第一話 長閑ブルース

 1-5 月のない夜空

 ジュリアンを部屋に案内した後、フィラは夕食の準備を手伝おうと、廊下の途中でふっと肩の上に現れたティナと共に厨房へ戻った。
「あ、あの子何か言ってた?」
 そわそわとした様子で待っていたセレスティーヌが、フィラの気配に気付いて即座に振り向く。
「な、何か……?」
「迷惑そうじゃ、なかった……?」
 どうしてそこまで不安げなんだろうと疑問に思いながら、フィラは首を横に振った。
「それはないです。何だか……変に遠慮してるようには見えましたけど……」
「フィラにそう言われると、ちょっとほっとするわ」
 それでもまだどこか苦しそうな顔をしながら、セレスティーヌは俯く。
「あなたの方が、きっとあの子のことをわかっているから」
「そう……でしょうか……」
 確かにここ最近のジュリアンのことはフィラの方が知っているかもしれない。でも、本当の家族を差し置いて彼のことを知っていると言うには、フィラの知っていることは余りにも少なすぎる。
 セレスティーヌは顔を上げると、無理に作ったような笑顔を浮かべた。
「あなたと話しているのを見てるとね、普通に話しかけても大丈夫かもしれないって思えてくるの」
「普通にって……あ、当たり前じゃないですか」
 ジュリアンがそんなことを気にするとは思えない。思わず勢いよく肯定してしまうと、セレスティーヌは自分自身に呆れたようにどこかほろ苦く笑った。
「そうよね。変な親子だと思うわ。でも私……情けないけど、聖騎士団副団長か、団長をやっているあの子しか知らないのよ。そうなる前のあの子とは、ほとんど会うことも出来なかったから……」
 必死で笑みを浮かべ続けようとするセレスティーヌの顔が泣きそうに歪む。
「だから私は……あの子に恨まれても仕方がないの」
「そんな……! どうして……!?」
 ジュリアンがセレスティーヌを恨んでいるなんてあり得ない。知っていることが少なくても、それだけは確信を持って言える。
「私たちは、あの子を捨てたようなものだから」
 狼狽するフィラに、セレスティーヌは感情を押し殺したような声で淡々と話し続けた。
「四歳であの子が聖騎士団に引き取られてから、私もランベールも、会いに行けなかったのよ」
「でもそれは……行かなかったんじゃなくて、行けなかった、んですよね?」
「そう……でも、無理にでも会いに行けば良かったと、今でも思っているの」
 青空の色の瞳が、曇って揺れる。
「……怖かったの」
 まるで罪を告白するかのように、セレスティーヌは震える声でそう言った。
「あの子が、私の知っているあの子ではなくなっているかもしれないと……そう思うと、怖くて……ほんと、母親だなんて……言う資格ないわね……」
 ――どうして。
 両手を強く握りしめながら、フィラは思う。
 どうして、親子揃ってこうなのだろう。どうしようもなくもどかしい。こんなのはおかしいと、叫び出したくなるくらいに。
「そんなこと、言わないでください」
 感情を抑えて絞り出した声が、みっともないくらい擦れていた。
「団長は……自分の母親はセレスティーヌ・レイ一人だけだって言ってたのに……お母様が、そんな、ことを……」
 フィラの方が泣きそうになる。どう伝えたら良いかわからない。だって、ジュリアンの本当の気持ちなんてわかるはずがない。
「あの子が……そんなことを……?」
 セレスティーヌは両手をぎゅっと握りしめ、瞳を閉じる。大きく深呼吸して再び瞳を開いたとき、彼女の顔にはもう微笑みが戻ってきていた。
「……ごめんなさい。変な話をしてしまって。でも……ありがとう」
 何と言ったら良いのかわからなくて返事が出来ないフィラに、セレスティーヌは気を取り直したように小首を傾げる。
「それにしても、残念ね。せっかくジュリアンが来てくれたのに、ランベールったら今日出張なのよ。知ったら絶対悔しがるわ」
「お父様が、悔しがるんですか……」
 想像しようとして出来なくて、頭の中が真っ白になった。
「表には出さないけどね」
 セレスティーヌは悪戯っぽく笑って、夕食作りを再開する。その様子は、もうすっかりいつも通りだ。聞いてみたいことは色々あったけれど、さっきの話題を蒸し返す気にもなれなくて、フィラも無理矢理気持ちを切り替えて、いつものようにそれを手伝い始めた。

 夕食は、思ったより居心地が悪くはなかったと思う。食後の歓談を終えて戻ってきた部屋でぼんやりとベッドに腰掛けながら、ジュリアンは思い返していた。
