第二章 Secret

 2-1

 翌朝、一行は他力本願寺で朝食を取り終わるとすぐに出発した。
「とりあえずの目的地はウィーゼ開発地区。南に真っ直ぐだね。まず、途中で町に寄って食料やら旅に必要なものを調達しないと」
 バンの助手席に座ったアクアが地図を大きく広げて言い、運転席のカイラスがそれを覗き込む。
 ――エヴァーグリーンの追っ手はまだかかっていないと思うか?――
 二列目窓際のティアは、頬杖を付きながら隣に座っているノエルに向かって尋ねた。
「ええ、まだ何日かは余裕があると思います。僕たちが捜索に乗り出してからそれほど日数も経っていませんから」
 ティアは口の動きだけでそうか、と呟いて、窓の外へ視線を投げる。三列目の席ではレルティが迅斗に寝不足なのか尋ねていて、バンの後部ではライファのギターと曲をリクエストするフィニスの陽気な声が響いていた。

「じゃあ、あたしたちは着替えとキャンプ道具を買ってくるから、坊ちゃんとライファちゃんは食料の買出し頼むよ」
 私も迅斗と一緒が良かったのにとむくれるレルティを無視してアクアが言い放ち、ライファと迅斗は一足早く車を降ろされた。
「OK。集合場所は私たちが最初にエンカウントしたとこで?」
 ライファは助手席の窓の下からアクアを見上げて首を傾げる。
「了解。あの爆発事件のとこだね。それじゃ、一応言っとくけど、気をつけるんだよ」
 アクアは微笑して片手を上げた。
「うん、アクアさんたちも」
 走り去るバンに手を振るライファを、迅斗は少し後方から眺めていた。砂色のレンガで作られた四角い街並みは埃っぽく、バンは砂煙を後方になびかせながら走り去る。
「それじゃ、行こっか」
 バンが角を曲がって消えると、ライファは振り返って微笑した。どう切り出したものかと迷う迅斗の顔を、ライファはちらりと首を傾げてからいたずらっぽい微笑を浮かべてのぞき込む。
「なぁんか、言いたそうな顔、してる」
「あ……ああ」
 迅斗は先手を打たれたような気分で頷き、ライファの隣に立って歩き始めた。
「……兄の……アレスの、ことなんだが」
「……来たか」
 冗談めかしてはいるが、その言葉にはライファの覚悟にも似た感情がこもっていて、迅斗は自分の指先が緊張で冷えていくのを感じる。
「……もし、適切な治療が施されていなければ、生存の可能性は低い。責任は俺にある。もし……」
 迅斗の言葉を遮るように、ライファが首を横に振った。
「……責任は俺に、じゃないよ。責任の一端は、くらいでいいから」
 ちらりと見下ろしたライファの横顔は、厳しい表情を浮かべている。
「私が、悪いのもある。私が一人でしなくちゃいけなかったことが出来なくて、それでアレスやタスクを巻き込んだのは私だし、アレスがエヴァーグリーンに侵入する羽目に陥ったのは私が捕まったせい。ゴートと仲が悪いのはあの二人の問題」
「君は、あの場であったことを」
「知ってる」
 疑問を遮るような答え方は、続く言葉の予想が容易につくためと言うよりも余裕のなさから来ているようだった。
「ティアちゃんに、昨日聞いたんだ。……迅斗に全部聞くのは酷かなって思って」
 泣き出したいような、今すぐ土下座して謝りたいような情けない気分で、迅斗は苦しそうな微笑を浮かべるライファを見下ろす。
「それも……作り笑い、なのか?」
「は? 作り笑い?」
 ライファはいきなりピコピコハンマーで頭を殴られたみたいな表情をした。
「言ってただろ。作り笑いばかり上手くなって、って」
 そうとは意識せずにピコピコハンマーを振り下ろした当の本人は、至極真面目に言い募る。
「失礼な。私こういう場面で作り笑いできるほど醒めた人間じゃないってば。違う違う、そうじゃないよ。作り笑いって、隙を見せないようにするための奴。一種のポーカーフェイスのことだから」
 憮然とした表情を徐々に苦笑に変えながら、ライファは早口で答えた。
「あははははは、ごめんごめん。あの時ちょっと気が立ってたからさあ。ついあんな言い方しちゃったんだけど、もしかして気にしてた? やー、やっぱダメだよね人間気分が下向きになってるときってなんかつい愚痴っぽくなっちゃって」
 際限なくしゃべり続けるライファは、隣を歩く迅斗の表情が険しく強張ったことにも気づかない。
「……ライファ」
「ん? 何?」
 低く緊迫した声に、ライファはようやく迅斗の様子に気づいて話を切った。
「……つけられてる」
 迅斗の言葉と同時に、埃っぽい路地の角やら今にも崩れ落ちそうな建物の屋上やらから黒服サングラスの男たちが出現した。いっそ見事としか言いようがない程一斉に現れたその人数は六人。退路は巧妙に断たれているし、やり合うには分が悪い。背中を嫌な汗が伝うのを感じる。
「……迅斗、知り合い?」
 身構えた迅斗の背後から、ライファが緊張感の薄い声で尋ねた。
「フェルゼン様直属の部下だ」
 言いながらライファをかばうように壁際へ退避する。
「ゴキブリじみててちょっとどうかと思うな」
 黒いとことか一人見かけたら五人はいるってとことか微妙に物音立てないとことか素早いとことか。
 指折り数え始めたライファのことはとりあえず置いておいて、迅斗は立ち位置的にリーダー格と思える男へ向き直った。男は迅斗の視線に答えるように一歩踏みだし、口の端に冷静な微笑を浮かべる。
「水源地確保の命令を受けて来たのですが、思わぬ人に会いましたね。父上が探していますよ。ハヤト=ナナミ」
 やはりリーダー格だったらしい男は、余裕の笑みを浮かべながらこちらへ歩み寄った。迅斗は姿勢を低くとりながらライファの周囲に結界を張る。
「そうそう、ターゲットを捕獲して戻れば、お父様もフェルゼン様もお喜びになりますよ」
 おもねるような言い方が酷く不愉快に感じられて、迅斗は顔をしかめた。
「ライファ」
 視線は男たちの方へ向けたまま、低く呼びかける。
「ん? 何? あ。信じてるよ迅斗、とか言う場面だった?」
「……いや。その結界から出るなよ」
 脳天気な調子の声に迅斗は複雑な気持ちで答え、言い終わると同時に複雑さを振り払って地面を蹴った。

