月の船

 死者の国へ渡る月の船の話は、その港では誰もが知っている伝承だった。死んだ者の魂は、月に乗って死者の国へと運ばれる。だが、故郷の港以外から月の船に乗り込む事は出来ない。それ故、異郷の地で死んだ者の魂は一度故郷へと帰って来なければならないと、伝承は伝える。魂は骨に宿ると考えられていたために、港の男たちは故郷の海に葬されることを、何よりも強く望んだ。
 当時、女たちの役目は、己の夫や息子や恋人を港で迎えることだった。男が生きていようと死んでいようと、女たちは彼らを迎えるために待ち続けねばならなかった。その頃女たちが乗ることを許されていたのは、月の船だけだったからだ。
 一年の半分を霧に閉ざされたその港で、いつ帰るとも知れぬ男たちを、女たちはいつまでもただ待ち続けねばならなかった。東方から忍び寄る戦の影が港を包み、男たちが商品ではなく武器を積んで船出した、その後も。

 あたりに満ちるのは、ざわめきと月の光だ。天頂にかかる月は細く欠け、頼りなげな影をゆらゆらと水面に映している。
 海に面したその都では、出陣を前に方々で大掛かりなかがり火が焚かれ、人々は開け放たれた王城の庭で思い思いに飲み食いし、家族や恋人との別れを惜しんでいた。王の住む館へ入る事は許されぬとはいえ、今夜は無礼講だ。庭へ次々に運び出されて振舞われる酒と食物に、人々は明日からの戦をしばし忘れる。準備を整え終えたいくつもの勇壮な船にも、かがり火は赤々と照り映え、甲板に笑いさざめく人々を照らしていた。夜も更けた頃になっても、都を包む喧騒が薄れる事はなかった。
 港の中で喧噪に包まれていない場所は、今は海に向かって建てられた神殿だけだ。都を守護する海神に捧げられたこの場所だけは、静謐な夜に身を浸し、穏やかな静寂を保っている。神殿の扉は典礼の定め通り、常に海へ向かって開かれており、そこから伸びる白大理石の階段は静かな波に洗われていた。年月と絶え間なく打ち寄せる波に、階の角は丸く削り取られていたが、また神殿の巫女たちによって苔一つなく磨き上げられてもいる。
 階段の上には、一組の男女が座っていた。
「あなたも、行ってしまわれるのですね」
 あたりをはばかるかのような小さな声で、娘は言った。娘の哀しげな視線の先では、さざなみが水底の秘密を打ち明けるような調子で、神殿へ上る階段を叩いている。波は革のサンダルを履いた娘の足と灰色の分厚いローブにも打ち寄せ、それらを重く湿らせていたが、娘はそれに気づいてすらいないかのようだった。
「私は行かなくてはならないのです」
 隣に腰掛けた青年は低く答える。
「あなたが敵の刃に倒れれば、王の血は途絶えてしまいます。そうなれば、誰にこの都を治めることができましょう」
「そうならないために行くのです、グリース」
 青年は自らに言い聞かせるように呟いた。
「この都を守ることが、王族たる私の義務なのですから」
 グリースは瞳を伏せ、自らの足元を洗うさざなみを見つめる。
「せめて、私を一緒に連れて行ってくださるのなら……」
「それは出来ません。女性が乗ることを許される船は、この世とあの世を行き来する月の船だけです」
 青年はため息をつき、グリースと同じように水面に視線を落とした。打ち寄せる波を数えるように、二人は黙って海を見つめ続ける。
 やがて、グリースは何かに怯えるようにためらいながら、己の服の中に手を差し入れ、首にかかっていた鎖を引き出した。
「これを、お持ちになってください。共に行くことが叶わぬならば、せめて。私があなたを見失うことのないように」
 娘が自分の首から外し、青年の手の中に落とし込んだのは、薄汚れた真鍮のメダイユだった。
「肌身離さず、お持ちになってください」
 メダイユと青年の手を両手で包み込みながら、言い聞かせるように娘は呟く。
「あなたの船が良き風と波に導かれますよう、お祈りしております」
 青年の手の中で、首から下げるための長い鎖が、重そうにちりりと鳴った。

 東の空に薄くたなびく雲が黄金色に輝き、やがて水平線が燃え始める。グリースは町外れの庵を出、まだ薄暗い道を港へと向かった。
 死を司る呪い師であるグリースは、港の近く――人が多く住む区域に居を構えることは許されない。そのかわりに選んだこの丘は、港を囲む山並みのふもとに位置しており、港湾も王の城も城下町も一眸の内に収めることができた。
 港へ向かう道には朝靄が白く垂れ込めている。すり減って縁の丸くなった石畳の上を、質素な服に身を包んだ子供たちがはしゃぎながら走りすぎる。農家の息子たちだろう彼らがグリースを追い越して向かう先は、男たちが出陣する王の港だ。子供の一人が声高に高名な騎士の名を呼ばわる。連鎖的に、他の子供もおそらくは自分がひいきにしているのだろう騎士や貴族の名を挙げ始めた。
 漂う朝靄は、まるでそれ自体が発光しているかのように柔らかな光であたりを満たしている。低い太陽が未だ十全には空気を暖めていないため、忍び入るような冷たい靄ではあったが。
 グリースの前方を歩く農民たちが、国王陛下は今回出陣するかしないかと議論を戦わせ始めたとき、港を覆う朝靄を貫くように、鋭い角笛が響き始めた。
 出陣を告げる合図だった。