 セレスティーヌはここに来てからのフィラの生活を話しながら、ユリンではどんな生活を送っていたのかを聞きたがった。ユリンの特殊事情についてはジュリアンからも話せることがあったので、最後まで会話を途切れさせることなく乗り越えることができた。恐らく一番居心地が悪かったのは、他に話題がないせいで話のネタにされ続けたフィラだろう。
 フェイルから送られてきた資料には、夕食前にもう目を通してしまっていた。やるべきことはもうない。やっておいた方が良いことはいくらでも思いつくが、なぜかそれを始める気にはなれなくて、静寂に耳を澄ましていた。
 ふと、バルコニーに人の気配を感じる。魔力の微弱さからそれがフィラだとわかって、ジュリアンは立ち上がった。
「あ……」
 扉を開けてバルコニーへ出ると、手すりにつかまって外を眺めていたフィラが気配に気付いて振り向く。
「部屋、隣だったのか」
「はい」
 何でもないことのように頷くフィラに、微かに眉を顰めた。バルコニーは隣の部屋と繋がっていて、ジュリアンとフィラの間には柵一つない。その気になれば簡単に部屋を行き来できてしまうだろう。一瞬本気で自分の両親の貞操観念を疑ったが、考えてみれば自分と彼女は婚約者同士だった。今後のことも考えれば、他人に止められることなど考えず自制するべきだということなのだろう。
「リタさんの部屋を借りてるんです。親友が泊まるならリタさんも歓迎してくれるはずだって」
「そうか……」
 ジュリアンの葛藤になど気付くはずもないフィラは、いつもの調子で説明を続ける。警戒されても困るのだが、若干複雑な心境だ。
 軽くため息をつき、フィラの隣の手すりに背中を預けた。繊細な鉄細工の手すりは頼りなく見えるけれど、実際はしっかりとした作りだ。
「不思議なものだな」
 窓越しにぼんやりと自分の部屋を眺めながら、思わず呟いていた。
「不思議……?」
「何も覚えていないと思ったのに、こうして見ると見覚えがある気がする」
 ベッドは大人用に変わっているけれど、他の家具はたぶんそのままだ。それがわかってしまう自分が何よりも不思議だった。
「記憶にあるよりだいぶ小さく見えるが」
「それ、団長が大きくなったんですよ」
 フィラが小さく笑いながら言う。
「そうなんだろうな」
 まるでここだけ時が止まっているようだ。天魔を相手に殺戮を繰り返す日々も、光王庁内部の生臭い争いも、遠い世界ででもあるかのように。
「明日、早いんですか?」
 柔らかい声が静かに問いかけてくる。
「いや。普段通りだ。少し早めに出て向こうで着替える」
 フィラの声を聞いただけでは戻ってこなかった現実感が、答えた瞬間に嫌になるほど肩にのしかかってきた。
「向こうって、光王庁……?」
「ああ。あちらに寝起きしている部屋があるからな」
 手狭になって使われなくなっていた戦闘訓練用の施設を改修した、殺風景な部屋を思い出して眉根を寄せる。
「団長……あの、どこに住んでるんですか?」
「今は部屋を借りてないから光王庁だ。聖騎士団のオフィスフロア付近の一角に居住許可をもらっている」
 怖々と尋ねるフィラに正直に答えると、フィラは目を見開いて小さく身を引いた。
「ほ、本格的に住んじゃってるんですか? 光王庁に?」
「そうなるな」
 あり得ない、とでも言いたげな呆れ返った表情を、思わず不機嫌な表情になって見下ろす。
「何だ、その顔は」
「……いや、職住接近すぎると思って……」
「自分で部屋を借りるよりセキュリティがしっかりしてるんだ。金もかからないし」
 思い悩んだ表情で頭を抱えるフィラに、そこまで呆れられる筋合いはないと言い訳を口にした。
「……世知辛いですね……」
 以前にも同じようなことを言われた気がする。そのときのことを思い出して、即座に後悔した。先代団長のことを何も知らない少女に話したり、まして縋り付いたりするなんて、どうかしていたとしか思えない。
「あっちは狭いからな。結婚した後も、お前はこっちに住めば良い」
 余計な思考を振り払うように、平坦な口調で告げた。
「え……?」
 意外そうに目を瞬かせるフィラから視線を逸らす。光王庁へ来れば、彼女の自由はますますなくなってしまう。それを少しでも引き延ばしたいと思うのは、自分の罪悪感から目を逸らしたいだけだとわかっていた。
「母も気に入っているようだし、ここなら安心して預けられる。お前が光の巫女だと認められれば光王庁に来てもらうことになるだろうが、それまでは……」
 話している間に、フィラの表情がどこか緊張したように強張り、視線は遠く手すりの向こうに向かう。
「団長も、一緒に住めば良いじゃないですか」
