第一話 長閑ブルース
1-2 母と子
玄関ホールに入ると、カーブを描く二本の階段が目に飛び込んできた。白く塗られた鉄の手すりにも、蔦や葉を模した繊細な彫刻が施されている。邸の中も、どうやら白と曲線を基調にしたデザインで統一されているようだった。
エリックは二つの階段の間にある奥の扉を開いて、その向こうの廊下へ二人を案内する。廊下へ出てすぐ左に曲がり、しばらく歩いたところでまた左手の扉を前に立ち止まった。エリックは扉を開けてかしこまり、二人に中へ入るよう促す。
中央省庁区を覆う結界から降り注ぐ光が、その部屋を柔らかく照らし出していた。白とベージュで統一された部屋は明るく清潔だ。談話するのに相応しいソファや猫脚のローテーブルの配置から、そこが客を迎えるための部屋なのだと予想出来た。
部屋の中では、一人の女性が待っていた。
「失礼いたします」
妙に硬い声で一礼したジュリアンが、先に行けと言うようにフィラの背を押す。ソファに座っていた女性が、立ち上がってこちらへ歩み寄ってきた。
ものすごく綺麗な人だ。ジュリアンと同じ色の、淡く癖のない金髪と青空の色の瞳。なめらかな肌は白く、年齢を感じさせない。淡い緑色のシフォンのドレスを身に纏い、ピンクの薔薇の花飾りで髪を結い上げた彼女は、まるで妖精の女王のように見えた。
「心より歓迎いたします。光の巫女様。わたくしはセレスティーヌ・レイ。ジュリアンの母でございます。以後お見知りおきを」
妖精の女王が優雅にスカートをつまみ、膝を折ってフィラに挨拶をする。
「い、いえ。こちらこそ。いろいろとお世話になります」
信じられないくらい丁寧な挨拶に慌てふためきながら、フィラも深々と頭を下げた。優雅さの欠片もない自分が申し訳なくなる。情けない気分で顔を上げると、ごく自然にジュリアンが隣に立った。
「婚姻の儀まで、彼女の世話をお願いいたします。必要なものはフェイルまでお申し付けください。私の方で用意させます」
騎士の礼を取ったジュリアンは、フィラに対するときのセレスティーヌに負けないくらい丁寧で他人行儀だ。なんでそんなに他人行儀なのかと、フィラは思わず二人の顔を見比べてしまった。
「かしこまりました。粗相のないよう、お世話させていただきます」
膝を折ったままのセレスティーヌに、どうしたら良いかわからなくて泣きたくなってきた。粗相なんてそんな大層な人間じゃないのに。困惑は深まるばかりだ。
「父上は」
「書斎にいらっしゃいます。ご挨拶してらしては」
「わかりました。失礼いたします」
ぎこちなく微笑むセレスティーヌに一礼したジュリアンは、フィラに小声で「少し席を外す」と囁いて部屋を出て行った。扉が閉まると、セレスティーヌがほっと息をつく。
改めて見ると、本当に綺麗な人だ。だけどさっきのやりとりを見た後ではどうしても緊張してしまう。
「ごめんなさいね。あなたのことはフェイルからも聞いています」
こちらに向き直ったセレスティーヌが、さっきよりも遙かに柔らかい口調と笑顔で小首を傾げたので、フィラは思わず返事も忘れて呆けてしまった。
「急にこんなところへ連れて来られてしまって大変だとは思うけれど、我が家だと思ってくつろいでくださいね」
優しい微笑みに頭の中が真っ白になってしまう。何故だかわからないが、ジュリアンがいたときよりよっぽどフレンドリーだ。
「あ、ありがとうございます。すみません。その、私の方こそ、急に転がり込んでしまって……」
慌てて頭を下げるフィラの、ティナが乗っていない方の肩に、セレスティーヌはそっと手を置いた。
「ううん。良いのよ。だって、あなたはジュリアンと結婚するんでしょう? だったら私たち、家族になるんですもの。本当に遠慮なんて必要ないのよ。それに、リタとも友だちだったって聞いたわ。私ね、あの子が親友だって言っていた子と会えて嬉しいの」
懐かしそうに目を細めるセレスティーヌの目の中に、紛れもなく悲しみを堪えている気配を感じてしまって、胸が痛む。
「……すみません。私、何も……覚えてなくて」
俯いてしまったフィラに、セレスティーヌは首を横に振った。
「良いの。そんなことは良いのよ。あなたがどんな人なのか、純粋に興味があるだけ」
悲しみの陰を消して微笑んだセレスティーヌは、やはり妖精などではなく、ちゃんと人間の女の人だ。困惑するフィラの両手を、セレスティーヌは親しみの籠もった仕草で握った。
「ねえ、フィラさん、私のことはどうかお母様って呼んでくださらない?」
小首を傾げるセレスティーヌの瞳を見つめ返すと、何だか吸い込まれそうな気分になる。ジュリアンと同じ色のはずなのに、彼女の瞳は春の空のような暖かい優しさで満ちていた。冬を思わせるジュリアンの瞳に映るわかりにくい優しさとは、雰囲気が違う。
「え……あの、良いんでしょうか……?」
