水妖の滝

 辺境伯ルシエンテスの領土は大半が深い森に覆われていた。深い森の中には王都へ向かう街道が一本だけ通っている。ごくまれに王都からの――あるいは王都への――使者が行き来する以外、その道を利用する者は少ない。辺境も辺境であり、森には妖(あやかし)が棲んでいるともなれば、旅人の往来も自然少なくなる。そしてルシエンテスの領民は荘園の外には出なかった。

 領主ルシエンテスには、長い間跡継ぎがなかった。ようやく跡継ぎが生まれたのは、もはやルシエンテス家の断絶は時間の問題と領民達すら噂し始めた頃のことであった。
 跡継ぎはガスパールと名づけられ、大切に育てられた。
 ガスパールは文武共に、風采の上がらぬ両親から生まれたとは思えぬほど優秀だった。王都に仕官に上がった頃には多くの浮名も流したが、結局身を固めぬままに領地へと戻って来た。

 この物語はガスパールが王都より帰還した翌年の夏、妖が棲むという森の奥深くより始まる。

 ガスパールは迷っていた。狩の途中で従者とはぐれたのである。だが彼は慌ててはいない。ゆったりと馬を歩かせ、森の物音、木漏れ日の淡い光を感じていた。森は穏やかで明るかった。
 陽はまだ高く、森の中には鳥達の歌声と葉擦れの音が満ちている。ガスパールはこの森の静かな物音が好きだった。
 日が暮れるまでに帰れればよい、と、ガスパールは思う。
 その耳に、不意にそれまでの物音とは違う音が飛び込んできた。
 谷川を流れる水の音だった。朝からほとんど飲み物を口にしていなかったガスパールは、喉の渇きを覚えて水音のする方へと馬を歩かせた。

 急峻な道を辿って谷へと下り、馬と並んで水を飲んだガスパールは、川縁を下って行くことにした。このあたりを流れる川ならば、ルシエンテスの荘園を流れる大川と合流するはずだ。
 しばらく行くうち、ガスパールは水音の質が変わったのを感じた。穏やかなせせらぎの音に代わり、滝の流れ落ちる、轟々と大きな音がする。川の両脇の崖は切り立ち、高さを増し始めた。ガスパールは崖に刻まれた獣道を下って滝壺へと降りた。
 道は滝の前へ通じていた。滝壺の周囲は岩場となっており、その外側を木々が囲み、そのさらに外は切り立った崖で囲まれている。岩場に生えた草木は飛沫に濡れ、陽光を弾いて輝いていた。滝壺から流れ出た水は岩場を走り、あるいは砂地を通ってせせらぎを作り、透明な流れとなって川下へと流れていく。滝壺から出る道は、ガスパールが今降りてきた獣道と、川沿いのあるか無きかの苔むした小道の二つだけだ。二つの道が交わる先では、漆黒の巨石が滝へと張り出していた。
 その岩の上に、一人の女がいた。
 女は滝の水飛沫に濡れて陽光を弾く、黒く大きな岩の上、岩が滝に向かって手を差し伸べているかのような、その先端に立っていた。両の手に薄布を持ち、それを頭からかぶっている。布は彼女の表情のほとんどを隠し、滝壺へ落ちる水が作る風に揺れていた。布の下からは長い漆黒の髪がのぞいている。着ている服はガスパールの知らない異国の衣装だった。
「人の子よ、ここはそなたの来るべき場所ではない」
 女は振り向き、薄布の下からそう言った。
「お前は何者だ?」
 ガスパールは滝の音に負けぬよう大声で尋ねた。
「我はこの地に棲む妖(あやかし)」
 女は穏やかに答えた。滝の落ちる轟音の中で耳に届いたのが不思議なほどに、酷く静かな声だった。
「二年前より、里の者はここへ来ることを禁じている。そなたは知らぬのか?」
「知らぬ」
 ガスパールは答えた。
「私はその頃王都にいた」
「では、そなたの叔父の話も知らぬのだな?」
「叔父の……?」
 ガスパールは眉根を寄せた。二年前死んだ叔父のこととなると、ルシエンテス一族の口は皆一様に重くなる。だが顔も覚えてはおらぬ叔父のこと故、ガスパールは今まで気にも留めずにいた。
「いや……耳にしたことは無い」
「そうか」
 妖を名乗る女は小さくため息をついた。
「里の者は、森にて道に迷い、川に行き当たりし時は下れと説いている。そなたもその言葉に従うが良い。この川はそなたの城下を潤すもの」
 妖はそう言って川下へ右手を差し伸べた。
「険しき道なれど、そなたの馬ならば抜けられよう。立ち去られよ、人の子よ」
 手を離された薄布が、風を受けて翻る。
 垣間見えた妖の姿に、ガスパールは目を奪われた。

