第一話 長閑ブルース
1-6 朝の風景
ぼんやりと瞳を開ける。夢のように懐かしい風景の中にいる。中央省庁区を覆う結界から降り注ぐ魔力光が窓から差し込み、白い家具と淡い青のファブリックで統一された部屋を照らし出している。徐々に明るくなっていくように設定された光は、まだどこか朧気なまどろみの中にいるように仄暗い。
「おはよう、ジュリアン」
寝起きのぼんやりとした心地のまま頭を巡らせると、入り口の近くに母が立っていた。
「お母様……?」
呟いて、その声の低さにはっと気付く。これは現実で、自分は四歳の子どもなどではなく、客人としてここにいるのだ。慌てて覚醒の魔術を発動させ、起き上がる。
「失礼いたしました。少し、寝惚けていて……」
「良いのよ。ゆっくり眠れた?」
優しい問いかけも、過去の夢の中から聞こえてくるようだった。現実感が、薄皮を一枚隔てたように遠い。
「はい。おかげさまで」
実際、いつもより眠りが深かった自覚はある。だからなのか、夢の中にいるような感覚がなかなか抜けていかない。
「朝食ができているわ。準備が出来たら食堂に来てちょうだい」
昨日まで他人より遠く感じていた母が、まるで当たり前のことのようにそう告げる。夢か現かはっきりしない気分を振り払うように立ち上がり、頭を下げた。
「ありがとうございます」
セレスティーヌは少し寂しそうに微笑むと、部屋を出ていく。
落ち着かない気分で身支度を調え、食堂の前まで来たところで、厨房から出てきたフィラと出会った。
「おはようございます」
ちょうど焼きたてのクロワッサンを運んできたフィラがにこやかに挨拶を投げかけてくる。
「……ああ。おはよう」
「もしかして寝惚けてます?」
一瞬違和感のなさに固まってしまったのを反応が鈍いと判断したのか、フィラは小首を傾げた。
「いや。起きている。覚醒の魔術を使ったからな」
「……平時なのに?」
不思議そうに目を瞬かせるフィラからは、昨夜のような張り詰めた空気は感じられない。そのことに妙にほっとする。
「ああ。母が部屋にいたので」
「えっと、それが何で魔術まで使う話になるんでしょうか……?」
「寝起きが悪いからだ」
寝起きの悪さはとっくに知られているのだが、改めて口にすると何だかため息をつきたい気分になった。
「お前は……何をしてるんだ?」
「お食事の準備ですよ?」
答えながら、フィラは不思議そうにまた小首を傾げる。確かに見ればわかることだったが、ジュリアンは思わず厨房の方を伺ってしまった。
「シェフがいるんじゃないのか?」
客人扱いでもフィラなら手伝いくらいしそうではあるが、それでも厨房から他の人間の気配が感じられないのは不思議だ。
「いますけど、来るのはお父様が食事当番できないときだけなんです」
「……なんだそれ」
父と食事当番という言葉が結びつかなくて、思わず眉を顰めた。
「お父様とお母様、曜日ごとに当番を決めて食事を作ってらして、お父様が仕事で食事を作れないときに自分のポケットマネーでシェフを呼んで作ってもらってるんだそうですよ」
「ちょっと待て。作れるときには作ってるのか?」
「はい。凝り性みたいで結構難しいお料理を作ってくださるそうなんで、実はちょっと楽しみなんです」
にこやかに予想を超えた言葉を投げつけられて、一瞬言葉を失う。
「……想像を絶するな」
「興味があるなら来週の火曜日に来てください。お仕事早く終わるはずだからって張り切ってましたから。団長が来てくれたらきっと喜びます」
張り切っている父というのも、ジュリアンの理解を超えていた。
「えっと、一週間くらいこっちにいるんですよね? 火曜の夜は何か予定入ってますか?」
「空いてはいるが……邪魔になるだろう」
たった二週間ですっかり馴染んでしまったフィラは、まるで最初からこの家の一員だったように思える。本当の家族のように振る舞う三人の中に自分が入っていけるとは、あまり思えなかった。
「だからどうしてそうなるんですか?」
心底呆れた表情でフィラはジュリアンを見上げる。
「どう考えたって親子水入らずの邪魔になるとしたら私じゃないですか」
「親子水入らず……?」
まったく馴染みのないフレーズに思考が止まりそうになる。
「二人とも邪魔なんてことはありません!」
突然怒ったような声が聞こえて、二人は同時に振り返った。
「ふ、二人とも我が家の大事な子どもたちです。邪魔なんて、あるはずないわ」
