第二話 私にできること
2-3 硝子の日々
「何でも良いんじゃないか」
応接間のソファでコーヒーを飲みながら、ジュリアンはいささかうんざりした表情をしていた。それも仕方のないことだ。たまたま立ち寄ったときにちょうどウエディングドレスのデザイナーが来ていたので、問答無用で巻き込まれたあげく既にコーヒー二杯分付き合わされているのだから。
「何でも良くないのよ」
幼子に言い聞かせるような口調でたしなめたのは、部屋の向こうでデザイナーの女性と話し込んでいたセレスティーヌだ。
「……お前が好きなのを選べば良いだろう」
母親の説得をあっさりと諦めたジュリアンは、隣でティナと一緒にカタログを覗き込みながら唸っているフィラに小声で言う。
「好きなのと言われても……自分で着ることを考えると」
さっきからずっとカタログを矯めつ眇めつしていたフィラは、ぺらぺらとページをめくり、いくつか目星をつけておいたドレスから一つを選んで指差した。
「じゃあ、これはどうですかね」
「……地味だな」
ちらりと見ただけでそう判断されて、フィラはこれをどんな状況で着なければならないのか考え直す羽目になる。
「……そうだった。派手な人が隣に立つんだった……」
「誰が派手だ。失敬な」
力なく肩を落とすと、さっきから不満そうだったジュリアンの顔がさらにしかめ面になった。でも別に嫌がらせで言ったわけではなく、正直な感想だ。
「派手じゃないですか。自覚ないんですか?」
見慣れてしまったので忘れがちだけれど、ジュリアンの容貌は華やかだ。いかにも地味な自分が隣に立つことを考えるとまた憂鬱さが増す。
「ドレス着てればお前の方が目立つだろ」
投げやりに呟かれた言葉のあんまりなわかってなさに、フィラは呆れるより先に驚いた。
「そんなわけないですなら!」
「なまってる。……こっちは? さっきのと似てるだろ」
テーブルの上いっぱいに広げられていたカタログの中から、ジュリアンが適当に一つ指し示す。確かに形や清楚な雰囲気は似てるけれど、さっきフィラが示したものより装飾が多くて豪華そうなつくりだ。
「これは……ドレスに負けそうな気がします……」
確かに光の巫女のイメージには合うかもしれない。例えば以前ユリンで見た光の巫女――アースリーゼならば、きっと見事に着こなせるし似合うだろう。偽物の巫女だとは言うけれど、容姿も立ち居振る舞いも雰囲気もフィラより遙かに本物っぽいのだ。彼女がこれを着てジュリアンの隣に並んだら、間違いなく一幅の絵画の如く見栄えのする光景になると思うけれど、その位置に自分が立つことを考えようとすると脳が思考を拒否する。どう考えても滑稽な結果しか待っていそうにない。後でリサやエセルやモニカと一緒に笑い話にしてしまえれば良いのだけれど、どうもそんな気楽な行事とも思えなくて、フィラはだんだん泣きたくなってきた。
「平気だろう……似合うんじゃないか、たぶん」
女性の服装になどまったく興味なさそうな人がカタログとフィラを見比べながら適当な意見を述べてくるが、もちろん信じられるわけがない。
「試しに作ってみて後で調整してもよろしいんですよ」
フィラがどう答えたものだか迷っている間に近寄ってきたデザイナーが、にこにことカタログを覗き込む。
「ああ、これなら似合いそうですわね」
「本当ね。良いんじゃないかしら」
後からやって来たセレスティーヌとデザイナーがにこやかに「清楚な雰囲気が引き立ちそうで」だの「可愛らしさを引き出せるように」だのと鳥肌が立ちそうな会話を始めてしまったので、フィラは心の底から逃げ出したくなった。この空気を終わらせるには滑稽な結果が待っているとわかっていてもこう言うしかない。
「あの……じゃあ、それで」
というような会話をしたのが二週間ほど前のことだ。その後も式の次第や儀式の手順を勉強したり、身を清める儀式やエステにわけもわからず連れて行かれたりと忙しい日々が続いた。といっても、本番でもそれに先立つ数々の儀式でも、フィラがするべきことのほとんどは背筋を伸ばして神々しい表情(それが難しいのだが)をして座っていることだけらしい。結婚式の手順も、光王がミサをあげ、ジュリアンが光の神の化身である巫女に忠誠を誓い、フィラがそれを受け入れるだけで終わるようだった。誓いのキスだの指輪交換だのといった小っ恥ずかしい儀式がないということが判明したときには、フィラは心の中で八百万の神々に感謝と拍手喝采を捧げたものだ。
(儀式はお芝居、これは衣装、私は役者、全部演技……!)
