第二話 私にできること
2-4 零れていくもの
中央省庁区から車で半日ほどの距離にある居住区が天魔の群れに襲われた。
最初に入ってきた情報はそれだけだった。通信の遮断状況、各地に設置された魔力観測器からのデータを分析し、それがただの群れではないことを知る。居住区内部で最初の天魔が暴れ出し、市街が混乱に陥った隙を突いて結界が破られ、群れの本体が突入してきた。明らかに知性を感じさせる行動と統率。群れを率いているのは、ヒューマナイズの進んだ荒神だと考えて間違いないだろう。同じようにカルマの襲撃を受けたユリンが陥落しなかったのは、結界管理者として能力の高いジュリアンがいたことと、聖騎士団が戦力として駐留していたからだ。例えカルマを倒せていたとしても、結界が崩壊して天魔の大群が押し寄せていたら、ユリンの住民を守り切ることは難しかっただろう。
そして今襲撃を受けている集落には、専門の結界管理者はおらず、戦力として駐留していたのも地元の自警団と中央省庁区から派遣された僧兵団の一隊だけだった。既に結界が破られているとなれば、ことは一刻を争う。聖騎士団は他の地域で天魔の襲撃があった場合に備えてダストとカイとフェイルを中央省庁区に残し、ジュリアン、ランティス、リサの三人に治療部隊《メングラッド》のシリイと僧兵団を加えて現場に急行した。天魔に包囲された居住区に緊急用の地下道を使って侵入し、住民が避難を終えるまで天魔を食い止める。圧倒的な質量で迫ってくる天魔の群れを前にしては、討伐、などと言っていられない。
既に居住区が襲われている以上、情報収集にも時間はかけていられなかった。可能な範囲で敵の戦力とそれに適した陣形や魔術を策定し、すぐに突入をかける。情報収集が不十分な状態で戦闘状態に移行する事態は避けたかったのだが、余りにも時間が足りなかった。それでもユリンへ異動する前に構築していた情報収集用の魔力観測器と情報ネットワークが機能していればまだ良かったのだが、一部のネットワークが荒神に干渉されて偽のデータを流していた。定期メンテナンスの簡略化により見落とされていたらしい。
それが判明したのは、天魔を統率していたはずの荒神を倒した後のことだった。荒神を殲滅しても天魔の統率は乱れず、もはや元となった生物の原型すらわからない異形の大型天魔が修復途中だった結界と崩されかけていた城壁を破って侵入してきた。ベヒモスに例えられる四足歩行の角と鎧を纏った天魔は、正方形のコンクリートの塊のような住居を簡単に蹂躙していき、その天魔が破った結界と城壁の穴から、無数の小型天魔が侵入してくる。どこかで爆発音が轟き、炎と噴煙が暗い夜空を焼き焦がすように吹き上がった。
「ここまでだな……」
大型天魔の吼える声に応えて、真っ黒な空に不気味な幾何学模様の光が走り、市街地へ雷が落ちる。最前線となった高台から、市街地を舐めるような炎を見下ろしながら、ジュリアンは小さく呟いた。
まだ逃げ遅れた人々はいるだろう。しかし、無数の天魔の群れと本能的に強力な魔術を操る大型天魔に対抗しつつ荒神の襲撃に備えるには、準備が不足しすぎていた。ほとんど崩壊していた結界を無理矢理再起動させたせいで、ジュリアンもほぼ限界まで魔力を『気化』させてしまっている。これ以上長居すれば、撤退も不可能になってしまう。
「総員、撤退を開始しろ。殿《しんがり》は私とランティスが務める」
通信機で作戦に従事している全員に通達し、次いで後方で支援しているリサとシリイに退路を確保するための援護を命じた。それからジュリアンはベヒモス型の天魔に向き直る。周囲の僧兵が援護魔術の準備に入る気配を感じながら、彼我の戦力を探った。まだ遠くにいる大型天魔は、周囲に死と破壊をまき散らしながら真っ直ぐこちらへ向かっている。恐らくは主戦力であるジュリアンとランティスにぶつけるために荒神が呼び出したものだ。