「もちろんよ。リタはもう呼んではくれないし、ジュリアンは……あの子はちっとも懐いてくれないから」
暖かなセレスティーヌの瞳が、またふっと翳った。
「懐いてくれないって……久しぶりだから緊張してたんじゃ……ここに来るの、二年ぶりだって言ってましたし……」
何だかものすごい誤解と行き違いとすれ違いがありそうな気がする。四歳の時に聖騎士団に引き取られてから、実家とは疎遠だとは言っていたけれど、どちらも疎遠でいたいと思っているわけではなさそうだ。なのになぜ、あんな他人行儀な話し方をするのだろう。
「ええ。二年前……リタの葬儀のときだったわ。その前はいつだったかしら……大学院時代には一度来てくれたわね。リタが無理矢理呼んで……」
「大学院時代って、五年くらい前、ですよね」
以前礼拝堂で論文を見せてもらったときのことを思い出しながら首を傾げた。
「そうね。その前はいろいろあったから……それより前はもう、四歳で聖騎士団に引き取られたときになってしまうわ。四歳までは一緒に暮らしていたのよ。でももうあの子は……覚えていないんでしょうね」
つまり、物心ついてからは今日が三回目、ということだ。そんなに疎遠だったのかと愕然とする。同時に寂しそうなセレスティーヌの横顔も気になる。本当は、あんな風に他人行儀になんてしたくないのかもしれない。本当はもっと帰ってきて欲しいのかもしれない。
ただの予想だったけれど、ほとんど確信のようにそう思えた。
エリックの案内で書斎の前まで行き、扉を叩くと「入れ」という低い声が聞こえた。
「失礼いたします」
一礼して中に入ると、書斎机の前に座っていたランベールが顔を上げる。
「よく来たな」
机の前に少し距離を置いて立ち止まり、騎士の礼を取った。
「光の巫女の件、色々と気を配っていただき、ありがとうございます」
「お前の妻になるのならば、私にとっては娘だ。礼を言う必要はない」
万年筆をペン立てに戻しながら、ランベールは背筋を伸ばす。
「慣れない場所で戸惑うことも多いだろう。多忙は知っているが、たまには顔を出してやれ」
「……はい」
フィラが何も知らない一般人であったことを、ランベールは既に調べているのかもしれない。気遣うような言葉から、そう予測できたが、その言葉に含まれる微かな人間味に動揺を誘われた。こんな風に話す父を、ジュリアンは知らなかった。――いや、リタが生きていた頃には、そんな父とも接していたのかもしれない。自分が気付かなかっただけで。
「ユリン領主については、既に正式な解任の通知がユリンへ行っているはずだ」
個人的な会話をあっさりと切り上げ、業務連絡を開始したランベールは、もういつもの厳格さを取り戻していた。
「後任はラインムント・ゼーゲブレヒトに内定している」
ランベールの部下でフェイルの幼馴染みでもある男の名前に、ジュリアンはほっとする。彼にならば、安心して後を任せられるだろう。
「あれも無能ではない。内政に関してはお前の意志を引き継げるだろう。だが、結界の強化と天魔の掃討は、魔導技術も部下の戦力もお前に及ばないゼーゲブレヒトには荷が重い。引き継ぎ前には関連する問題を片付けておけ」
「かしこまりました」
父も同じ評価をしていることを確認しながら、再び頭を下げた。
「私からの用件は以上だ。お前からは、何かあるか」
「いえ。フィラを、よろしくお願いします」
「……ああ」
僅かに戸惑ったような沈黙はあったけれど、戻ってきたのは深い肯定の返事だった。この様子ならば、きっとフィラに余計な負担がかかることはないだろう。
「では、失礼いたします」
「……またな」
ほっとしながら部屋を辞そうとしたジュリアンにかけられた声はどこか力ないもので、いつもの厳格さが抜け落ちているような気がした。
「あなたの部屋なんだけどね」
応接間を出て、二階の奥へフィラを案内しながら、セレスティーヌは肩越しに話し始めた。最初の堅苦しい雰囲気はもうどこにも残っていない。
「もし嫌じゃなかったら、リタの部屋を使ってほしいの。客間はちょっと離れたところにあるし、親友が泊まっていってくれるなら……あの子も寂しくないんじゃないかと思って」
奥から二番目の扉で、セレスティーヌは立ち止まる。
「この奥はね……ジュリアンの部屋なのよ」
そこから一番奥の扉に目をやって、セレスティーヌは小さくため息をついた。
「少し空気を換えておこうかしら……」