泣きそうな顔のセレスティーヌは、視線を彷徨わせた末に縋るようにフィラを見つめる。
「す、すみません、お母様。そういう意味じゃなくて……」
慌てふためいた動作で駆け寄ったフィラはこちらを振り返り、「団長も謝って」と唇の動きだけで伝えてきた。一瞬躊躇ったが、謝らなければこの場は収まりそうにない、気がする。
「……申し訳ありません」
「じゃあ、来てくれるのね?」
セレスティーヌはフィラの影に隠れるようにしながらも、断固とした調子で尋ねかけてきた。断るという選択肢をまったく与える気のない様子に、ジュリアンはたじろぐ。救いを求めるようにフィラを見ると、こっちはこっちで懇願するような視線を向けていた。明らかに断らないでくれと訴えられている。
――もし断ったら、フィラは悲しむのだろうか。
「……はい」
一瞬胸を過ぎった自分でもよくわからない感情に突き動かされて、考える前に頷いてしまっていた。
なぜこんな事態になったのかさっぱり理解できないまま、ジュリアンはほっとしたようにセレスティーヌに向き直るフィラの横顔を見つめる。光の巫女の後ろ盾という立場をレイ家に与える代わりにフィラを預けるという、ただの取引だったはずなのに、いつの間に家族の交流を図ることになってしまったのか、わけがわからなかった。
早朝、中央省庁区付近に点在する中規模居住区の調査を終えて戻ってきたランベールは、そのまま光王庁に顔を出した。各地の駐屯兵や自警団は、おおむね聖騎士団の復帰に好意的だった。ジュリアンが聖騎士団団長に昇任した頃は『経験不足の若造』が上に立つことに対する反発も多かったのだが、その後に来たのがフランシスだった。戦場も知らない身贔屓の激しい若造よりは、十歳の頃から共に前線で戦ってきた公正な若造の方がマシだと思われるようになったらしい。光の巫女を得られたことを別にしても、ユリンに飛ばされていた三ヶ月は無駄ではなかったということだ。
「猊下」
マホガニーの重厚な家具が入ってきた者を威圧するような雰囲気の執務室で、報告書をまとめ始めていたランベールの元に、出勤したばかりの秘書がやって来る。
「お客様がお見えになっております」
来客の名を聞いて、ランベールはすぐに案内するよう秘書に命じた。
やがて秘書に案内されて、聖騎士団の団服に身を包んだ壮年の男が執務室に入ってくる。ランベールが人払いを終えると、その男は深く腰を折ってかしこまった。
「久しいな、フェイル」
「ご無沙汰しておりました」
仕事上のやりとりは何度かあったものの、直接顔を合わせるのはほとんど半年ぶりだ。もっとも、双子のようによく似たエリックと毎日顔を合わせているせいか、フェイル自身とランベールが幼馴染みという気が置けない間柄であるせいか、あまり久しぶりだという感覚はないのだが。
「こんな時間に来るとは、何か緊急の用事でもあったか」
「いいえ。個人的なお話を伺うには、勤務時間外の方が適当かと存じまして」
フェイルは顔を上げ、エリックとそっくり同じ表情で微笑した。
「フィラさんのご様子はいかがでしょうか。私の部下も気になっているようで、様子を聞いてこいとうるさくて」
「ああ……セレスティーヌとも仲良くやっている」
リタが消滅《ロスト》してから沈みがちだったセレスティーヌが、フィラが来てからは生き生きとしていることを思い出しながら、低く答える。
「それはようございました」
フェイルは満足そうに微笑み、じっと探るようにランベールの瞳を覗き込んだ。
「旦那様はどう思われますか」
「どう……か」
フェイルが答え合わせをしたいと思っているのだろうことは何となく予測できる。ならば、偽りなく答えることにためらいは覚えなかった。
「政略結婚とわかっていても、あの少女を見ているとそれを忘れそうになる。素直な良い娘だ」
「同感でございます」
フェイルの表情がほっとしたように緩む。感情の読みづらい男ではあるが、フェイルがジュリアンを心から心配してくれているということは、ランベールはずっと昔から知っていた。
「あの少女がリラの力を受け継ぐことになったのは、ジュリアンにとって幸運だったと思うか」
今度は自分の方が答え合わせをしたくなって、フェイルに意見を求める。
「僭越ながら、心よりそう思っております」
静かに頷くフェイルに、ランベールは小さくため息をついた。