仮縫いが終わったドレスを着せられてデザイナー二人に全方向からのチェックを受けながら、フィラは必死で自分に言い聞かせていた。そうとでも言い聞かせていなければ逃げ出したくて仕方なくなるのだ。ここしばらく、そんな状態が続いていた。
「フィラ、聖騎士の皆さんがジュリアンと一緒に来てくれたわ」
シルエットや形のバランスを見ながらどこを調整するか話し合うデザイナー二人に囲まれてがちんこちんに固まっていたフィラに、応接間にお茶を持って入ってきたセレスティーヌが声をかける。
「聖騎士の……?」
「ええ。ほんの三十分くらいだけれど、みんなで昼休みに抜けてきたんですって。ランティスさんとリサさんとダストさんと、僧兵のエセルさん、モニカさん。本番はゆっくり見られないだろうからって仮縫いを見に来たんだそうよ」
ジュリアンが今日仮縫いだなどと言うはずがないから、きっとエリックとフェイル経由でリサ辺りに情報が伝わったのだろう。
セレスティーヌはお客を入れても大丈夫かとデザイナーの二人に尋ね、もう作業は終わったから大丈夫だという返事を得るとすぐに廊下へ出て行った。デザイナーの二人が部屋の隅に道具を持って移動して間もなく、廊下の向こうからリサとエセルとモニカの賑やかな話し声が聞こえてきて、すぐに扉が開かれた。
「フィラちゃ〜ん! おっ久っしぶり〜!」
先頭に立って入ってきたリサが、駆け寄ってきてフィラの手を取り、大きく揺さぶりながら楽しそうに言う。
「フィラさんマジ綺麗! 見違えちゃったよ〜!」
「本当、予想はしてたけど、いや、ちょっと予想以上だった。なんか綺麗になった?」
その後ろから入ってきたモニカとエセルも口々に褒めそやすので、フィラは恥ずかしすぎて消えてなくなりたくなった。
「すげえ……つか、お前が選んだんだよな?」
「あれが選んだ内に入るならな」
さらに後ろからは、目を丸くしながら入ってきたランティスと無理矢理引っ張られてきたらしく不満そうな表情のジュリアン、そしてそれに負けず劣らず仏頂面のダストが現れる。
「いやあ、お前こんな才能もあったんだなあ」
「……どういう意味だそれは」
ばしばしと背中を叩くランティスの腕を迷惑そうに押し返しながら、ジュリアンは質問というよりは苦情に近い調子で言った。
「いや、すげー似合ってる。意外すぎる。お前がちゃんと女の服選べるなんてお兄さんは感動だ! 成長したなあ! 学生時代からお前とカイとアランに関しちゃこいつらもうダメだとしか思ってなかったんだけどよ!」
あからさまに迷惑そうな様子に気付いていないわけはないのだが、ランティスはまったく気にする素振りを見せない。また遠慮なく背中を叩かれて、ジュリアンは心底嫌そうに顔をしかめた。二ヶ月半ぶりでも相変わらずな聖騎士団の面々に、フィラも少し肩の力が抜けてくる。
「ほらほら、ダストもそんなとこいないで近くで見なよ〜」
入り口近くで立ち止まっていたダストを、リサがぐいぐいと腕を引っ張ってこちらに連れてきた。
「ちょっと、放してくれない? 自分で見るから」
まったく、とため息をつきながら自分の腕を取り戻したダストは、威圧するように真正面からフィラを見下ろす。しばらくじっと見つめた後で、ダストはおもむろに口を開いた。
「右に百八十度」
「は、はい?」
何のことだかわからなくて思わずドレスをきょろきょろと見下ろすフィラに、ダストは眉根を寄せる。
「右に百八十度回転して後ろ姿を見せろと言っているのよ」
「はいっ」
その迫力に押されるようにぐるりと方向を変えると、ジュリアン以外の全員の視線が興味深そうに背中に注がれるのを感じた。
「さらに右に九十度」
「はい!」
言われるままに方向を変え、注がれる視線にじっと耐える。
「……ありがとう。なかなか良いわね。私やっぱり男になれば良かったかしら」
「ちょっと待ったー! そういう目線だったら今のはセクハラとみなす!」