 グリースが港に着いたとき、既に港は騎士たちを見物に来た民衆や、見送りの家族たちで埋まっていた。先ほどグリースを追い抜いていった子供たちも、出荷を待つ積荷の上に陣取り、港へ向かう王の城の門が開くのを、今か今かと待ち構えている。近くに停泊した漁船や商船のマストや甲板には物見高い見物者たちが鈴なりになっており、城門から軍船へ向かう道沿いにも、分厚い人垣ができていた。
 グリースは人波をすり抜け、軍船の見える堤防へと登った。堤防には、家族や友人を送り出す者たちが集まっている。他の場所を埋め尽くす野次馬たちも、ここへだけは登らないのが暗黙の了解となっていた。
 グリースは間隔を詰めてくれた周囲の人に頭を下げながら列に加わる。堤防の上の人々は、城に上がれるほどの地位を持たない貴族たちや平民出の船乗りたちの家族で、その装いは城のバルコニーに並んだ貴族たちと比べると遥かに質素なものだった。時折ひそやかなささやきや子供のむずかる声が聞こえるだけで、堤防の上に佇む人垣は、港の喧騒と打って変わって緊張感にも似た沈黙に包まれている。
 半分ほどだった太陽が水平線の上にその姿のすべてを現したとき、二度目の角笛が長く勇壮に鳴り渡った。城門の近くに陣取っていた青年たちが歓声をあげる中、滑車が重い鎖をきしませながら跳ね橋を降ろし、吊るし門を持ち上げる。人々は城門から船着場までの道の脇に押し寄せ、きらびやかな貴族や王族の出陣を一目見ようと押し合った。
 真っ先に門を出てきたのは、都の旗をなびかせた旗手たちだった。彼らは東方から攻め寄せてきた異教徒から港を守るという戦の目的と、戦に加わる貴族たちの名を大声でふれ回りながら、色とりどりの布や旗で飾られた軍船に乗り込んでいく。
 次に現れたのは都の有力貴族たちだった。馬に乗り、長槍に長方形の旗を結びつけたきらびやかな一団だ。馬の両脇に、やはり派手な装飾の鎧を身につけた従者を控えさせ、おのおのの領国の旗を先頭に船へと進んでいく。
 その後に普段は造船を請け負っている工兵隊が続き、さらに剣を天空へ向けて捧げ持った王城の近衛隊が整然と隊列を組んで通り過ぎる。その後ろを若年者や馬の世話をするための小姓たちが務め、さまざまな武具を身につけた歩兵の一団も、己の所属する家門の旗を翻らせながらそれぞれの船に乗り込む。
 最後に城の門をくぐったのは都の王の一団だった。王の出陣を告げる角笛が奇妙な協和音で響き渡り、それが空へ消えるよりも前に、見物人の間からどっと歓声が湧き起こった。王を取り囲む旗手たちは旗を振って民衆に応え、民衆は口々に勝利と幸運の祈りを投げかける。
 軍船に向かって手を振る人々の間で、グリースは静かに瞳を細めた。若くして国を継いだ王が、跡継ぎも定まらぬままに自ら戦へ赴くことには反対する者も多かった。だが、隣国を飲み込んで勢いを得た異教徒たちは港の対岸まで迫り、戦の招集をかけた大国の王はこの国が揺るぎなき忠誠を示すことを求めている。
 グリースはそっとため息をついた。もとより許されぬ恋ではあったが、せめていついかなる時でも側で見守っていたかった。グリースは苦しげに眉根を寄せ、その姿を目に焼き付けておこうとするかのように、王が船へ消えていくまでをじっと見守っていた。
 王が乗り込むのを待ってタラップが外され、再び角笛が響き渡る。出港の合図だ。
 錨が上げられる。艦隊はそれぞれの大きさや家門に従って列と船足を整え、整然と港を出立する。
 人々は道の脇から船着場へ移動し、色とりどりの旗や布を掲げた軍船に向かって、持参した旗や布切れを振り、船旅と戦の幸運を祈った。甲板に上がった騎士たちの武具が朝日に輝き、別れを惜しむ声が港に木霊する。
 グリースも提督旗を掲げた最も大型の船へ手を伸ばし、順調な航海と武運を祈った。
 昇り続ける朝日に向かって、船団は海を渡っていく。甲板で振られる色とりどりの布切れも、マストにたなびく軍旗も、徐々に靄の向こうにかすんでいく。

 微かな風を帆に受けた船が遠ざかり、乳白色の朝靄の陰に隠れて見えなくなり、集まっていた野次馬たちが三々五々姿を消した後も、家族や知人を送り出した者たちは港に並んだまま動かなかった。