「この辺りにあんな大型が隠れていたとはな」
ランティスが剣を構えながら呟く。
「あの坊ちゃんは気付けなかったのか。この辺りの視察は引き継ぎ直前にやってたはずだろ?」
「フランシスは戦闘向きじゃない。実戦経験も不足しすぎている」
僅かな違和感を――ほんの微かな嫌な予感としてしか感じられないものを追いかけ、捉える。空振りで終わることも多いが、そんなものでしか予覚できないものが、天魔との戦いでは確かにある。知能の高い荒神が注意深く隠しているのならなおさらだ。ジュリアンでも、この大型天魔の存在を事前に察知できた自信はない。人間相手の頭脳戦や政略に長け、魔術師としても高い実力を持ったフランシスであっても、足りない部分はどうしても出てくる。
話しながら自分の魔力を探り、あとどれくらい魔術を使えるか計算した。竜化症への影響を考えれば、規模の大きい魔術は後二発が限界だろう。ランティスにはまだ余裕があるが、楽観できない状況であることは明白だった。
それに今、まさしく、ジュリアンは嫌な空気がぴりぴりと肌を撫でるのを感じていた。統率の崩れない天魔たち。はっきりとした意志を感じさせる大型天魔の動き。
(……いる)
天魔の吼え声に呼応するように、またその周囲に火柱が立ち上がる。建物の崩れる音、天魔の叫ぶ声、炎の爆ぜる音。それに混じって聞こえるのは、人の悲鳴だろうか。押し寄せる天魔の群れの前では、人の命は余りにもたやすく失われてしまう。
「後退しながら足止めする! 退路を死守しろ!」
ランティスの号令に、歴戦の僧兵たちが野太い鬨の声で答える。同時に放たれた魔術が何重にも結界を構築し、大型天魔が吐き出した火球を弾いた。結界を破壊しようと動く小型天魔の迎撃を僧兵に任せ、大型天魔を守る結界の綻びを探る。同時にこの天魔の群れを統率する荒神の気配を探り、奇襲に備えた。恐らくは大型天魔とぶつかり合った瞬間を狙ってくるはずだ。
攻撃魔術の射程圏内に大型天魔が入る。
「ランティス」
大型天魔の討伐はジュリアン一人でも何とかなるだろうが、荒神の干渉があった場合に対処するには使える魔力が足りない。
「おう!」
ランティスは簡潔に答えると、荒神を警戒しながらジュリアンの援護に入った。四年前に聖騎士団に入ったランティスは実戦経験は不足しているが、天性の運動神経の良さと頭の回転の速さ、基礎理論からしっかりと刻み込まれた魔導技術の確かさであっという間に主戦力になってくれた。戦場とは無縁だった大学時代の友人をこの道に引きずり込むことに抵抗はあったが、あの頃は手段を選んではいられなかった。
改めて目の前の天魔に集中する。あの大きさの天魔を粉々に吹き飛ばすほどの魔力は残っていない。対抗する手段としては、天魔を天魔たらしめている『核』を破壊するしかない。現界と神界を繋ぎ、神々の怒りをその身体に伝える結節点となっている『核』を。
天魔の核がどこにあるのか、その位置を探る。隠されてはいるが、知能の低い天魔の魔術ならば看破できる自信はあった。
集中して魔力の流れを見る。歪んだ世界律、渦を巻く原始的な魔術式、複雑なそれらを一つ一つ読み解いて、源へと遡る。五秒ほどで解析は終わる。犀を思わせる巨大な角の下。幾重にも構築された防御結界とほとんど装甲のような表皮に守られた、その額の奥だ。『核』の位置をその場にいる戦闘要員全員に暗号化された作戦データと共に立体画像データで送信し、小型天魔の対応を任せる。
