第四章 It's rain cats and dogs
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「ねえティア。貴方、本当にこれでいいのね?」
――くどい――
第一センタービルと第二センタービルをつなぐ三階連絡通路には人影は二つしかなかった。耳を澄ませば上の階を大勢の隊員が行ったり来たりしている音も聞こえてくる。三階連絡通路を見張っていた隊員たちは、ティアの命令に従って四階の探索を手伝いに行っていた。
――そもそも私がここに残ったのは、何かことが起こったときに私がここにいた方が良いだろうと判断したからだ――
ティアは通路の壁にもたれかかって向かいの窓から外の景色を眺める。傾き始めた太陽の光は、それでもまだ赤みを増してはいない。
――今さら良いも悪いも無かろう――
「……そう」
フィニスは静かに微笑して内線の受話器を取った。ティアは窓の外の景色を睨みつけたまま微動だにしない。
「……彼ら、忽然と姿を消したそうよ」
短い会話を交わして受話器を置いたフィニスは、楽しげにティアの方へ振り向いた。
――悠斗の得意技だな――
ティアは視線だけをフィニスに向けると、口の端を持ち上げてそう答える。二人は顔を見合わせて、無言のまま笑い出した。
「ティアの居室は第二センタービル五階だ。三階から連絡通路を通って第二センタービルへ移る。四階の連絡通路は駄目だ。機密レベルが低い。隊員が大勢つめてるはずだ」
リノリウムの廊下を先頭に立って走りながらアレスは説明した。
「こっちだ」
「なんだ、ここ」
両開きの重いドアを押し開けるアレスにタスクが尋ねる。
「トレーニングルーム。要するに体育館だよ。ここだけ六階までぶち抜きなんだ」
アレスの言葉どおり、中は天井が高くなっていた。板張りのバスケットコート二面分のアリーナを走り抜けて、三人は扉の向かい端へ到達する。
アレスは南京錠の鍵のかかった扉の前で立ち止まった。
「タスク、この鍵外してくれ」
ウェストポーチから針金を出してしばらくいじったあとで、アレスはあきらめてタスクに場所を譲る。タスクは黙って前に出ると鍵に右手をかざした。黄銅製の南京錠が急速に加熱される。赤く熔け始めたところで、タスクは無造作にそれを引きちぎった。
「よく火傷しないよな、いつも思うけど」
アレスが後ろから呆れたように感想を述べる。
「自分のイディアー能力で火傷してたらマヌケだろ」
タスクは変形した南京錠をもともと掛かっていたところに引っ掛けながら答えた。
「もうちょっと加減が利けば便利なのになあ」
イモも焦がさなくて済むし、とアレスが呟く。
「うるせえな。さっさと行くぞ」
タスクは不機嫌にかんぬきを外し、スライド式のドアを引き開けた。
ドアの向こうは備品倉庫だった。アリーナと比べると天井はかなり低い。最後に中に入ったアレスが、注意深く入り口のドアを閉めて明りのスイッチを入れる。倉庫内部が薄暗い裸電球に照らし出された。一見しただけではいまいち用途の不明なトレーニングマシンやボールが詰め込まれたカゴ、跳び箱やマットの類が整然としまいこまれている。
「年に一回使われるかどうかって倉庫までちゃんと掃除してるのって金の無駄よねえ」
その分俺の給料に足しといてくれりゃあよかったのにと呟きながら、アレスはバスケットボールが詰め込まれたかごを引っ張って場所を空けた。
「これ、そっちに動かすから手伝ってちょうだい」
「なんでだよ」
笑顔で跳び箱を示されたタスクが憮然として顔をしかめる。
「ごちゃごちゃ言わない! 今から追っ手をまこうとしてるんだから。時間がないのよ!」
タスクは釈然としない表情をした。
「ほら、早く」
せーので持ち上げるぞ、と、跳び箱の向かい側からアレスが声をかける。八段ある跳び箱を動かしたあと、アレスはその上に登って天井の鉄格子を動かし始めた。
「これ、なんのどうぐでしょう?」
ターナがものめずらしそうに跳び箱を検分しながら首をかしげる。
「さあな」
タスクは両腕を組んで跳び箱の上のアレスを見上げた。
「なあタスク、お前、幅五十センチもあれば通れるよな?」
「どこをだよ」
タスクは投げやりな調子で尋ねる。