そう小さく呟くと、まずは手前の扉を開けてフィラに荷物を置くように促す。中に入ったフィラは、思わず感嘆の息を漏らした。邸内の他の部屋と同じく、白い家具で統一された部屋は明るくこざっぱりとした雰囲気だ。置いてあるのは、ゆったりとした大きさのベッドと勉強机、大きな本棚が一つ。部屋の真ん中には足に蔦の装飾が施された丸テーブルと、カフェから持ってきたような華奢な椅子が二脚置いてあった。他の部屋よりも装飾は少なめだけれど、淡いピンクのカーテンやファブリックが女の子らしい雰囲気に一役買っている。以前見たリタの肖像から受けたイメージと、その部屋の雰囲気が重なって、少しだけ彼女に近付けたような気分になった。丸テーブルに荷物を下ろすと、ティナも肩から飛び降りて回りをきょろきょろと見回す。
「居心地良さそうだね」
ティナの言葉に頷くと、セレスティーヌも安心したように微笑んだ。フィラがまた辺りを見回している間に、セレスティーヌは部屋の奥へ歩み寄り、カーテンとバルコニーへ続く扉を大きく開け放つ。緩やかな風が吹き込んできて、少しだけよどんでいた部屋の空気が吹き払われた。
「やっぱり、隣の部屋も換気した方が良さそうね。あなたも見てみる?」
「え、でも……」
勝手に入ってしまって良いのだろうか。いや、たぶん本人も数年か十数年単位で入っていなさそうではあるのだが。
「良いから良いから」
むしろ見て欲しいと思っていたのか、セレスティーヌはフィラの背中を押すようにして隣の部屋に案内した。
隣の部屋はリタの部屋と同じような作りで、置いてある家具もやや直線的な印象が強いだけで隣の部屋と余り変わりがない。違うのは、白の次に使われている色がピンクではなく水色やブルーであるところくらいだ。
「四歳まではこの部屋を使っていたのよ」
感慨深そうに部屋を見回しながら、セレスティーヌはそう言った。
「ベッド……子供用じゃないんですね」
リタの部屋と同じく、大人が寝ても充分余裕がありそうな大きさだ。思わず漏れた感想に、セレスティーヌは少しだけ苦しそうな笑みを浮かべた。
「ええ。いつ帰ってきても良いようにって、買い換えたの。まだ一回も……使われていないけれど」
セレスティーヌは表情を隠すように部屋の奥へ歩み入り、さっきと同じようにカーテンと扉を大きく開け放つ。
「さて、そろそろジュリアンも向こうに戻る時間でしょう。見送りに行かなくてはね?」
振り向いたその笑顔が何だか無理矢理作ったものに見えて、フィラはものすごく複雑な気分に襲われた。
ジュリアンは玄関ホールでエリックと何か話していた。フィラとセレスティーヌの姿に気付いたエリックが、一礼して後方に下がる。セレスティーヌも何故かその近くで立ち止まってしまったので、フィラはジュリアンとほぼ一対一で(正確に言えば肩の上にティナもいるのだが)相対することになった。
「大丈夫そうか?」
「はい」
いつも通りの表情だけれど、どこか心配そうな様子を伺わせるジュリアンに自然と笑みがこぼれていた。
セレスティーヌは最初から暖かな好意を示してくれた。フィラがそれに応えることさえ出来れば、きっとすぐに打ち解けられるだろう。
「なら、良い」
フィラの様子を見て納得したのだろう。ジュリアンは静かに頷いた。
「あの、団長、次はいついらっしゃるんですか?」
ふと思いついて尋ねる。今までずっと疎遠で、そのせいでセレスティーヌとすれ違いがあったのだとしたら、自分を理由にでもここに来るようになれば何か変わるのではないだろうか。
「月に一度は顔を出すつもりだが」
「月に一度……」
呟いた声に、自分でもそうとわかるくらいがっかりした気配が滲んでしまった。セレスティーヌのことを思うともっと頻繁に、と思ってしまうが、仕事もあるし迷惑だろうか。そっと表情を伺うと、ジュリアンは何だか意外そうな顔をしていた。
「顔も見たくないなら頻度は減らせる」
もっと来て欲しいという気持ちが通じた、というかバレたのかと思っていたら、真逆の解釈をされて、フィラは動転した。
「ち、違いますよ! どうしてそうなるんですか! むしろ逆……!」
取り返しがつかないところまで口に出してしまった後ではっと我に返る。これじゃまるで会えなくて寂しいと言っているみたいだ。いや、たぶん、それも嘘ではないけれど。
ヤバイ、と思ってそっと表情を伺うと、ジュリアンはさっきよりもさらに驚いたような顔をしていた。もっとも、見慣れていなければ気付かないくらいの微妙な変化ではあったけれど。
――どうしよう。撤回できない。
会えなくて寂しいなんて気持ちを伝えるつもりは微塵もないけれど、もっと頻繁に来て欲しいのは本当だ。
にっちもさっちもいかなくなって情けない表情でただ見上げるしかないフィラに、ジュリアンは小さくため息をついた。
「……わかった。文句を言う相手も必要だろうしな。しばらくはユリンと行ったり来たりで顔を出せない日も多いが、出来るだけ来るようにする」
たぶんものすごく呆れられたけれど、セレスティーヌの寂しそうな表情を思い出すとこれで良かったと……思えなくもない。前言撤回できないフィラはものすごくぎこちない調子で「よろしくお願いします」と呟いたのだった。