そうしてからジュリアンは、大型天魔に向かって走った。群がる小型天魔が、僧兵やランティスの放つ攻撃魔術に撃たれて消えていく。十五メートルほどの高さがある天魔の額によじ登るのはほぼ不可能だ。まずは天魔の足を攻撃し、地面に倒す必要がある。遠距離魔術は結界に阻まれて到達しないので、自ら結界を破りながら斬り込み、近距離から右前足に攻撃を叩き込む。巨体を持て余しているような天魔の動きは鈍く、踏みつけようとする動きを避けながら攻撃を繰り出すのはそれほど難しいことではない。
魔術を乗せた剣で数回切りつけると、ぐらりと天魔の身体が傾いだ。そのまま左前足にも魔術を放つと、完全にバランスを失った巨体が顔面からつんのめるように倒れていく。押し潰されないように素早く距離を取り、地響きと砂煙を上げて倒れ込んだ天魔がもがき始める前に再び駆け寄る。倒れてもなお頭上にある天魔の額に剣を向け、真っ直ぐに魔術を叩き込んだ。魔術で強化された装甲が吹き飛び、半分竜化したどす黒い肉がえぐられる。その奥に確かな手応えを感じて、周囲の肉を爆破するようにさらに強力な魔術を叩き込んだ。あと一回。頭の中でカウントしている間に、天魔を天魔たらしめている『核』が剥き出しになる。無防備になったそこへとどめを刺そうと魔術を構築し――
何か、気配のようなものを感じた。
罠だ。
とっさにそう思った。天魔の核が崩れる。虚ろな眼窩の仮面のような顔が中から現れる。
荒神。その認識と比例するように、隠されていた魔力が瞬く間に膨れあがる。
天魔の核に隠れていた荒神から、間を置かずに天魔の体液を錐のように集めた攻撃が放たれた。あまりにも距離が近い。即座に構築しようとした結界魔術に、それよりも速いスピードで荒神が構築した別の魔術が絡みついた。自らの意志をダイレクトに世界律に反映できる神々と魔術式を構築する必要がある人間では、速度では勝負にならない。中途半端にしか構築できなかった結界では、攻撃を受け止めきれない。
「くっ……」
飛び退きながらさらに魔術を構築する。その瞬間、ちりりと右の首筋を何かの気配が灼いた。もう一体いたのか、という思考が形になる前に、ランティスの叫び声が聞こえた。言葉は聞き取れない。同時に容赦のない勢いで突き飛ばされる。条件反射で受け身を取り、立ち上がると同時に魔術を放った。魔力容量の限界を超えたせいで、自分の存在が軋むのを感じる。これ以上の魔術の行使は消滅《ロスト》に繋がるだろう。天魔の核から現れた荒神は、ジュリアンの放った雷撃に核を破壊されて霧散した。最後に解放された荒神の魔力が、僧兵たちが構築していた結界を破壊していく。再構築しようとする魔術も圧倒的な数の天魔に妨害され、侵入を阻むことが出来ない。結界の外で足止めされていた天魔たちが押し寄せてくる。
「ジュリアン! 逃げろ!」
叫ぶランティスの姿が、殺到する天魔たちの影にかき消される。
「俺もすぐ行く!」
気休めだとわかっていた。選べる道は二つしかなかった。ランティスを見捨てて生き延びるか、彼の退路を確保するために魔術を使って消滅《ロスト》するか。
この一瞬で、選ばなければならない。どちらが生き、どちらが死ぬのか。
ここで死ぬわけには行かない。
せっかく希望を、手に入れられるところまで来たのに。
生存へ繋がる地下通路はすぐ後ろにあるのに、それが果てしなく遠く感じた。天魔のわめく声、僧兵たちの怒号。
「撤退しろ! 走れ!」
僧兵たちに指示を出しながら、地下通路の入り口へ走る。走りながら、ランティスの気配と、地下道の奥からこちらに駆けてくるリサの魔力を探る。リサならばまだ魔力をそれほど消耗していない。間に合え、間に合えと祈りながら、焦燥ばかりが募る。
背後から獣の断末魔のような雄叫びが上がった。あまりにも獣じみたそれがランティスの声だと気付くのに、少し時間が必要だった。気付いた瞬間、足が止まりそうになる。戻れと感情が命じる。
――駄目だ。
理性で感情を押し殺し、無理矢理地下通路の方へと足を動かす。今戻っても、自分には助けられるだけの魔力は残っていない。