「いや、ここから天井裏通って、メンテナンス用の通路に侵入して、内壁と外壁の隙間通って三階に下りようと思ってんだけど……っと。内壁と外壁の隙間ちょっと狭いからさ」
重い金属音と共に鉄格子が外れる。
「……三階にもこういう倉庫があるのか?」
「ああ、それはないけど大丈夫。ターナも上がれるように足場のあるところ選んだだけだから。下りるときは飛び降りればいいんだからどこからでも出られるよ。四階で天井が一番低いのここなんだ。ってなわけで大丈夫か?」
タスクは無言で頷いた。アレスは懸垂の要領で天井裏に上る。
「タスク、次はターナだ。手伝ってやってくれ」
「しゃあねえな」
タスクが持ち上げたり踏まれたりしてどうにかターナも天井裏に上がった。最後にタスクも倉庫の明りを消してから、軽い跳躍と腕の力だけで上がり込む。
タスクが鉄格子を閉めたのを確認して、アレスは行動を開始した。天井裏の面積は下の倉庫の二倍程度で高さは一メートル強程だ。壁際まで中腰で移動したアレスは、何度かあちらこちらの壁をノックしたあとで動きを止めた。
「よし。タスク、ちょっとここの壁、音を立てずに外せるかやってみてくれ」
「ここか?」
ごそごそと隣へやってきたタスクにアレスは頷きを返し、そのままターナを引っ張って五メートルほど距離を空ける。
タスクはアレスが示した壁に右手をかざし、さっき南京錠を外した要領で鉄製の壁を溶かして引き剥がした。
「よし、ここから先はメンテナンス用の通路だ。その辺のコードには出来るだけ触らないようにしろよ。時々違うものが混ざってるからな」
壁にあいた穴に四つん這いでもぐりこみながら、アレスは二人にささやきかける。壁の向こうには前時代の遺跡のような光景が広がっていた。面積はそう広くないが、天井は高く斜めについている。どうやら観客席下部の空間のようだった。
アレスは巨大な空調装置やコードの束の間をすり抜けて、迷うことなく二人を導く。ところどころにさっき三人が上がってきたような鉄格子があり、下の明りが天井に四角い模様を描いている。いくつかの鉄格子は通路や廊下に面していた。忍び足で歩くうちに、下の廊下でエヴァーグリーンの隊員たちがどこ行っただの手掛かりはないのかだの怒鳴りあっているのがもれ聞こえて来る。
通路の端の揚げ戸に到達したところで、三人はしばらく息を殺してしゃがみこんだ。
「……備品倉庫をこじ開けた跡があった……おそらく演習用の武器を探したんだろうが……」
近くの鉄格子から隊員たちの会話が響いて来る。
「……や、もうそこにはいなかった」
反響して聞き取りづらいが、どうやら自分たちのことを話題にしているらしいというのはわかった。
「カフティア指令から四階の階段と連絡通路を重点的に見張れと……」
「……見張りはもう部署についてる。俺達はこれから徹底的に四階の捜索を……」
遠ざかっていく会話に三人は顔を見合わせる。アレスは満足そうに一つ頷くと、揚げ戸を開いて中へ滑り込んだ。
「誰もいないか?」
「いないみたいだな」
四階の騒がしさと打って変わって三階の廊下は静まり返っていた。一人だけ先に飛び降りたアレスが周囲を見回して上にOKサインを送る。ターナを抱きかかえて飛び降りたタスクは、足音も立てずに着地した。
「なんか罠とかあったりしないよな?」
「それは聞いてみるまではなんとも」
「聞いてみる?」
ターナを床に下ろしたタスクが怪訝な表情を浮かべる。
「連絡通路はこっちだ」
アレスはタスクの問には答えず歩き始めた。
ふとこちらを不安げに見上げてくるターナと目が合って、タスクは首をかしげる。
「何だ?」
「あの……だいじょうぶ、なんでしょうか」
ターナはアレスの背中へ視線を泳がせながら呟いた。タスクは軽く肩をすくめる。
「さあな。ま、いろいろ難しいこと考えるのはあいつの仕事だ」
二人は数メートル遅れてアレスの向かった方へと歩き出した。
何度か隔壁を潜り抜け、三つの部屋を通りぬけた。
「次の角を曲がったら連絡通路だ。一応警戒しといてくれ」
アレスはウエストポーチから手鏡を取り出しながらタスクに耳打ちする。
「ちょっと待ってろよ」
アレスは廊下の角にしゃがみこみ、鏡だけ差し出して連絡通路の様子をうかがった。
