誰なのかわからない。何よりも背後でカルマの魔術が完成しようとしているのに、このままでは確実に攻撃を受けてしまう。戸惑いながら見つめ返すフィラに、彼女は小首を傾げて笑みを深めた。
「私の願いは、今、きっとあなたと重なっているのでしょう」
 ――それでもあなたが願うなら、私たちと同じ願いを持ってくれるのなら、また会うこともあるでしょう。私たちの願いが重なるその時に――
 ユリンで最後に会ったとき、ウィンドが言っていた言葉。では、やはりこの少女はウィンドなのだろうか。
 フィラが混乱し続けている間、カルマは訝しむように魔術を放つタイミングを計っていた。ウィンドらしき少女は身構えてすらいない。少女にどんな狙いがあるのかわからないまま、フィラはとっさに拙い魔術を組み上げる。まともな魔術式の体すらなしていない、効果があるのかどうかもわからない、『調律』と真逆の魔術。少しでもそれでカルマの魔術を乱すことが出来れば良いと思った。
「ありがとう、フィラ」
 手を伸ばした少女は、まだ構築途中の魔術式ごとフィラの魔力を受け取る。契約も同意もしていないのになぜそんなことが出来るのかと唖然としているうちに、彼女はフィラに背を向けていた。
「行ってください、フィラ。愛する者」
「この場は彼女に任せ、逃げるのが最善だと思われます」
 フィラが何か答える前に、ノクタの声が頭の中で響く。
「あなたの身の安全が最優先です。立って、数歩で良い。後ろへ下がってください」
 ノクタの声はいつも通りの淡々としたものだったけれど、なぜか少しだけ何かの感情が滲んでいるような気がした。無意識に握り締めたままだったノクタを握り直す。感触のない闇の上によろめくように立ち上がると、その瞬間を狙ったように前方から風が吹き付けた。風に押されて、フィラは思わず数歩後退る。
「ウィンドさん……!」
 ウィンドとカルマの魔力が膨らんでいく。闇の中に風が渦巻く。戦いが始まろうとしているのを感じて、フィラは思わず叫んだ。
「大丈夫。私たちは同じ存在《もの》。それがただ、一つに戻るだけ」
 肩越しに振り向いたウィンドの笑顔がなぜか別れを告げているようで、フィラは思わず手を伸ばしそうになる。その手の中で、匣が膨らむ。辺りを包む暗闇よりもなお暗い真の黒が、何の抵抗もなく広がって、フィラの身体も意識もすべてを飲み込む。
 ――行って、果たして。約束を、どうか――
 最後に聞こえた囁きがウィンドのものだったのかランのものだったのか、あるいはカルマのものだったのか、それすらフィラにはわからなかった。

 一瞬でそこまで思い出して、フィラは焦燥に駆られながら立ち上がる。結局、ここがどこなのかはわからないままだ。ノクタが自分をどこへ連れてきたのか、まずそれを知らなければならない。けれど、一番問いただしたいノクタはどこにもいなかった。握り締めていたはずの手の中には何もない。
 何か手がかりはないかと必死で周囲を見回す。この場所には見覚えがあった。一部が崩れ落ちた壁とドーム型の屋根。まるで天体観測所のような建物と、それを浸食している蔦や雑草。
(まさか、そんな……!)
 可能性に思い当たって、何かから逃げるように建物の外に転がり出ると、記憶にある通りの風景が広がっていた。
「そんな……」
 呆然とした呟きが零れ落ちる。暖かい陽光さえ、冷たい温度に変わっていくようだった。
 ここは、ユリンだ。ユリンの、研究所跡地。いつかの夜、リーヴェ・ルーヴと語り明かして、青空に消える月を見たその場所。
 ノクタが闇の濃い場所――リーヴェ・ルーヴの中にフィラを逃がしてくれたのだ。それなのに、リーヴェ・ルーヴはいない。サーズウィアが来て、その存在が現界から消えてしまったからだとしたら説明はつく。
 でも信じたくない。もう間に合わないなんて、思いたくない。
 縋るように見上げた空には、あの時と同じように白い月が浮かんでいた。消えることなく。これが本当の、本物の空なのだと証明するように。
 ずっと求めていたはずなのに、それを取り戻すための旅だったはずなのに、その青と白が悲しい。もうサーズウィアが来てしまったのだとしたら。だとしたら、ジュリアンは――
「嫌だ……」
 震える膝が、勝手に地面に崩れ落ちた。
「そんなの……私だけ、生き残ったって意味ない……!」
 青空の下で、明るく暖かい本物の陽光の下で、フィラは叫んだ。側にいると、約束したのに。どこにも行かないと。なのに約束を守れなかった。守ることが出来なかった。
「やだ……嫌だ! ジュリアン……ジュリアン!」
 地面についた手に、乾いた砂が貼り付く。爪の間に土が入るのにも構わず、フィラは大地を引っ掻くように手を握りしめる。
 祈りではない。呪詛にすらなれない。ただそのひとを求めるだけの叫び。
「お願い……」
 自分の力ではどうしたって届かないとわかっていた。
「誰か……」
 だから誰かに助けを求める。その相手が誰かすらわからないのに。誰でもいい。誰でも良いから助けてほしい。最低だ。わかっていても願わずにいられない。
 ひとりでは何も出来ない。ここから声は届かない。自分は生きていると、一緒に生きられるのだと、伝えなくてはならないのに。
 ――フィラ!――
 ティナの声が聞こえた気がした。はっと顔を上げて周囲を見回す。もうそこには存在しないはずのリラの魔力が少しだけ、揺らぐようにフィラの中で力を取り戻す。サーズウィアの後だからだろうか。それは薄皮を一枚隔てたように遠く、触れようとしても届かない。それでもフィラはそれに触れようとする。つたない技術と、想いだけで――すがるように。
(リタ、お願い。これが最後だから――)
 自らを抱きしめるように蹲るフィラの前に、ふっと誰かが降り立った。
 気配を感じて顔を上げる。柔らかそうな革のサンダル、白く長いローブ。見たことのない装飾の服装。さらに顔を上げると、こちらに向かってかがんでいる輝くようなくせのない金髪の少女の、その青空色の瞳と目が合った。穏やかに微笑するその姿は半透明で、陽炎のように揺らいでいる。
「リタ……?」
 少しだけ大人になったリタみたいだ。そう思って呼びかけると、少女は微かに首を横に振って背筋を伸ばし、空を指差した。
 その先の青に浮かぶ、白い真昼の月を。