 ガスパールには妹が一人いた。名はイサベルと言い、ガスパールより三つ年下だ。妾腹の娘であり、家督を継ぐ権利は持っていない。
 イサベルがガスパールを訪ねてきたのは、ガスパールが森で妖と出会ってから二日後のことだった。
「お兄様」
 城で一番見晴らしの良い窓辺に座っていたガスパールに、イサベルは控えめに声をかけた。
「二日前、夜も遅くに森より帰りましてから、いつでもお兄様は上の空でおいでです。森に棲む妖に魅入られたのだと、皆が噂しております」
「そうかもしれない」
 ガスパールはぼんやりと窓の外を見つめたまま答えた。彼は妹の表情が泣きそうに歪んだことにも気付かない。
「森で女性に会った」
 ガスパールは呟いた。
「彼女は滝壺にいた。以来彼女のことが頭から離れない」
「滝壺に?」
 イサベルは不安をにじませる声で尋ねる。
「ああ」
 イサベルは震えるようにため息をついた。
「滝壺には妖が棲んでおります。水の一族に連なる、冷酷な妖です。彼らはその流れを乱した者、彼らの聖地を汚した者を許してはおかぬでしょう。彼の者は人にあらねば、我らと相容れることはありません。妖はいつか必ずお兄様に害を為します。お兄様、約束してくださいませ。その滝壺には二度と足を踏み入れぬと」
「一つ答えてくれるか」
 一気に言い放った妹に、ガスパールは振り向いて尋ねる。
「二年前、叔父の身に何があったのだ?」
 イサベルの顔は目に見えて青ざめた。
「それは……言えません」
「何故だ?」
 ガスパールの声は不機嫌に低くなる。
「それが掟なのです」
 妹の答は、ガスパールを満足させるものではなかった。

「またここへ来たのか」
 以前と同じ岩の上に現れた妖は、しかし今日はその岩の上から飛び降りてガスパールの前に立った。
「そなたは面白い男だな」
「面白いと言うのならそれはお前もだ。伝承の通りであるならば、水の精は聖地を汚した者に取りすがり帰さない」
 妖は声を上げて笑った。妖の笑い声は小川のせせらぎの音に似ていた。やはり彼女は水の精なのだと、ガスパールは確信を深める。
「妹にはもうここへは行くなと言われた。いつか妖は私に害を為すと」
「それはそなたの妹の方が正しい」
 薄布の下、妖の笑みは深くなる。
「我は水の一族に連なるものなれば、与えるよりも奪うことが多い」
 妖は重みを感じさせない動作でガスパールの前へ歩み寄った。
「水の精は人と結ばれることでしか魂を得ることが叶わぬ。魂無き精霊は、ときに酷く残酷なもの。伝承もそう伝えているだろう?」
「二年前に何があったのだ?」
 水の精は歩みを止めてガスパールを見上げる。布の下からこちらを見るのは深い緑色の瞳だ。新緑に宿る朝露のように明るく透明で、同時に底の無い沼のような、深淵の気配をたたえた瞳だった。
「そなたの妹とそなたの叔父とは血がつながらぬ故……」
 緑色の瞳がゆっくりと瞬く。
「二年前、婚礼を挙げるはずであった。だが式の朝、そなたの叔父は死んだ」
 妖は言い終えると同時に踵を返し、滝の前へと足を進めた。
「何故?」
 滝壺の前で足を止めた妖は、黙ったまま答えない。
「答えられぬのか?」
「遠く……ここよりはるか離れた何処かの土地にて、ラディウスがまだ生きていると……そんな気がまだしている」
 ようやく答えた妖の声は、いつにも増して静かな声だった。ラディウス――叔父の名を呼ぶ言葉の響きに、ガスパールは我知らず顔を歪める。
 他人の感情になど、聡いほうではなかった……はずなのに。
 ガスパールは一つ息を吐いて、妖の想いに気付かなかった振りをする。
「……ここは、美しい場所だな」
 ガスパールは妖の背に向かって呟いた。
「ここで午睡を取っても良いだろうか」
「好きにするがいい」
 妖はちらりと振り向いて頷く。
「だが、日が暮れる前には帰られた方が良かろう。時間になったら起こすが」
「すまないな」
 ガスパールは微笑を浮かべ、手近な木の根元に腰掛けた。柔らかく苔むしたそこは、意外なほど座り心地が良い。緑深き梢を通して陽光が踊る。滝壺を囲む崖の底から見上げる空は青い。
 ガスパールは感嘆のため息をつき、目を閉じる。
 しばらく滝壺の縁にとどまっていた妖の気配もやがて掻き消え、ガスパールは眠りに落ちた。

 翌日からはそれが日課となった。昼食は途中の川辺で食べ、滝壺で午睡を取る。妖は気まぐれに現れることもあったが、大方はガスパールが寝過ごしたときに起こしに来るだけだった。