「一応通路は無人だ。行くぞ」
立ち上がって鏡をポーチにしまいなおしたアレスに、タスクとターナは頷いて了承の意を示す。三人はアレスを先頭に長い通路を渡り始めた。
通路の中ほどまで来たとき、アレスが唐突に立ち止まった。
通路の向こう端、第二センタービル入り口に、いつの間にか女性が一人立っていた。長い黒髪のうち、前髪の一部にだけ赤いメッシュが入っている。左目の下の泣きぼくろが特徴的な、妖艶な美女だった。
「あら、侵入者の方々じゃない。偶然ねえ」
女性はくすくすと笑いながらこちらに近づいてくる。
――ずいぶん派手な侵入だったな。火災警報が鳴りっぱなしだったぞ――
頭の中に響いた声にタスクが周囲を見回すと、隻眼の少女は一行の背後にいた。赤く染まり始めた夕日が少女の頬を明るく照らし出す。少女は三人を追い越し、黒髪の女性の隣に立った。
「そこをどけ。お前が誰だろうと、邪魔する気なら容赦しねえ」
タスクは道をふさぐようにして並んだ二人に身構える。
「ちょっと待てタスク。頼めば通してくれるかもしれないだろ?」
二人の行動を見比べていたアレスが気楽な口調でタスクをたしなめた。
「じゃあ頼んでみろよ」
タスクは戦う気満々だ。アレスはタスクを片手で制しながら前に進み出ると、にへらと笑って頭を下げた。
「すみません、通してください」
無表情を保っていた隻眼の少女がふと笑みをもらす。
「お前は本当に相変わらずだな、悠斗。性格も行動も、女子供を引き連れているところも」
年相応、と言うには幾分低い、それでも明らかに子供の声で少女は笑う。黒髪の女性が目を丸くして少女を見下ろした。
「帰還システムは娯楽室だ。迎えに行ってやれば良い」
彼女の肉声は頭の中に響いてくる低い威圧的な声とはずいぶん違っている。
少女と目が合った瞬間、アレスはしまりの無い笑顔を引っ込めた。
「……いいのか、ティア」
「通してくれと頼んだのはお前だろう。わざわざ確認するようなことか、まったく。今は任務中ではない。……それに、フェルゼンの決定に従う義理もない。そういうことだ」
少女――ティア・カフティアは呆れたように肩をすくめる。
「サンキュ、恩に着るぜ」
「そう思うなら態度で示せ。私は海が見たい。……さっさと行け。私は追っ手に嘘の情報を教えたりはしないからな」
「ああ。あ、そうだ。俺、今アレスって呼ばれてるんだ」
アレスは肩の力が抜けたような笑い方をした。
「ほう。意外だな」
少女はわざとらしく眉を上げる。
「お前のことだからまたスベスベマンジュウキングみたいな奇抜な名前を考えると思っていたのだが」
「……ティア、俺のこと一体何だと思ってるんだよ……」
アレスは疲れたように呟いた。
「普段の行いから判断を下しているまでだ。まあ、その名から逃げ出さないと言う態度には好感が持てるな」
「はは。普段の行いか。ちょっと反省しておく。じゃあ、またな」
アレスは苦笑しつつも右手を振って歩き始める。
「……ああ、じゃあ、また……」
静かな声でそう答えて、ティアは道を開けた。
「アレス」
ちょうど連絡通路を抜け出たところで、ティアがアレスを呼び止めた。三人は歩みを止めて背後を振り返る。
「気をつけろ。彼らはきっとお前が『アレス』であることを受け入れない」
夕日を斜めに背中に受けていたのでティアの表情はタスクたちの位置からは見えない。
少女の口調は最後まで、その声にそぐわない大人びたものだった。
「……ふふ。バレたら軍法会議かしら?」
――そうだな――
三人の姿が第二センタービルへ続く扉へ消えるのを見送りながら、ティアはぼんやりと答えを返す。
「まあ、あなたが決めたのだから、仕方ないわね」
――あの娘――
「何?」
急に踵を返して第一センタービルへ歩き出すティアに、フィニスが怪訝な表情を浮かべた。
――フォンターナだ――
「あら、だいぶ面変わりしたのね」
確か青銀の長い髪だったんじゃなかったかしらと、ティアに一歩遅れて歩き出しながらフィニスは呟く。
――やはり悠斗と一緒にいたか……。厄介なことになる前に帰れれば良いのだが……――
赤く染まった夕日に、ティアはその目を細めた。
通路の向かい端にはゴートが立っている。
空には、暗い雲が広がり始めていた。