第六話 Dance on the balcony. Dance with the half moon.

 6-1 やっちまった話

 ジュリアン・レイの領主就任から約一ヶ月が経過し、慣例に則って光王庁から視察団が派遣された。視察団の規模は例にないほど大規模で、迎える側としても盛大な歓迎会を開かないわけにはいかない。
 視察団到着の前日早朝、フェイルは控え室の窓越しに徹夜明けの朝日を拝みながら、良く準備が間に合ったものだと他人事のように感心していた。
 庭の剪定や広間の飾り付けはユリンの町民に手伝ってもらった。謝礼はジュリアン自身の私有財産から支払うしかなかったのだが、ジュリアン本人はあまり気にしていないようだ。彼自身のプライベートをほぼ全て聖騎士団に捧げてしまっている現状では、そこに私有財産が加わろうと大した違いはないと思っているのかもしれない。
 それ以外の問題としては、ユリンの住民が歓迎パーティーの準備のために外部から呼んだ業者と鉢合わせしたり、機密区画に入り込む者がいたりしては困るというものがあったが、これも騎士団員を総動員して見張りにつけることで解決した。騎士団員は準備に加われなくなったわけだが、それでもいつ到着するかわからない業者を追加で呼び寄せるよりはよほど効率が良く、おかげで前日早朝というぎりぎりの時間ではあったが、視察団を迎える準備を全て終えることが出来たのだ。
 視察団が到着するまでに解決しなければならない問題は、残り一つだ。だから夜明けと共に団長執務室――正確にはその控え室――を訪れたフェイルが何を言い出そうとしているのか、ジュリアンは最初から知っていた。
「で、どうするのです? 例の少女、視察団からは隠し通さなければならないのでしょう?」
 フェイルがそう尋ねると、仮眠室代わりに使っていた控え室のソファに起きあがりながら、ジュリアンは気怠げに頷く。
「パーティーには出席させる。聖騎士が一堂に集まるその時間帯が、恐らく視察の本番だろう。私たちの動きを封じた上で、『目』がユリンと城の内部を走査するはずだ」
 気怠い動作とは裏腹に、よどみのない回答だった。
「とすると、その時間帯でも我々の目が届くパーティー会場が、確かに一番安全ではありますね」
 フェイルの返答も舞台台詞のように予定調和だ。
「了解いたしました。フィア・ルカと双子に見えさえしなければ、どうにかごまかし通せるでしょう。フィラ・ラピズラリの個人的な知り合いは視察団に混じっておりません。それは確認済みです」
「すまないな、フェイル」
 ソファの肘起きに頬杖をつきながら、ジュリアンは大きく息を吐いた。
「お気になさらず」
 フェイルが軽く頷くと、ジュリアンの表情が曇る。
「今の聖騎士団は戦闘に特化した者ばかりだ。お前には苦労をかける」
「構いませんよ。仕方のないことです。四年前……聖騎士団の人事権はほとんど奪われてしまったも同然でしたからね」
 ジュリアンの視線がゆっくりと下に落ちた。
「それに、こういったことは信用できる人間にしか任せられないでしょう? あなたが信用できる人間は、今現在、聖騎士団に所属している者だけだ」
「……そうだな」
「戦闘力をほとんど持たない私がお役に立てること、むしろ誇りに思っておりますよ、坊ちゃま」
 にこやかにそう告げると、ジュリアンの表情が今度は違った方向に曇った。
「その呼び方はやめてくれないか」
 不機嫌そうに言いながら立ち上がったジュリアンに、フェイルはさらににこやかな顔を向ける。
