第一話 長閑ブルース

 1-3 晩餐

 ジュリアンが光王庁に戻ってしまって、フィラはとりあえず夕食まで荷物を片付けていると良いと部屋に一人にされた。
「お人好し。お節介」
 ほんの数分で少ない荷物は片付いてしまって、手持ち無沙汰にベッドに腰掛けたフィラに、枕の上で丸くなっていたティナが半眼で罵倒を飛ばしてくる。
「……わかってる」
 何の話だか、聞かなくてもわかってしまった。さっきの、ジュリアンとの会話だ。どうしてもっと来て欲しいみたいな態度を取ったのか、セレスティーヌとの会話も聞いていたティナにはバレバレだったらしい。そしてその辛辣な感想にも、言い返せる余地がカケラもなかった。まったくもってその通りだと、自分でも思っているのだから。
「あんなことしても、感謝なんてされないよ」
「わかってる……それに、感謝なら光の巫女の分だけで充分だよ」
 ぼふっとベッドの上に倒れ込みながらため息をつく。
「まあね。衣食住に教育、ピアノ……それだけ与えられてもまだ足りないくらい価値ありそうだからね。光の巫女って」
「うん……」
 本当にそうなのだろう。いい加減自覚しなくてはいけないのかもしれない。でも、自分の中にある力に価値があったとしても、それがすなわち自分の価値になるとは思えない。
「だからなおさらあんなお節介焼いてやることないと思うんだけど」
「私もそう思う……でも」
 何だか、それだけでは「自分自身」が役に立てている実感が持てないのだ。
「セレスティーヌさん、悲しそうだった」
「……お人好し」
「ごめん」
 わかってはいるのだ。これがただの自己満足に過ぎないということは。
「良いよ、別に。僕だってそうじゃない人間より、そういう人間の方が好きだしさ」
 視界の端で、ティナがくるりとしっぽを動かしたのが見える。
「でもほどほどにしときなよ。あいつ、あんまり深入りしない方が良いタイプの人間だと思う」
 曖昧に頷きながら、脳裏に去来したのは「手遅れ」の三文字だった。
「それはさておき、荷物を片付け終わったら、家の中を探検してても良いって話だったよね?」
 そわそわとした様子から、ティナがあちこち探検して回りたがっているのがわかる。普段なら勝手にどこへでも行ってしまうのだが、さすがに初めての他人の家では遠慮があるのだろう。
「うん。一緒に行こうか」
「行く行く!」
 勢いをつけて起き上がったフィラの肩に、ティナは元気よく飛び乗った。

 もうすっかり夜時間になってしまったので、中央省庁区を覆う結界からの光は消えていた。代わりに邸内の廊下を照らしているのは、貝を模したらしいランプからこぼれる間接光だ。とりあえず部屋には入らず、二階の廊下を隅々まで回ってみる。
 リタの部屋から出て右はジュリアンの部屋とその向かいの浴室と手洗いだけで、リタの部屋の向かいは音楽室、左に行って通路を一本挟んだ区画には、ランベールとセレスティーヌの寝室や衣装部屋や書庫があった。玄関ホール側の並びには、洗濯室や「ニーナの部屋」と書かれた部屋、エリックの部屋や備品庫がある。各部屋の入り口にしっかりプレートが表示されているので、案内がいなくても部屋を間違えることはなさそうだ。
 私室や書斎にはもちろん入るわけにはいかないので、フィラはまず音楽室を覗いてみることにした。部屋に入ると、人の動きを感知して自動的に明かりがつく。暖色の柔らかな光に照らされた室内はやっぱり白とベージュを基調にした上品な家具で統一されていて、唯一部屋の真ん中に置かれたグランドピアノだけが、艶やかな黒でその存在を主張していた。ユリンの礼拝堂にあるものよりは小さい家庭用のグランドピアノだけれど、その佇まいと横に刻まれた製造会社の銘が、そのピアノが高級なものであることを物語っている。
 壁際の本棚には楽譜が並んでいた。見た所、ピアノ曲よりも声楽の楽譜が多そうだ。セレスティーヌは元歌手だとリサが言っていたから、この部屋はセレスティーヌのために作られたのかもしれない。
 様子だけ確認して部屋を出る。次に書庫をちらりと覗くと、一見して素人には手を出しづらい法律の専門書ばかりが並んでいたので、諦めて一階へ降りることにした。