――いや、消滅《ロスト》するつもりで全力で魔術を叩き込めば、あるいは助けられるかもしれない。
生き残るつもりがないのなら。全ての責任を放り出し、自らに課せられた役目も放棄するというのなら。
そうしたら、助けられるかもしれない。そんなことが出来るはずがない。自分を信じてついて来た者たちは、誰もそんな結末は望まない。ランティス自身すらも。
ここで死ぬわけにはいかない。そのために選べる道は一つしかない。選べる道は――
振り向くことなく、最後の数メートルを駆け抜ける。
「ジュリアン! ランティスは!?」
地下通路から飛び出してきたリサが、こちらに駆け寄りながら怒鳴った。
「向こうだ! 援護を!」
「フィーネ! 行くよ!」
叫びながらリサは走る。水の神器に封じ込められていた、水で出来た乙女の彫像のような姿の神が彼女の後に続く。獣じみた叫びはもう聞こえない。地下通路に駆け込み、用意されていた魔竜石の魔力を使って結界を再構築する。少なくともこの通路に天魔を入れるわけにはいかない。地下通路の外では、リサの魔術で水が踊っている。切り裂かれた天魔の血を巻き込んで、攻撃に使われる水はどんどん黒ずんでいく。周囲の天魔が魔術に押し返された一瞬の隙に、リサはランティスに駆け寄り、ぼろきれのようになったその身体を抱え上げる。そのままフィーネに援護を命じ、自らに筋力強化の魔術を施してランティスを背負ったまま地下通路に駆け込んだ。
「通路を閉鎖しろ!」
命じると同時に出口に近い方から次々と魔術で強化されたシャッターが降りていく。奥へ走りながらリサに替わってランティスを背負おうとして、彼の左足が根元からなくなっていることに、右腕がおかしな方向に捻れてしまっていることに気付いた。何かが麻痺してしまったような感覚に、言葉が何一つ出てこない。ジュリアンはただ機械的にランティスを背負い、シリイが待機している簡易治療施設へ全力で走った。
それでも被害は少ない方だと、ほとんどの僧兵が認めた。既に天魔に蹂躙されていた居住区から保護された住民は三割にも満たなかったが、この状況では一人も助からなくても不思議ではなかった。中央省庁区から派遣された聖騎士団と僧兵団の被害は死者六名、重傷者二名、軽傷者十八名。駐留していた僧兵団と自警団がほぼ全滅していることを考えれば、奇跡と言っても良かった。
「何の慰めにもならないけどね」
光王庁へ戻る輸送車の荷台で、リサは苦々しくそう言い捨てた。死亡した六名は全てランティスと同じ天魔の群れに喰われた。最後に出てきた荒神はランティスの攻撃を受けて消滅しており、それから数時間もしないうちに天魔の群れは統率を失ってバラバラに去って行った。
「それにしても荒神が三体も連携してるなんてきな臭いよね。せっかくカルマを退けたってのに」
強大な荒神一体よりも、大規模な天魔の群れと魔術を扱える数体の荒神の方が厄介だ。カルマにどうにか対処できたのも、ほぼ単独のカルマに四人で挑んだからに過ぎない。数が増えるほど相手の手数は増え、結界の維持が難しくなる。防御結界がなければ人は簡単に致命傷を負わされてしまう。人間の身体は脆い。
「魔力観測器とネットワークの点検と補修を早急に完了しなければな」
荒れた道を走る車に揺られながら、どこか感情が麻痺したような状態で呟く。
「群れを動かしていた荒神は全て獲った。だが、これで終わりとは思えない」
居住区内部に最初の天魔を手引きした者がいる。それは恐らく、ジュリアンが戦った三体の荒神とは別の者のはずだ。
「敵が……荒神なら良いんだが」
何か言いたげにこちらを見たリサは、結局口を開くことなく目を逸らした。居心地の悪い沈黙を乗せながら、輸送車は中央省庁区を目指す。