「ジュリアンにはつらい運命を背負わせてしまった。このような時勢だ。そろそろ解放してやりたいとは思うのだが」
「それは無理でしょう」
思わず漏れた弱音を、フェイルはきっぱりと断ち切ってくれる。
「坊ちゃまはもうご自分で決断されています。今さら止められるはずもございません。それに……」
一瞬迷うように視線を泳がせ、フェイルは俯いた。
「……それに、旦那様の親心一つで止めて良い事柄でもございますまい」
言いにくいことを言わせてしまった。フェイルの言葉を聞きながら、苦い後悔を覚える。
「そう……だな。失言だった」
自分の顔が苦しげに歪んでいるのを感じながら、考える。甘えが出たのだと。
フェイルの父親はやはりレイ家に仕える執事で、一つ年上のフェイルはランベールとは兄弟のように育てられた。その感覚が、今でも少しだけ残っている。
「いえ……」
誰よりもランベールをよく知る男は、息苦しそうに視線を足下に落とした。
「残り少ない日々をせめて幸せにと、願うことしか出来んのだな」
鈍い痛みを堪えるように、眉間に手を当てて背もたれに寄りかかる。
「情けない話だ」
小さく呟けば、フェイルが言葉に迷う気配がする。レイ家の当主がこのざまでは、本当に情けない限りだ。
「フィラ・ラピズラリは、リタの……親友だと言っていたな」
話題を無理矢理切り替えると、少しだけほっとした気配が漂ってきた。
「カイ・セルスの証言が確かならば、そういうことになります」
「いや、事実だろう」
顔を上げると、確信があるのかとフェイルの瞳が問いかけてくる。
「リタから聞いたことがある」
「フィラさんのことを、ですか」
ならば何故光の巫女を探すときに情報を提供してくれなかったのかと、言外に言われているようだった。
「ああ、今思えば、というところだが」
苦笑しながら、幼い頃のリタのことを思い出す。
光の巫女として光王庁に上がったリタは時折実家に帰ることを許されていた。ランベールが帰ってきたリタに、親しい人間は出来たのか、と尋ねたのは、彼女が十一歳になったばかりの頃だった。応接室のソファに座ったリタは、心底不満そうに頬を膨らませていた。
「できるわけないじゃない。みんな馬鹿。汚い大人と馬鹿ばっかり!」
光王庁で顔を合わせたときには光の巫女と神祇官という立場でしか話せない父に、リタはそのときばかりは遠慮なく毒を吐き出した。
「お前がそのように高慢なことを言っていれば、友人など出来るわけがない」
「良いの。あんな奴らと友だちになれなくても、私には理想の親友がいるから」
そう言ってリタは、夢見るようにわざとらしく両手を組んで、彼女が思う理想の親友像とやらを話し始めた。
「優しくて素直で可愛くて、ピアノと料理が上手くて世界中を旅していて、旅先の話を私に教えてくれるような子」
「そんな人間と知り合う機会があったのか」
妙に具体的な条件に、不安になったことを覚えている。
「あるわけないじゃない!」
けれど不審そうなランベールの問いを、リタは不機嫌そうな笑い声を上げながら否定した。
「ただの冗談、っていうか妄想よ。あーあ。馬鹿みたい」
笑いながら泣きたがっているようだったリタに、そのときランベールは気の利いた言葉一つかけてやることが出来なかった。リタの回りにいる人間が、光の巫女に政治的な価値を見出して取り入ろうとしてくる人間か、光の巫女とはほとんど口も聞くことが出来ない護衛の騎士しかいないと知っていたからだ。親に似て不器用な彼女が友人など探せるわけがない。
「どうして私なんかが光の巫女なんだろう」
ぽつりと投げ出された疑問は、今でもランベールの心の奥に撃ち込まれた弾丸のように、深く食い込んだまま居座っている。
「リタが一番荒れていたのはあのときだったが、それから後は徐々に落ち着いていった。もしかしたらフィラ・ラピズラリの影響だったのかもしれないな」
不機嫌なばかりだったリタが歴史や地理に興味を持ち、ピアノを習い始め、ほとんど顔も覚えていない兄と接触を図ろうとし始めたのはそれから数年以内のことだった。
「それは……マルグリット様にしかおわかりにならないことですが」
複雑そうに口ごもるフェイルに、ランベールは苦笑する。
「そうだな。私がそう思いたいだけなのだろう」
リタへの贖罪を、フィラに対してすることで、救われたいと願っている。利己的なその感情を、あの少女にはどこかで感じ取られているような気がしていた。