「そろそろ旦那様とお呼びした方がよろしゅうございますか」
「それも微妙なんだが……」
 ジュリアンはため息をつき、ふと表情を引き締めた。
「フェイル。それともう一つ」
「何なりと」
「フィラ・ラピズラリの件だが、今まで以上に慎重に捜査を進めるよう、第三特殊任務部隊(レイリス)の二人に伝えてくれ。特に、光王庁には悟られるなと」
「了解しました。しかし、難しいところですね」
 どういう意味だ、と、ジュリアンは視線で問いかける。
「この件に関しては、聖騎士であるとか各々の立場であるとか、そういったもので信用するかどうかを決めることはできません。ただ、本人のイデオロギーを見るしかない。しかし他人の頭の中を覗いてみることもできません」
 光王庁は光神リラの信者と教会を束ねる最高機関だ。聖騎士団も当然、その管轄下に入っている。だが、ジュリアンは必ずしも光王庁の意志に従って動いているわけではない。フィラ・ラピズラリの存在を光王庁から隠すのは危険な行為だった。場合によっては、反逆罪に問われかねないほどの。
「本当に信頼できる人間を探すのは、難しいことですね」
「今さら何を言っている?」
 訝しげなジュリアンに、フェイルは笑顔を消して告げる。
「聖騎士団でも、私が信頼に値すると考えている人間は、ランティス・セルバリウス、カイ・セルス、リサ=ミズホシ……許容範囲を広げてもせいぜいダスト・アズラエルまでだと言うことです」
 その四人だけは、聖騎士団の趣旨に賛同してというより、ジュリアン個人に対する感情から聖騎士団に入ったことがはっきりしている。ジュリアンと光王庁の意志にズレがあったとしても、恐らくはこちら側についてくれるはずだ。
「坊ちゃま、用心はしすぎるほどしてもまだ足りないくらいです。我々の目的は光王庁の……引いては聖騎士団の目的とも同一ではない。ゆめゆめ、それをお忘れにならないように」
「……わかっている」
 ジュリアンはため息をつき、すれ違いざまにフェイルの肩に手を置いた。
「ともあれ、お前のことは信用させてくれ」
「もちろんでございます」
 頷きながら、フェイルは内心に虚しさが湧き上がるのをとどめることが出来ない。
 それでも、あくまでも、ジュリアン・レイ個人には信頼できる相手などいないのだ。彼に忠誠を誓い、ついていく者たち――自分を始めとした聖騎士団の面々は、ジュリアンを尊敬しているからこそ彼が期待を裏切ることを許せない。ジュリアンがその目的を放棄して逃げ出したいと考えたとしたら、それを許してくれる人間など周囲にはいないのだ。もうやめても良いのだと、逃げてしまえばいいのだと、その目的のために彼を祭り上げている連中は誰もそれを言えない。フェイルも同じだ。
 その『目的』に対する動機を失ってしまったジュリアンが、例え内心逃げ出したいと思っていたとしても、逃げ道を用意してやることなど出来ない。
 ――むしろ。
 むしろ、しているのはその逃げ道をふさぐようなことばかりだ。
「頼んだぞ」
 ジュリアンはフェイルの肩から手を放し、執務室とは逆の、廊下へ続く扉へと歩み去った。
「は」
 聖騎士としての敬礼ではなく、臣下としての礼を取りながら、フェイルは胸を灼く罪悪感の炎にじっと耐えた。
 何のために、と、ジュリアンは聞かない。
 次期聖騎士団団長として育て上げるために、先代の団長に引き取られたばかりの頃、幼い彼は何をするにつけても「何のために」と聞いてばかりいた。一つ一つの任務に理由を見つけ、聖騎士の誓いと結びつけて、どんなつらい訓練にも実戦にも耐えていた。
