水妖の滝

 妖(あやかし)と初めて出会ってから半月ほどたったある日、ガスパールはいつものように木の根元で目を閉じていた。
「午睡(シエスタ)にはまだ早いぞ」
 からかうような声は岩の上から降ってきた。ガスパールは目を開いて妖を見上げる。
「……珍しいな。お前が陽も高い内から現れるとは」
 寝起きのかすれた声に、妖は静かに笑った。
「聞きたいことがあってな」
「何だ?」
 ガスパールは身体を起こし、岩の上から飛び降りる妖に手を延ばす。
「そなたの父がこの川の源を汚そうとしていると聞いた。いったい何をするつもりなのだ?」
 妖はガスパールの手助けは受けず、羽毛のように軽い動作で着地して尋ねた。妖の問いにガスパールは眉をひそめる。
「川の源を汚す? 私の父は私以上に森とその眷属(けんぞく)とを恐れているはずだ。そのようなことをするとは思えぬが……」
 ならば良いのだが、と呟き、妖は目を伏せた。
「水源を汚すものを水の王は許さない。我が父はそなたらに災いをもたらそうとするやも知れぬ。気をつけられよ」
 暗い色の鳥が騒ぎ鳴きながら滝壺の上を横切り、妖は瞳を上げた。
「森の精霊達が騒いでいる。人の子よ、今日はもう帰られた方が良い」
「ガスパールだ」
 妖は視線をガスパールへと下ろし、不思議そうに首をかしげる。ガスパールの返答が解せなかったのだろう。
「我が名はガスパール。人の子などと呼ばれることは好かぬ」
「……そうか。そうだな、大方の人間は名で呼ばれることを好くのであった」
 妖は苦笑を浮かべた。
「お前の名はなんと言う?」
 ガスパールは妖の瞳を覗き込み、尋ねる。緑色の瞳に、不意に影が差す。
「我は妖。名など持たぬ」
 妖の視線はガスパールから逸れ、滝壺の水の上へとさまよっていった。
「では、何と呼べば良い」
 妖の視線を追いかけながら、ガスパールは再び問いかける。
「私は自らの記憶を一族から切り離した」
 妖は静かに目を伏せ、何の脈絡もなくそう告げた。
「水の一族は全ての記憶を共有する。それ故我らは太古の時代を覚えている。そして私が死ねば、私と同じ個体が私と同じ共有された記憶を持って生まれる。だから、我らには名前など必要ではない。……そのはずだった」
 妖の声はあまりにも静かだった。滝の音が止んだかのような錯覚を覚えるほどに。
「だが、今私が刻む記憶は私だけのもの。私は、ラディウスと過ごした記憶を、一族のものと分かち合うことを拒んだ。そして自らの記憶を一族から切り離した。だから私が消えればこの記憶も消える。私にとっての死とは、恐らくはそういうものだ」
 妖は小さくため息をついた。同時に、ガスパールは滝の音が相変わらず轟々と鳴り響いていることに気付く。
「我もまた死すべき定めを負うものなれば……私は……名を持つべきなのだろうか」
 妖は呟き、つと身を翻した。
「妹に心労をかけたくないと願うなら、そなたはもう城へと戻るべきだ」
 妖は岩の上へと舞い上がる。見上げたガスパールは逆光に目を細めた。光に目を奪われた一瞬で、妖の姿は岩の上から掻き消える。
 今日はもう姿を現すことはないだろう。
 そう思って、ガスパールは小さく息を吐く。たたんで枕代わりにしていたマントを拾い上げて羽織った。滝から少し離れたところで草を食んでいた愛馬に近づき、首筋を軽く叩いてやる。
 ――忘れていた――
 不意に、耳元で声だけが響いた。
 ――精霊達の荒れ騒ぐ日は森へは来られるな。精霊達は聖地を荒らす者を許さぬ故――
 ガスパールは馬に跨り、馬上から滝壺を見渡す。妖の姿はやはりどこにも見えない。ガスパールは仕方なく虚空に向かって一つ頷き、川下に向かって馬を歩かせ始めた。

