第六話 Dance on the balcony. Dance with the half moon.

 6-3 片思いの優しさと残酷さ

「ちょっとちょっとちょっと、なんで疑問形なのよ? 光の巫女、アースリーゼ様って言ったら、ある意味光王様より偉い方よ!」
「ご、ごめん。でも私知らない……っていうか、覚えてない」
 すごい勢いで詰め寄ってきたソニアから身を引きながら、フィラは引きつった笑顔を浮かべる。リラ教会の最高権力者である光王より偉いと言われても、それがどれほどのものなのか、実はよくわからないのだ。
「仕方ないわねえ」
 ソニアは短くため息をつき、呆れ顔で解説を始めた。
「世界の全人口の約三十パーセントの信仰を集める光神リラ様。最高神祇官である光王様はリラ教会の最高位聖職者で、総本山である光王庁の元首でもあるの。これは知ってるのよね?」
 フィラは神妙に頷く。
「巫女様は聖職者階級とは別扱いで、リラ様の御力をその身に宿していらっしゃる方なの。先代の巫女の託宣を受けて、代々その魔力を受け継ぐ人が決まるんですって。リラ信者を導くのが光王様なら、巫女様はある意味信仰の対象そのもの、って感じかしら? 神聖不可侵なリラ様の分身として、人前に姿を現すのはとっても珍しいことなのよ」
「だから見たことなかったのかな?」
 あの少女が光の巫女だと言われても妙にぴんと来ないのは、そのせいなのだろうか。神聖不可侵な印象は確かに受けるのに、何故か違和感があるのは。
「普通は写真とかで見たことあるものだけどね」
 ソニアはお姉さんぶったため息を漏らした。
「フィラはリラ教会の機関誌、購読してないんだっけ?」
「うん」
 二年前にちらりと見たとき、なんとなく肌に合わない、と思って、それっきりだ。
「まあ、機関誌にだって巫女様の写真は滅多に掲載されないものね。ものすごく神聖な方だもの。それにアースリーゼ様は四年前に先代の巫女様からその任を引き継いだばっかりだから、まだそんなに……あ」
 話しながらふと巫女の方を見たソニアは、途端にお姉さんぶった表情をかなぐり捨てて身を乗り出す。
「見て見て見て見てフィラフィラフィラ! 領主様が挨拶に行くわよ!」
 再び腕を引っ張られたフィラは、よろけながらソニアが指す方を見上げた。いつの間にか現れたダストを従えて、ジュリアンが光の巫女に近付いていくのが見える。周囲の貴族たちも野次馬たちの人垣も、固唾を呑んで成り行きを見守った。彼らを中心とした広間の一角だけが、妙にしんと静まりかえる。遠くのテーブルで笑いさざめく人々の声が、大きく響いて聞こえるほどだった。
 光の巫女の前に立ったジュリアンは、左胸に右手を当てる正式な騎士の礼を取り、巫女自らユリンを訪れてくれたことに対する謝辞を述べる。巫女は鷹揚に頷き、掌を下に右手を差し出した。ジュリアンは彼女の前に跪き、恭しくその手の甲に口づけする。
「うわ……なんか、すごい……絵になる」
 ソニアが感嘆のため息をついて言った。彼女の言う通り、何か中世の絵物語を見ているような、現実味の薄い光景だ。フィラは息を詰めて、じっと二人の様子を見守る。
 光の巫女が胸元まで扇を下ろしたせいで、ジュリアンと並んでいても全く遜色のない美貌が、今は隠れることなく表に現れていた。
 金属的な透明感のある銀髪は結い上げずに真っ直ぐ下ろされて、髪飾り一つつけてはいないのに、それだけで完成された芸術品のようだ。氷の彫像を思わせる透き通った肌に南極の海を思わせる蒼い瞳。どこまでも冷たく、けれどそれ故に無垢で脆い印象を与える美しさだった。
 強烈な美貌だと、フィラは思う。現れるだけでその場の雰囲気が変わってしまう。冷たく、荘厳な、思わず平伏したくなるような信仰心をかき立てる雰囲気に。
 ジュリアンを見下ろしながら、光の巫女は満足そうな笑みを浮かべた。その高慢な瞳の中に一瞬だけ過ぎった複雑な色に、フィラは気付いてしまう。その色は現れたほんの一瞬だけ、光の巫女が持つ冷ややかで純粋で汚れのない宗教的な雰囲気をかき消した。
 気付いたのはたぶん――自分もときどき、同じような感情を抱くことがあるせいだ。ピアノの練習がどうしてもうまく行かないとき。音楽がどうしても手に負えなくて、苛ついて、どんなに練習を続けても先へ進めなくて、一度止めて頭を冷やした方が良いとわかっているのに手を止められない。
 寄り添いたいのに屈服させたい。好きなのに憎い。こいつが全ての元凶だと思うのに、その元凶に救われたいなんて思ってしまう。
 指先一つで操れるはずなのに、どうして思い通りにならないんだろう。全部私のものにしたいのに。隅から隅まで理解して、私の色を加えて一つのミスもなく完璧に表現したいのに。
 ――なんて、そんなこと出来るわけないけど。
