第二章 凪の日

 File-2

『二人ともご苦労だった』
 帰投する途中で、レジーナから通信が入った。連絡が入る直前に混じったノイズに違和感を覚えて眉をひそめ、何かエラーが出ていないかとカタリナとはずいぶん形式の違うコンソールを見渡す。
『スクッラ、もうしばらくその辺を飛んでいて良いぞ』
 ボイスレコーダーが止まっているのだと気付いたのは、ほとんど偶然だった。アウルは止める操作などしていない。止めたのは恐らくレジーナだ。この会話が記録されては困るということなのか。
『悪いが、アウルも付き合ってやってくれないか』
 気楽な調子のレジーナの声からは、不審な状況を作り出している罪悪感など微塵も感じられない。
「帰って来んな、ってことですか」
『そう解釈してもらって構わん』
 牽制してみても、女王様は悪びれもしなかった。
『適当に時間を潰してから戻ってきてくれ』
 説明する気も全くなさそうだ。アウルはため息と共に「了解」の言葉を返す。
 そして、やることがなくなった。その辺を、と言われても困るのだ。ここから基地へ戻る間にあるのは、海と空だけだ。
「ソラ、下に降りないか」
 ふと思いついて言ってみる。
『下……海に降りるんですか?』
 思いがけないことを言われた、というような調子で、ソラは答えた。
『大丈夫、でしょうか……』
「飛空『艇』なんだ。沈みゃしないだろ」
 いざというときのために、着水と離水の感覚を確認をしておきたいというのもある。
『……わかり、ました』
 ソラが不本意そうなのは、空を飛ぶのが好きだからだろう。それでも今は、空の上にいたくなかった。得体の知れない神人を生み出す暗い水面に降り立つ方が、まだマシだと思ってしまうくらいには。
 手動モードでの着水の感覚は、カタリナと大差ない。機体の感覚だけ少し違うが、勘で修正できる程度のものだ。ソラは精神接続のままにしているのだろう。アウルがまだ滑水している間に、羽ばたいてふわりと水面に降りた。アウルは円を描くように水の上を滑って、ソラの機体の隣で止まる。完全に停止する前にハッチを開いて翼の上に出ると、海には微かに波が戻り始めていた。水に浮いた翼が、ほんのわずかに上下している。
 ソラの機体は、翼をたたんだまま水鳥のように浮かんでいた。日は完全に沈み、満天の星が今にも降ってきそうだ。
「アウルさん」
 控えめに呼びかけられて、アウルは星空から背後に視線を向ける。コクピットから出てきたソラが、落ち着かない様子でおそるおそるアルバトルスの翼に足を下ろすところだった。さっきまで自由に空を飛び回っていたとは思えない、ぎこちない動作だ。
「ここ、怖いですね」
「そうか?」
 翼の上に座り、アルバトルスの胴体に背中を預けてアウルは空を見上げる。ソラはその隣にそろそろと歩いてきて、寄り添うように座り込んだ。どうやら人が近くにいないと不安なくらい怖いらしい。
「何がそんなに怖いんだ」
 暗い水面は確かにその下に怪物を隠していそうで不気味ではあるが、危険性で言えば、海も空もそんなに変わるところはない。
「飛んでないのに、足下がふわふわするから」
 ソラは本当に恐ろしそうに微かに揺れる翼を見下ろして身震いした。飛行中に比べればこの程度のさざ波では揺れている内にも入らないと思うのだが、ソラにとっては違うらしい。
「そういうもんか?」
「それに海だと、自由に動けないですし……」
 空中では自由に動けると言っているも同然だ。普通はそうじゃないと言いたいところだが、ソラにとっては事実なのだろうということは、さっきの飛び方を見ていればわかる。
「生身で浮ける分空の上よりマシじゃねえか?」
「そうかもしれないんですけど、でも……」
 こわごわと海の方を見たソラは、また小さく身体を震わせた。
「もしかして泳げないのか」
「ち、ちがいます! 泳げます!」
 勢いよく顔を上げたソラは、なぜか必死な様子でアウルに詰め寄る。
「ただ……」
 少しだけ身を引きかけたアウルの前であっという間に勢いを失ったソラは、気まずそうに俯いた。
「訓練用のプールでしか、泳いだことないですけど」
 微かな波音に消されそうなほど小さな声で、ソラは付け足す。
「足つかねえのが怖いのか」
 目の前のつむじに向かって、アウルは短く問いかけた。飛ぶのとどう違うのかアウルにはさっぱり理解出来ないが、ソラは恥ずかしそうに膝を抱えてさらに俯いてしまう。
「たぶん、そうです。アウルさんは、飛ぶの好きじゃないんですか?」
 そのまま下向きの声が問いかけてくる。アウルは星空を見上げたまま、翼に打ち寄せるさざ波の微かな音を三つ数え、息を吐いた。
「どうだろうな。昔は好きだったような気がするが、ずっと飛んでいたいとは思わねえな」
 飛翔する高揚は、今でも確かにアウルの中にある。でもそれは大地の上に帰る場所があるからこそのものだ。帰る場所のない飛翔は、恐怖でしかない。燃料の心配をしなくてすむ小型飛空艇《バード》であったとしても、だ。
「昔は……?」
 昔のことを思い出したくなくて、アウルはソラの疑問を遮るように首を横に振った。
「それに、今は仕事にしちまったからな」
「仕事では駄目なんですか?」