「ガスパール」
 城へと戻り、手綱を解いていると、厩舎の入り口から呼びかけられた。
「父上」
 ガスパールは軽く目を見開いて振り向く。乗馬を好まない父が厩舎へやって来るのは非常に珍しいことだった。
「また滝へ行っていたのか」
 領主ルシエンテスは厳しい表情で尋ねた。
「はい」
「今この時期にそなたが妖に魅入られるとは……」
 ルシエンテスは苦々しげに首を振る。
「ガスパール、二度とあの滝へ行ってはならん。王都より、上水道の整備をせよとの命があった。これで農地は大きく広がり、この地の民の生活は豊かになる。だが水の一族はそれを望まぬであろう。また邪魔をされるわけには行かぬのだ」
「妖が私に害を為すとでも……彼女は我らに友好的です。害を為すとは……」
「かつて水の精霊達は、我らが飲み水を得ている泉を祝福し、病を癒す力を与えた。確かに我らは友情と盟約とで結ばれておった。だが、それはもう過去の話だ」
「聖なる泉のことを言っておられるのなら、あの泉はまだ病を癒す力を保っています」
 言葉を強く遮られたガスパールは、憮然として言い返す。
 聖なる泉は領主の城の中庭に湧き出る泉だ。水の精霊の祝福を受けた泉の水は、どんな病も癒す力を持っていた。ガスパールが幼い頃には、その水を求めて遠方からやって来る旅人も多かった。
「確かに、ここのところ水を求めてやって来る旅人は少ないようですが……」
「二年前、あの泉は我らに害を為した。水界の者が我らの領地へ侵入する、その門となったのだ。それ故に奇跡の水の評判は地に落ちた。当時も陛下は上水道の整備を求めておられたが、その事件で工事も中止になった。水の王の怒りに触れたと、働き手たちが逃げ去ったからだ」
 早口で一気に言い放ったルシエンテスは、一度大きく息を吸い込んだ。
「しかし良いかガスパール、お前ならばわかるであろう。我らが仕えるべきは水界の王ではない。我らの国王が水界の領土を求めておられるならば、我らはそれを得るために水妖たちと戦わねばならぬ」
「しかし父上、水の王の怒りに触れることは……」
「我らの王が水の王より力無き者とでも思っているのか、ガスパール!」
 ルシエンテスは、なおも言い募ろうとするガスパールに怒鳴り立てた。
「そうではありません。しかし」
「ならば口を慎め! 今の言、そうと取られても仕方がないぞ!」
 口調を荒らげたことを後悔するかのように、ルシエンテスはガスパールから視線を逸らす。
「……三日後、王都より技師が到着する。晩には歓迎の宴を催す。失礼のないように迎えよ」
「……わかりました」
 踵を返した領主は、しかし厩舎の戸口で立ち止まった。ガスパールはどこか疲れたようなその背中に、ふと淡い哀れみのようなものを感じる。哀れむ理由などないはずだと、ガスパールは自らの感情に戸惑う。
「ガスパール」
 短い逡巡の後に、ルシエンテスは口を開いた。
「私は知っての通り、学問に暗く武に長けてもいない。だがお前なら王に良く仕え、この地の民を上手く導くこともできよう」
 父はこちらを振り向こうとはせず、淡々とそう告げた。
「お前自身の幸福を捨てろとは言わん。だが水の精は駄目だ。あれはお前も民も不幸に陥れるばかりだ。領主として、そして父親としても命じる。あれに心奪われてはならん」
 ルシエンテスはわずかに振り向き、ガスパールを見上げた。
「ガスパール、私はあれに多くのものを奪われた。仇を討ちたいのだよ。義弟を……そして私の娘を不幸に陥れた魔物に」
 逆光の中、父は微かな笑みを浮かべているようだった。

 その晩、ガスパールは夢を見た。
 使い慣れた寝具は、いつの間にか隙間なく生い茂った苔に変わっていた。目を上げれば梢が一面に広がっている。空は見えない。深い、深い森の匂い。だが物音はない。風が梢を震わせる音も、夜啼き鳥の声すらも。
 苔の寝床は柔らかくガスパールの身体を包み込み、暖かく居心地が良かった。ガスパールは、そのまままどろみの中へ戻ろうとする。穏やかで、満ち足りた眠りに。
 不意にそのまどろみを覚ます感触を感じた。右足に触れる、冷たい水の感触。だが顔を向けることすらも億劫で、ガスパールは再び目を閉じた。水は足元からゆっくりと水位を増す。それはじわじわと苔を伝い、衣服を少しずつ侵食していく。やがて水面が両の手に触れる。冷たく感じた水は、身を浸せば驚くほど暖かかった。
 少しずつ、少しずつ、体が水に沈んでゆく。自分の身体が、その水に溶けてなくなってゆくかのような錯覚を覚える。それが大層心地良かった。
 ついに全身が水に沈む。ガスパールは緩々と瞳を開いた。水面の向こうで木立が揺れている。ちらちらと見え隠れする光は、月の光だろうか。
 ――……ガスパール……――
 水底から呼ばわる声がした。声は茫洋とした木霊を伴い、深淵をさまよって水を揺らす。
 ガスパールを探しているのだ。
 そこへ辿り着きたいと、ガスパールは願う。その呼び声に応えたいと。水がもっと深く、己の身体を沈めてくれるように。
 手をそちらへ伸ばそうとする。見透かすことのできない、緑がかった深い青の、暗い深淵へ。
 ――……ガスパール……――
 二度目の呼び声は耳元で響いた。すすり泣くような声音だった。と同時に、伸ばした手をはじき返すかのように水が鋭く動いた。

 その衝撃で、ガスパールは現実に引き戻された。

 空気を求め、水面から顔を出すような勢いで飛び起きる。濡れた衣服が張り付く感触に、夢でも幻でもなく、自分が溺れかけていたのだと気付く。呼吸が定まらず、肩で息を繰り返す。
 部屋は洪水にあったような有様だった。床もベッドも水に濡れ、あちらこちらに水草が絡まっている。月の光が、冴え冴えとその様子を照らし出す。
 いまだ水底にあるかのように、部屋の空気は濃密で、蒼い。