 フィラは密かにため息をつく。そんな風になっているときは、頭に血が上っているし、自分自身すら制御できていないどうしようもない状態だから、必死の形相で鍵盤を叩き続けても疲れるだけだ。
 そもそも、他人の作った音楽は他人の感情と同じで理解しがたいものなのだ、と思う。わかったつもりになっても、結局見えているのは自分の音楽、自分の感情だけ。それなのにそれを自分のもののように理解したいとか寄り添いたいとか操りたいと思うのは――まるで恋愛感情みたいだ。
 そこまで思い至って、天啓のようにひらめいた。
 つまり、光の巫女はジュリアンに恋をしているのだ。
「……まさか」
「何が?」
 思わず思考が口から零れだして、即座にソニアに聞き返された。
「な、なんでもない……」
 かぶりを振ったは良いものの、何故か胸が苦しい。呼吸がうまくいっていない。フィラは明後日の方に向かって、大きく息を吸い込んだ。
 別に誰が誰を好きでも良いじゃないか、と自分に向かって言い聞かせる。光の巫女だって人間なんだろうから、誰かに恋をしていたっておかしくはない。光神リラを信仰しているわけでも、ましてやジュリアンに恋をしているわけでもないフィラには、一切関係のない世界の、関係のない出来事だ。目の前で生身の人間に展開されると心臓に悪いってだけで。
 納得して視線を戻すと、ジュリアンが立ち上がって一歩下がり、代わってダストが前に出るところだった。ジュリアンの恋人であるダストとジュリアンに片思いしているらしい光の巫女。もしかしなくてもものすごく怖い組み合わせだ。威嚇するような巫女の笑顔に、ダストは余裕すら感じられる微笑を向けて、騎士の礼をした。ものすごく険悪な雰囲気を纏ったまま、二人は扇越しに二言三言囁き合う。ジュリアンが銀髪の青年に呼ばれてその場を離れた直後、ダストが囁いた言葉に巫女の笑顔が消えた。ダストはどうやら怒っているらしい巫女の無表情に向かって、艶やかで挑発的な微笑を浮かべる。眉をひそめた光の巫女は、踵を返すダストを黙って見送った。
「な、何か怖い雰囲気だったわね、今の」
 一部始終を固唾を呑んで見守っていたソニアが、恐る恐る感想を口にした。
「女と女の戦い?」
 レックスがのんびりとした口調の中にそこはかとない恐怖を滲ませながら首を傾げる。
「かな?」
 フィラも首を傾げ、立ち去るダストの足取りを視線で追った。
「……ダスト様の勝利なのかしら?」
「そうみたいだねえ」
 ソニアとレックスが勝手な評価を下す。その評価を肯定するように、ジュリアンに歩み寄るダストの背中を見つめる巫女の眼光は悔しげで射殺すような勢いだ。ダストはジュリアンの前に立つと、挑発的な、というよりは脅すような笑顔を浮かべて、何事か囁きかけた。それに対するジュリアンの返答は、唇の動きからすると「すまない」だったようだ。ダストはその返答に満足したのか、脅すような雰囲気を緩めて人垣の間へ立ち去った。ジュリアンも貴族たちの間に立ち交じって談笑を再開し、一通りドラマを見物し終えて満足した野次馬たちも三々五々それぞれの楽しみに戻っていく。
「ああでも、これも貴族様って感じね。やっぱり領主様を巡っての争いなのかしら」
 雇われた楽士たちが奏で始めたワルツをBGMに、ソニアはうっとりと両手を組んでため息をついた。
「どうして?」
 レックスが小首を傾げる。
「ああいう争いが色恋沙汰じゃないなんてつまらないじゃない」
 酷い言い草だったが、ただの野次馬としては正しい態度だとも思える。どうして自分もそんなふうに気軽に捉えられないのだろうかと、フィラは小さくため息をつく。
「フィラ? なんか、元気ない?」
 見とがめたレックスが、心配そうに顔を覗き込んできた。
「ううん、大丈夫。少し息苦しいだけ。ちょっと服、締めすぎたのかも」
「大丈夫? トイレ行って緩めてくる? 手伝おうか?」
 ゴシップモードからさっさと頭を切り換えたソニアが、いたわるように背中に手を当ててくれる。
「大丈夫、外の空気吸ってくれば治ると思う。ちょっと行ってくるね」
「うん。気を付けて」
「私たち、当分この辺にいるから」
「ありがとう」
 レックスとソニアに軽く手を振って、フィラはバルコニーへ向かって歩き出した。

「ねえレックス、フィラってさ、もしかして領主様のこと好きなのかしら?」
 フィラの背中が人混みに消えると同時に、ソニアは表情をゴシップモードに切り替える。
「それは由々しき事態だね」
 付き合いの長いレックスはそんな変化に動じることもなく、重々しく頷いた。
「……なんで?」
「領主様がライバルなんて、勝てる気がしないよ。困ったな」
「はい?」
 ちっとも困っているように聞こえないのんびりした声音に、ソニアは眉根を寄せる。
「僕が領主様に勝てるところなんて、距離の近さくらいじゃないか」