 吹き抜けの玄関ホールから一階に降り、先ほどエリックに案内してもらった扉を開いて廊下に出る。左右の玄関側の部屋は応接間と客間だけで、右奥は広間だったので、正面の廊下を進み、途中で正面と左手に別れた廊下を真っ直ぐ進む。突き当たりの扉を開けると、不思議な輝きを放つ花々が咲き乱れる庭園だった。宵闇の中に、まるで硝子製のような半透明の花が色とりどりのグラデーションの花弁を浮かび上がらせている。自然のものではあり得ない大きさの花弁と、植物全体から発せられる燐光が不思議で手を伸ばすと、指先が何の抵抗もなく花片をすり抜けた。
「これ……」
「立体ホログラムだね。この辺りだと相当頑張って土壌改良しないとまともな植物は育たないから、他の所のまともに見える木とか草とかもほぼ全部そうだよ」
 やはり曲線を多用した東屋が、庭を覆う不思議な植物と調和しているのを眺めながら、下手に植物を育てると天魔化する可能性があるとか、その点でも徹底的に管理されたユリンは特殊な場所なのだというティナの話に耳を傾ける。
 そんな話をしていたら、匂いも感触もあるユリンの植物や……ユリンそのものが懐かしくなってしまった。
(だめだ)
 こんなに早くホームシックにかかっている場合ではない。
「ほ、他のとこ見に行こっか」
 気を取り直して探検を再開することにしたフィラは、邸の中へ戻った。
 先ほど曲がらなかった廊下を右折すると、食堂とランドリーの奥に厨房と浴室と手洗いがある。厨房を覗き込んでみると、セレスティーヌが一人で料理を作っていた。これだけの邸だし、今まで聞いてきた話からも相当なお金持ちとしか思えなかったので、シェフやメイドではなくこの家の女主人が一人で料理しているなんてちょっと意外だ。そう言えば、エリック以外に使用人らしい人間は見かけなかったし、探検している間にも人の気配を感じなかった。
「あの」
 思い切って声をかけてみる。
「あら、どうしたの? お腹空いた?」
 振り向いたセレスティーヌが柔らかく微笑んだ。
「いえ……片付けが終わったので……何かお手伝いできること、ありませんか?」
「最初の日くらいゆっくりしてても良いのに。疲れてない?」
 労るような声と言葉に、自然と心がほぐれていく。
「ありがとうございます、大丈夫です。むしろ、何かしてないと落ち着かなくて」
「そう? だったらサラダの盛りつけをお願いしても良いかしら」
「わかりました」
「材料はもう切ってあるの。冷蔵庫の中にあるんだけど」
 鍋から手を離せないらしいセレスティーヌに頷いて、厨房の中へ足を踏み入れる。二人どころが五、六人で料理しても余裕があるくらい広くて本格的な厨房だ。もしかしたら踊る小豚亭やユリンの城の厨房よりも充実しているかもしれない。奥に置いてある十人家族くらいなら賄えそうな大きな冷蔵庫を開けると、ちょうど目線の位置に色とりどりの生野菜を乗せた皿がいくつか置いてあった。
「へえ……中央省庁区で生で食べられる野菜があるなんて、ずいぶんぜいたくだね」
 肩の上からティナが感嘆の声を漏らす。
「そうなの?」
「うん。エステルと一緒だった頃は、ほとんど栄養ブロックや合成食品ばっかりでさ。じゃがいもがあれば僥倖くらいだったよ」
「ぜいたくはわかってるんだけど、ランベールに良いものを食べて欲しくて」
 セレスティーヌが振り向いて苦笑を寄越した。
「良いんじゃない? 金持ちがぜいたくしてくれないと貧乏人も生きていけないってよくエステルが言ってたよ」
「ありがとう、ティナちゃん。お皿は向こうの食器棚にあるから。大きいのに全部盛りつけてもらえるかしら?」
「はい、お……お母様」
 さっき言われたことを思い出して、躊躇いながらその呼び名を使ってみると、セレスティーヌはくすぐったそうに、そして幸せそうに満面の笑みを浮かべた。何だか妙に気恥ずかしくなってしまって、頬が熱くなるのを感じながらセレスティーヌに背を向ける。
 たぶん、この呼び名を口にしたのは人生で初めてだ。記憶を失う前でさえ、育ての親であるらしいエステルのことをそう呼んだりはしていなかっただろう。
 逃げ出したいような叫びだしたいような、嬉しいような苦しいような、何とも言えない気持ちになる。
 本当の母親。実験施設で生み出されたらしいフィラには、いるはずのない存在。