 けれどもう今は、あえて考えないようにしているのではないかと思えるほど、その疑問を口に出すことがない。
 控え室を出て行ったジュリアンの足音が遠ざかって、フェイルはようやく顔を上げる。
 当然のことだ。聖騎士団団長を務めるからには、何のためになど自分自身で考えなければ仕方がない。けれど。
 あの、『目的』については。
 窓からユリンの町を覆う青空を見上げ、フェイルは長く長く息を吐いた。
 まだ十歳にもならない少年が全てを背負わされて、押しつぶされそうになりながらどんなに苦しんできたのかフェイルは知っている。あんなものは人類が背負うべき業であって、二十歳をやっと超えたばかりの若造がたった一人で背負うようなものではない。
 わかっていても、彼の重荷を共に背負うことなど出来はしない。出来るのはただ、彼の手駒として目的達成のために最大限の働きをすることだけだ。その手駒の命さえ、ジュリアンの重荷になると知っていながら。

 夜明け直後の早朝、フィラは「久しぶりにフィラのピアノが聴きたくなった」と言うティナを連れて礼拝堂へやって来た。ジュリアンはフィラのピアノ練習中にも時折礼拝堂を訪れるが、早朝の時間帯なら顔を合わせる可能性は低い。ジュリアンと相性が悪いらしいティナに配慮したつもりだった、のだが。
 ピアノの前に腰掛けた途端、礼拝堂の扉が開き、ティナが毛を逆立てた。
 礼拝堂に入ってきたジュリアンは、あからさまな威嚇を向けるティナにほんのわずかに眉根を寄せたが、結局気に留めた素振りはそれだけでフィラに向き直る。
「フィラ。聞きたいんだが、お前もパーティーに参加する予定なのか?」
 フィラは当惑に瞳を瞬かせながら、首を傾げた。
「行きたいとは思ってますけど……あの、駄目なんですか?」
「いや……来るなとは言わないが……」
 ジュリアンは複雑そうな表情で視線を逸らす。フィラは何か問題があるのだろうかとさらに首を傾げてジュリアンを見る。ジュリアンはさんざん逡巡した後で、決意を固めたように唇を引き結び、フィラを睨み、早口で話し始めた。
 曰く、顔と名前が一致するユリンの住民以外とは挨拶までしかするな、目立った動きはするな、外から来た人間とはできる限り口を利くな、できれば視界にも入るな。などなど、そんなの不可能なんじゃないかと思えるほどの注文のオンパレードだった。ジュリアン自身もどうせできっこないだろうみたいな顔をしている。要するに、やっぱり来るなと言いたいのだろうか。来るなと言いたいならそう言えば良いのだ。きっぱりと、はっきりと。聞いているうちに、だんだん腹が立ってきた。
「以上だ。条件を満たせるならば、参加を認める」
「そんな、無理ですよ。視界にも入るななんて……」
 怒り出すのはどうにか抑えながらも、困惑は隠しきれないフィラに、ジュリアンは無表情で「冗談だ」と言い放った。
「冗談!?」
 いったい何が目的なのか、さっぱり真意が読めない。
「全て守れとは言わない。出来る限りで良い。ともかく、目立つような真似だけは慎んでくれ。それと、俺たちの指示には必ず従うように」
 ジュリアンは何故か迷うように視線を落としながら呟き、踵を返した。唖然とするフィラを残して、ジュリアンは礼拝堂を出て行ってしまう。
 ――たったそれだけのことを言いに来たのか? 前半の怒濤のような禁止事項はいったい何だったのか?