「仕事にした以上は、好きに飛ぶってわけにもいかないだろ」
 顔を上げたソラは、よくわからないと言いたげに目を瞬かせた。
「私は飛ぶの、好きです。他のことでは役に立てないし」
 アウルがじっと見つめると、ソラも真っ直ぐその瞳を見つめ返してくる。なんとなく手を伸ばして、その額に指を添え、弾いた。
「いたっ!?」
「そりゃーお前が勉強不足だからだ」
 不満そうにむくれるソラに、出会った当初よりずいぶんと表情豊かになってきたなと思う。それが良い兆候なのか悪いことの前触れなのか、今のアウルには判断がつかない。
「じゃあ、教えてください」
「何を?」
 見下ろした横顔は、いつ頬を膨らませてもおかしくない不機嫌さだ。その素直な反応が段々面白くなってきた。
「この下には何がいるんですか?」
「さあな。魚や鯨が泳いでて珊瑚が生えてるんじゃねえの」
 海中についての知識はアウルにもあまりない。いつか|記録映像《ライブラリ》で見た水中映像だけが、思い浮かべられるすべてだ。
「……魚」
「昨日食っただろ」
 切り身だったが。
「あれが泳いでるんですか?」
「切り身がそのまま泳いでるわけじゃねえけどな」
 嫌な予感がしたので説明を付け足すと、ソラはその嫌な予感を肯定するように小首を傾げる。
「じゃあ、どんなものがどんなふうに?」
 描写力を試されている、と思った。
「小型飛空艇《バード》の羽をむしって水に放り込んだら……」
 そこまで言いかけたところで、突然面倒くさくなった。
「|記録映像《ライブラリ》見ればわかるんじゃねえの」
 ソラはアウルに抗議の視線を向けて、しかしすぐにまた視線を逸らす。
「……そうですね」
「ま、一人で見たくないってんなら付き合ってやるよ」
 拗ねられては面倒だと思ってそう言ったのに、ソラの表情はふっと沈んだ。
「本当は、興味がなかったんです」
 まるで罪を告白するように、ソラは消え入りそうな声で呟く。
「空を飛ぶこと以外、何も」
 その言葉自体に、意外性はない。そうでなければ、ソラがここまで何も知らない理由を説明出来ないからだ。例え周囲が彼女が何か学ぶことを制限しようとしていたとしても、普通に過ごしているだけでも知識は自然と入ってくるものだ。
「気が変わった理由は?」
 淡々と、アウルは問う。話したければ話せば良いし、話したくないなら黙れば良い。そう思っていることは、ソラにも伝わっただろう。ソラは自分の気持ちを決めかねるように、アルバトルスの翼に指を這わせた。
「理由……は」
 暗い夜の中でも微かに光を反射して青緑色の構造色を輝かせる流体金属。それは触れても『流体』であることを感じさせはしない。触れた指先は、ただ冷たく硬質な、ごく普通の金属の感触しか伝えては来ない。
「レクスに、言われたから」
 ぎゅっと指先を握りながら、ソラははっきりとそう答えた。
「一人で飛ぶな。一緒に飛べる人間を探して、そして世界を知れって」
 レクス。その名を聞いた瞬間に跳ね上がった心拍数を、ソラに悟られないようにアウルは努めて表情を殺す。レクスが行方不明になったのは七年も前の話だ。
「でもお前は一人で飛んでたんだろ」
 そして、一人でこの町と基地を守ってきたはずだ。記録にある限りでは四年前から。実際には、きっと七年前から。
「他に何も、出来なかったから」
 七年前。ソラは十かそこらだったはずだ。そんな子どもが。
「何か出来る必要もねえだろ」
「出来たんです」
 ソラは膝を抱えたまま、頑なな口調で言い返す。それは必要以上に険しい口調になってしまった、アウルの感情を鏡のように映したからなのかもしれない。
「飛ぶことは……飛ぶことだけは」
 何とも言えない気分で、アウルはまた夜空を見上げた。アウルの視力は八等星くらいまでの星を見分ける。無数に散らばる眩しいほどの星屑に、やりきれない気分で目を細めた。
「アウルさんが一緒に飛んでくれるから、レクスとの約束、守ることが出来ます」
 そんな良いものであるもんか、と、アウルは心の中だけで毒づく。
「つまり、アレか。お前は飛ぶこと以外に出来ることがあったらそっちをやんのか」
「え……?」
 ちらりと見下ろすと、ソラは見事に思考が停止した表情で固まっていた。
「妙なもんだな。飛ぶのが好きだからとか、そういう理由だと思ってたんだが」
「他に……出来ること」
 ソラは呆然と呟いて、水平線の向こうを見つめる。不安げに揺れる瞳から目をそらして、考えたことがなかったんだろうなとアウルは思った。レクスはきっと、飛ぶことしか教えられなかった。
 ――一人で飛ぶな。
 レクスがソラに告げたという言葉。
(同感だが、あんたが言うなよ)
 レクスという男のことは、アウルはほとんど知らない。カナリアと一緒に消えた青年。出身も本名も誰も知らない、天才的な小型飛空艇《バード》のパイロットだったという噂だけがある男。
 アウルが知っているのは、一度だけ作戦を共にしたときの、人間離れした飛び方だけだ。あの飛翔は、確かにソラと似ていた。嫌になるくらいに。
「他に出来ることがないってんじゃ、それを選んだことにはならねえんだ」
 ほとんど自分に言い聞かせるように、アウルはそう呟いた。