真顔で言い切ったダストに、すかさずリサがツッコミを入れた。
「どうしてそうなるのよ」
「女同士なら許されることも片方が男なら許されないこともある! ジュリアンやランティスが今のやったらぶん殴るっしょ?」
「……私なら焼き払うけど」
いきなり引き合いに出された男二人は微妙な顔で黙り込む。ランティスは「おっかねー」と言いたげな顔をしているが、ジュリアンは「やるわけないだろ」とでも言いたそうだ。それを口に出さないのは、矛先が自分に向くのを避けたいからだろう。
「あ、そうだ! せっかくだから写真撮りません? みんなで一緒に」
微妙な空気を追い払うように、モニカが両手を打ち合わせた。
「俺はいい」
「主役が馬鹿言っちゃいけないなあ」
そそくさと逃げようとしたジュリアンをすかさず捕獲して、リサがフィラの隣まで引き摺ってくる。離れたところで持ってきた道具や型紙を片付けていたデザイナー二人に、携帯端末を持ったモニカが駆け寄っていく。
「撮影お願いして良いですか?」
「ええ、もちろんよろしゅうございますよ」
デザイナーの一人が携帯端末を構え、モニカがこちらへ戻ってくるまでの間に、やはり逃げようとしていたダストも捕獲されて並ばされていた。ノリノリで笑顔を作るリサとエセルとモニカとランティス、不機嫌そうなダスト、何か諦めきったような表情のジュリアンというテンションもモチベーションもバラバラのメンバーに囲まれ、するりと腕に飛び乗ってきたティナを両手で抱えて、フィラは戸惑いながらレンズを見つめる。
「はい、じゃあ撮りますよ」
合図の声から一瞬おくれてシャッター音が響いた。
「ありがとうございまーす」
モニカが駆け寄って携帯端末を受け取り、すぐにそれを追いかけたリサとエセルが一緒になってモニターを覗き込む。
「おお、よく撮れてる。各人の性格も良く出てる」
「後でカイさんとかフェイルさんとか欠席者の写真をこう、上の方に丸窓で合成してですね」
「その後で皆さんに送りますから」
「お、ぜひよろしく〜」
楽しげに話し合う三人を眺めながら、ジュリアンが深くため息をついた。
「そろそろ戻る時間だ」
「えっ、もう!?」
物足りなさそうに顔を上げたリサに何か言いかけたジュリアンが、ふと動きを止める。一体何があったのか、一瞬でジュリアンの中の緊張が膨らんだことに気付いたフィラも、思わず身体を強張らせた。
「……任務だ」
気がつけば、他の聖騎士たちも同じように硬い表情でジュリアンに注視している。
「全員、可及的速やかに光王庁作戦本部へ戻る」
一瞬で『聖騎士団団長』の顔に戻ったジュリアンが冷静な声音で告げるのを、フィラは呆然と見上げていた。
「了解!」
ランティスとリサとダストが声を揃え、エセルとモニカも姿勢を正す。
「任務……?」
思わず誰にともなく問いかけたフィラを、隣に立っていたジュリアンが見下ろした。
「天魔の掃討だ。規模はまだわからないが、最低でも三日は戻らない」
「わ、わかりました。あ、あの……」
扉の方へ歩き出そうとしたジュリアンを引き留めるように声をかける。時間がないとわかっていても、どうしても言わずにいられなかった。『聖騎士団団長』ではないジュリアンに。
「あの……ジュリアン」
柔らかな声が名前を呼ぶ。その声が呼び起こした戦慄のような感覚に、ジュリアンは思わず足を止める。不快だと思ってもおかしくない感覚だったはずなのに、なぜかそれをもう一度確かめたくなった。
「気をつけて」
振り向けば、どこか切羽詰まったような瞳が、じっとジュリアンを見上げている。
「いってらっしゃい」
「ああ、行ってくる」
つられるようにそう返してから、それが帰還を約束する言葉だと気付いた。
「……待ってます」
僅かな躊躇いの後で、フィラはそう言って微笑んだ。
水の神器の輸送任務に、そうとは知らずにジュリアンを送り出したときと同じ、柔らかで優しくて、そしてどこかに愁いを含んだ笑顔だった。