 考え込むうちに、フィラの瞳は半眼になる。
「ティナ」
 フィラは据わった視線とドスの利いた声をティナに向け、突然両手でがしっとティナを抱き上げると、高く顔の上に捧げ持った。抱き上げられたティナは抵抗もせず、フィラのされるがままだ。
「もー!」
 フィラはティナを高く持ち上げたまま、ピアノの周り中をぐるぐる回り始めた。
「わかんないわかんないわかんないなら! 団長の考えてることの、一つもわからないならー! ホントもー! むかつくなら腹が立つならっ!」
「本当だね全くだね!」
 ティナはなぜか上機嫌に両前足をばたつかせながら、フィラと一緒になって叫んでいる。
「悪かったな」
 突然いないはずのジュリアンの声が聞こえて、フィラはティナを頭上に捧げ持ったままぴしりと固まった。急な停止について行けなかったフィラの髪とスカートが、遅れて翻ってから動きを止める。
「ついでに言い忘れていたがその訛りも直せ。視察団の誰かに聞かれでもしたら、やっかいなことになる」
 ティナを持ち上げたまま固まっているフィラに、ジュリアンは厳しい表情で念を押した。
「せめて今度の歓待パーティーでは出すな。絶対に出すなよ」
 フィラはどうにか顔だけをジュリアンに向けたが、気まずさやら恥ずかしさやらですっかり思考が停止してしまっている。返事一つも返すことが出来なかった。
「それと服装についてなんだが、皆が着飾ってくるならお前もきちんと着飾ってこい。下手に質素な服では逆に目立つ」
「で、でも私、ドレスは持ってないし、この間採寸行き損ねたからこれから仕立てるわけにも……」
 まだティナを捧げ持った姿勢のままで、フィラは必死の反撃を企てた。
「わかった、俺が用立ててやる」
 即座に防御された。
「それは困ります!」
 フィラは慌ててティナをお腹の前に抱え直し、訴える。
「何故」
「そこまでして貰う理由がありません」
 フィラは自分の手の代わりにティナの右前足をせわしなく動かしながら言った。
「仕立屋に行けなかったのはこちらの都合だろう。あのときの謝礼だとでも思えば良い」
 ジュリアンは面妖なものでも見るような目でフィラの慌てっぷりを見つめながら、あっさりと答える。
「駄目です、嫌です、高すぎます。たった一晩、おしゃべりしてただけなのに」
「それに、お前が目立つと困るというのもこちらの都合だ」
 あくまでも冷静なジュリアンの返答に、ひっくり返っていたフィラの思考もようやく落ち着きを取り戻し始めた。
「それはそうですけど……あ、でも、料金は私が払いますから!」
 慌てて勢いで言ってしまった後で、フィラは自分の金などほとんど持っていないことを思い出す。
「……えーと、分割払いでも良ければ……」
 どうにも格好の付かない台詞に、ジュリアンの表情が緩んだ。
「出世払いで良い。期待している」
 向けられた微笑に、フィラの鼓動が跳ね上がった。やっと少し落ち着いてきた思考が、再び真っ白にでんぐり返る。
「今日の午後、採寸にダストを遣る。レディーメイドにはなるだろうが、パーティーには間に合うはずだ」
 既に決まっていたのか即断即決なのかよくわからないジュリアンの台詞にも、思考停止したフィラは機械的に首肯することしかできない。ジュリアンは固まったままのフィラを置いて、今度こそ本当に礼拝堂を出て行く。フィラは最後までジュリアンの背中を見送って、扉が完全に閉まるのを確認してからようやくほっと息を吐いた。
「……ああもう」
 残されたフィラは、ティナを胸に抱えてステンドグラスを見上げ、低く呻く。
「どうしよう……」
「とりあえず、痛いから放して」
「あ、ごめん」
 ティナを抱きしめる力を少し緩めて、フィラはぼんやりと床へ視線を落とした。
 しばしの沈黙。
 バラ窓を通した光が、床に美しい模様を描いて踊っている。
「あああああ、もう!」
 フィラは突然叫んだ。ティナを抱えたままスカートの裾を翻しながら三回転くらいして、よろめくようにピアノの前に座り、いきなりじゃんかじゃんかとめちゃくちゃな曲を奏で始める。いましめを解かれたと同時に譜面台の隣に飛び乗ったティナも、にゃーにゃーと曲に合わせて鳴き声を上げた。
「やーっちゃった、やっちゃった。今日も今日とてやっちゃった〜」
 やけくそのように歌う少女の声と上機嫌な子猫の鳴き声とばっちり調律されたピアノの美しい音色が、聖なる静寂を破って礼拝堂に木霊する。客人を迎える準備を終え、夏の午後の気怠い空気が充満した城の中で、元気なのはフィラとティナばかりだ。
 結局、喉が渇いて力尽きるまで、一人と一匹はピアノと共に歌い続けた。