 薄暗い裏路地に雷鳴が響く。イディアー能力の発動にノエルたちが気付いてくれることを祈りながら、迅斗は周囲に被害が出ない程度に出来るだけ派手な攻撃手段を選ぶ。
 多勢に無勢でどこまでやれるのか。絶望的な状況だったが、黒服たちはすぐに本気を出しては来なかった。二人が同時に体術を仕掛けてくるが、残りの四人はライファの方を警戒して動かない。
 男の一人が低く繰り出してきた蹴りを後ろに飛んで避け、もう一人の足下に雷撃を放つ。物理的な威力をも持つそれは、すり減った石畳をえぐり、空中へ巻き上げた。とっさに顔面をかばった男に、迅斗は肉食動物のような動きで走り寄り、みぞおちに膝を叩き込む。すぐさま体を引き、もう一人が脇腹を狙って再び仕掛けてきた蹴りをぎりぎりでかわす。その間に、さっき動きを封じたもう一人も体勢を立て直していた。
(……くそ)
 迅斗は心の中でらしくなく悪態をつく。キリがない。仕掛けてくるのが二人だからまだもってはいるが、このままではジリ貧だ。
(勝機は……)
 あるとすれば、ライファの転移能力による戦闘離脱くらいだろう。しかし男たちもそれを警戒して、ライファを囲む結界が途切れる隙を狙っている。そして今、手元には水がない。水がなければライファの転移能力を発動させることは出来ないのだ。
 男の一人が足払いをかける。後退してかわしたところに、もう一人の男が回し蹴りを放ってくる。そちらはかわしきれず、肘を強打されて一瞬バランスを崩す。その一瞬の隙に、銃声が響いた。
「……っ!」
 視界が白一色に染まる。ライファが声にならない悲鳴を上げる。数瞬遅れて意識に届いた脇腹の鋭い痛みに、迅斗は傷口を押さえてうずくまった。
「ゲームセットですね、ハヤト=ナナミ」
「ライファ、出るな!」
 駆け寄ろうとしたライファを鋭い語気で結界の中に押し込め、迅斗は悠々と歩み寄るリーダー格の男を睨みつける。
「残念ですよ。あなたの能力にはフェルゼン様も期待されていたのですが、今回ばかりはあなたの有利になるような報告は出来そうにないですな」
 男の右手の中にある銃口が、冷たい視線でこちらを見つめている。
 ――あの引き金が引かれたら。
 明滅する痛みに茫洋と霞む思考を必死でつなぎ止めた。いつもはほとんど意識せずに発動させているイディアー能力の気配が、今は酷く遠い。さらさらと流れる水の中に手を突っ込んで、指の間をすり抜ける「何か」を掴もうとしているようで。
「ご安心下さい。私は処刑の権限は頂いておりません。ターゲットと共に、我々にご同行――」
「迅斗っ!?」
 男の言葉を奪うように、鋭い叫び声が響いた。顔を上げれば、男の向こうから見慣れたエヴァーグリーンの制服が駆け寄ってくる。
「……レルティ……?」
「どういうことです、これは」
 ノエルの憤ったような声に、黒服のリーダーは微かに顔をしかめて振り返った。
「ナナミ・チーム……来ていたのか」
「ナナミ=ハヤトはエヴァーグリーンの正式な隊員。それを……」
「説明は後にさせて貰いたいのだがね」
 冷徹に答える男に、ノエルの後ろについていたアクアが身構える。
「返答によっては、僕たちはあなた方をエヴァーグリーンの反逆者と見なします」
 鋭い緊張が路地裏を走り、黒服たちの注意が逸れた一瞬、ライファが結界から飛び出して迅斗の服の襟をひっつかんだ。
「馬鹿、結界から出るなと……!」
 言葉の途中で、思いがけないほどの力で引き寄せられる。
「戦略的撤退しまっす。逃げるわけじゃないわよ!」
 ライファが怒鳴って迅斗の傷口に右手を当てた。
 鈍い痛みに思わず顔をしかめるのと同時に、視界がゆがんだ。
 水の中に放り込まれたような冷たい感触が、電撃のように全身を走り抜ける。心臓が縮む。水の中を通り抜けていると言うよりは、水が自分の体の中を通り抜けていくような感覚。
 暗転する視界の中に、何の脈絡もなく実験室の風景が浮かび上がった。セピア色の陽光、並べられた試験管と奇怪な形状を持った何種類もの計測器。誰かの声。穏やかな調子の、のんびりとした声だ。

 ――海、見たいなあとかって思わない? 迅斗――