「ちょっと待ってちょっと待ってレックス。いったい何言ってるのよ?」
 いつもとあまり変わらないのんびりした口調の中に本気を感じ取ってしまって、ソニアは慌てふためいた。
「あれ? もしかして、気付いてなかった?」
「何に?」
「僕、フィラに片思い……」
 力なく肩を落とすレックスに、ソニアはのけぞって驚いた方が良いのかどうか、本気で検討し始めた。
「……驚いても良いんだけど……やっぱりそうなの?」
 結局驚くのは止めにして、ソニアはレックスの目を覗き込む。
「やっぱりって、やっぱり気付いてたんだ」
「気付いてたってほどじゃないわよ。もしかして? って疑ってたくらい。わかりにくいんだもの、レックスの感情表現って」
 ソニアは肩をすくめ、次いでため息をついた。
「フィラはもっと気付いてないわよ、きっと。もっとアピールしなきゃ、絶対伝わらない。あの子、ピアノ馬鹿なんだから」
「そうなんだけどさ。フィラってちょっとわからないところがあるから」
 レックスは踊り始めた人々を避けて壁際に退避しながら呟く。
「わからない?」
 レックスに続いて壁際へ向かいながら、ソニアは首をひねった。
「そう。なんとなくなんだけど、時々変に遠慮してる感じがしてさ。よく言えば控えめなんだけど……なんでなんだろう? やっぱ記憶がないから、自分は本当にここにいて良いのかみたいに考えちゃうのかな? 僕はもっと気軽にいろいろ言い合えるようになりたいんだけど……」
 レックスは壁に寄りかかり、考え深げに言葉を紡ぐ。
「レックスからそんなロマンチックな台詞が出てくるなんて、意外だわ」
「そうかな?」
 不思議そうに首を傾げるレックスに、ソニアはしばし考え込み、やがて頭を振った。
「……そうでもないか。ロマンチストっぽいもんね。まあいいわ。私、応援する!」
 ソニアはレックスの片手を両手で握りしめ、高らかに宣言する。
「ありがとう!」
 レックスはソニアの両手を握り返し、ものすごい勢いで即答した。さすがにそこまで食いつきがいいとは予想外だったので、ソニアは思わず身を引く。
「レックス……あなたね、遠慮って言葉を知らないの?」
 ついさっき『遠慮』という単語を使って話していたことはもちろん覚えているのだが。
「あ……ごめん」
 レックスは気まずそうに両手を降ろし、身を引いた。
「良いけど、その代わり教えて欲しいのよね〜。ね? フィラのどこが好きなの?」
 ソニアは好奇心を隠しもせずに尋ねかける。
「そんなの、僕にだってわかんないよ」
 あっさりと肩をすくめるレックスに、ちょっとは考えるふりでもしたらどうなのだとソニアは少しむっとする。
「どっちにしろ、そうと決まればレックスの方から積極的に行かないと、よね」
「そうだねえ」
 レックスはいつもののんびりした調子で頷いた。
「やる気あるの?」
「あるよ、もちろん」
 どうもそうは見えないんだけど、と、ソニアはため息をついて天井を仰いだ。

 一方、自分が噂の的になっているなんてちらりとも予想していないフィラは、急ぎ足でバルコニーを目指していた。
「……だからさあ」
 唐突に、聞き覚えのある声が耳に飛び込んできた。
「世の中、絶対旨いもの食べてる人間が勝つんだって」
 振り向くと、人波の向こうにリサとダストが並んで立っているのが見える。さっきまで貴族の間に立ち交じっていたはずなのに、いつの間にか平民の集まる区画まで移動してきたらしい。
「それが世界の真理。腹が減っては戦はできぬって昔の偉い人も」
「黙りなさい。それとこれとは別でしょう」
 料理の皿片手に訴えるリサを、ダストが一刀両断した。
「食べるくらい良いじゃん。だって私今日は朝から何にも」
「寝坊なんて自業自得よ。食べるならそんな時間のかかる料理じゃなくて、素早くエネルギー摂取が可能な栄養ブロックにしておくのね。今はいつ不測の事態が発生したっておかしくないんだから、我々聖騎士は、常にどんな事態にも対応できるようにしておかなければならないはずでしょう? いざというときに食べ物で両手と口が塞がっていますなんて冗談にもならないわ。だいたいあなたはいつもいつも」
 ダストのお説教に見事に捕まってしまったリサは、お預けを喰らった犬のように一心に、自分が食べるはずだった料理の皿を見つめている。こんな美味しそうなもの見たことないと言わんばかりの、飢えきった視線だった。
「ちゃんと話を聞きなさい。例え伊達や酔狂や単なる建前だったとしても、あなただって聖騎士の誓いを立てた聖騎士の一員なのだから、きちんと与えられた任務を」
 あまり立ち聞きしているのも悪いかと思い直し、フィラは再びバルコニーを目指して歩き始めた。ダストのお説教はまだまだ続いている。
 フィラは少しだけリサに同情した。