(何だか……良いな)
 羨ましい、と言うには余りにも淡い、仄かな憧れのような感情がふっと胸を過ぎった。
 その感情を胸の中でそっと転がしながら、フィラは食器棚から大皿を取り出し、厨房の真ん中に置かれた作業台で盛りつけを始める。
 セレスティーヌが混ぜる鍋からはクリームシチューの美味しそうな匂い。オーブンからはハーブと鶏の焼ける香ばしい匂い。
 サラダを盛りつけた後、セレスティーヌに頼まれて付け合わせの野菜のソテーを作りながら、ユリンでは踊る小豚亭という食堂で手伝いをしていたのだとか、そこに集う人たちがどんな生活を営んでいるのかとか、他愛のない話で盛り上がる。
 セレスティーヌは楽しげに話を聞いてくれたけれど、何故か不思議とジュリアンのことについては尋ねてこなかった。

 作り終えた夕食を食堂に運ぶと、間もなくランベールとエリックが入ってきた。
「今日はずいぶんと豪華だな」
 ワイングラスを四つ乗せたトレイを持ったエリックを後ろに従えて入ってきたランベールが、無表情のままぼそりと呟く。その言い方が妙にジュリアンと似ている気がして、フィラは密かに微笑んでしまった。
「今日はフィラさんの歓迎会だもの。少し張り切ってみたの。貴方には敵わないけど」
「いや……」
 食卓を見渡して、ランベールはどこか満足そうに目を細める。
「ワインは……白で良いな」
「ええ。任せるわ」
 フィラとセレスティーヌが食器を並べている間に、ランベールとエリックはどこかからワインの壜を持ってきてグラスに注ぎ、それぞれの席に置いて回った。
「さあ、食べましょう」
 準備が終わったところで、セレスティーヌが満足そうに両手を打ち合わせる。長い食卓の端の方の四席に、全員が着席した。上手の席にはランベールとセレスティーヌが向かい合い、フィラはセレスティーヌの隣、エリックの向かい側に座る。執事だとは言っていたけれど、一緒に食事を取ろうとしている様子を見る限り、エリックはこの家ではほとんど家族のように扱われているようだった。食事の必要がないティナは空いている席で丸くなる。
 ランベールが短く祈りの言葉を捧げるのに合わせて全員が手を合わせ、それから食事が始まった。
「明日からの予定だが」
 食べ始めてしばらくして人心地ついた頃、ランベールが口火を切る。
「午前中は家庭教師について一般的な教養を身につけてもらう。初等教育は終わっているという報告を受けているが、今後のことを考えれば、大学に進学できる程度の知識は身につけておいた方が良いだろう」
「そうね。そうしておけばいずれ音楽大学にだって行けるかもしれないし」
 光の巫女として、というよりは、普通の生活を送っていく上での話をされているような気がして、フィラは目を瞬かせた。
「午後はピアノのレッスンと魔力制御の訓練を受けるように。魔力制御の訓練は」
「私が教えるわ。よろしくね、フィラさん」
「は、はい。よろしくお願いします」
 余りに綺麗に微笑みかけられてどぎまぎしてしまったのもあるが、厳格そうなランベールの言葉をセレスティーヌが平気で遮るのにも驚いた。もしかしたら最初のイメージよりも、ずいぶんと奔放な人なのかもしれない。
「私は家を留守にすることも多いが、困ったことがあったらセレスティーヌかエリックに相談すると良い」
「昼間は通いでお手伝いをしてくれているニーナもいるから、彼女にも話してくれて構わないわ。ニーナは家事のプロだから」
 さっき見かけた「ニーナの部屋」はその人のための部屋なのかと納得する。
「それにしても」
 機嫌良さそうににこにこと微笑むセレスティーヌに視線を向けられたランベールの無表情に、一瞬身構えるような何かが混ざった気がした。
「この年で娘が出来るなんて、嬉しいわよね」
「……ああ。そうだな」
「ねえ、フィラさん、この人のことも、お父様って呼んであげてくれる?」
「えっ……?」
 思わずランベールの表情を伺うが、微動だにしないその顔からは何も伺えない。
「良いわよね? ランベール」
「……ああ」
 頷いた後で、何かを誤魔化すようにランベールはワインを口にする。
「そうして欲しいって」
 口にしなかったことまで補足するセレスティーヌに、ランベールは否定も肯定も返さなかった。