 重ねた言い訳に投げかけられたのは、思ってもいなかった一言だった。
「は?」
 思わずフィラの横顔を見る。背筋を伸ばして中央省庁区の外壁の方を見つめるフィラが、本当は何を見ているのかはわからない。ただどこか緊張した空気を纏うその横顔が、いつもの柔らかい印象とは違って、何か脆く危ういものに感じられた。
「光王庁には、ここからも通える距離なんですよね? お父様はそうしてるんだし……団長もそうしたら、お母様、喜びますよ」
「俺は……ここにいても馴染める気がしない」
 フィラが何を求めているのかは、わからないでもない。それでも、家族の像はどこか遠い。来たばかりのフィラの方が、余程この家の娘のように思えるくらいだ。まるでジュリアンの方が婿入りしてきたような気分になりそうだった。
 一つため息をつく。
「……とにかく、もし万が一ユリンに戻してやれなかったとしても、レイ家がお前を引き取れるなら、お前の居場所は確保できる」
 実の娘のようにフィラを可愛がっている母にとっては、むしろその方が良いのかもしれないとすら思う。
「団長……は、どうして……そんな」
 フィラの声がふと震えた。
「どうした?」
 何かを堪えるように俯いたフィラは無言で首を横に振る。
「すみません。もう、遅いから。寝た方が良いですよね」
「ああ……そうだな」
 強張った調子に戸惑いながら頷くと、フィラはそれを待っていたかのようにさっと背中を向けた。
「おやすみなさい」
 目を合わせないまま、フィラは部屋へ戻っていく。その背中を見つめながら、どう答えれば良かったのかと考えていた。例え母に恨まれていなかったとしても――いや、だからこそ、今さらここへ戻ってきたところで余計な苦しみを増やすだけだ。
 フィラをあんな風に悲しませたかったわけではないけれど、考えても結論は出そうにない。月のない、結界に遮られた夜空を見上げて深くため息をつき、ジュリアンも部屋へ戻った。

 ベッドに飛び込んだフィラは、八つ当たり気味に枕を叩く。あれ以上一緒にいたら、苛立ちの余り何を言ってしまうかわからなくて逃げてきてしまった。もっと上手い話の持って行き方があるはずなのに、何も思いつけなかった。
 なぜジュリアンが誰も寄せ付けずに一人になろうとするのか、フィラにはわからない。理由もわからないまま彼と家族を結びつけようとするなんて、どう考えたってお節介だし余計なお世話だ。それでも、何か理由があるのだとしても、当たり前の幸せを振り捨てて欲しくなかった。自分だけ距離を置きながらフィラの居場所だけ確保しようとしているのも、いつかいなくなってしまうみたいで嫌だ。馬鹿なことをしているとわかっていても、どうしようもなかった。
 勇敢でなければジュリアンには踏み込めないとダストは言っていた。踏み込めるわけがない。フィラは他人で、光の巫女の力を引き継いでいなければ何の関係もない人間だ。でもセレスティーヌやランベールなら、本当の家族なら違うんじゃないだろうか。
 自分に何の力もないことくらいわかっている。余計なお世話だということもわかっている。
 それでも何か、彼のために何か出来ることがあるならしたいと、思わずにいられない。聖騎士団団長として光の巫女の力を必要としている彼のためではなく、礼拝堂にたったひとりで立ち尽くしながら、まるで自分自身を消し去ってしまいたいと願っているようだった彼のために。
 あの時、その手を握ってしまったのは、自分自身を憎んだり蔑んだりして欲しくないと思ったからだ。そしてそうしたいと思っているのは、きっとフィラだけじゃない。彼の手を握るのに相応しい人は、きっともっとたくさんいる。そのことに気付いて欲しかった。
 そのためだったら、多少疎まれたりうっとうしがられたりするくらい大した問題じゃない。
 だってこれは――どうせ、どう転んだって叶わない恋だ。ジュリアンの恋愛対象になれるなんて思えないし、何より自分自身の感情よりも大切なものを彼は抱えている。だから万が一ジュリアンがフィラに好意を持つことがあったとしても、絶対にこの恋は叶わない。理由はわからないけれど、ジュリアンの今までの言動を考えれば、側にいられるのだって今だけなのだろう。それも、恐らくはほんの少しの時間だけだ。
 ぎゅっと身体を丸めて、顔を埋めるように枕を抱き寄せる。胸が苦しい。それでも思う。
 ――だったら出来ると思ったことをしてしまえば良い。彼の側にいられるうちに。
 ティナが散歩から帰ってくる前にこの感情をやり過ごそうと、フィラはきつく目を閉じた。