第二話 私にできること
2-5 Unforgettable
報告書を作成し、軍葬式典に出席し、遺族への弔問を済ませ、周辺地域の軍備を強化し、魔力観測器とネットワークの点検と補修計画を立て、人員を確保し、派遣する手続きまで全て済ませる頃には一週間が過ぎていた。そこでようやく寝る時間以外でプライベートな時間を確保出来たジュリアンは、光王庁付属の病院へ足を運んでいた。
「悪いな、俺が真っ先に引退することになるとは思ってなかったよ」
今後のことについていくつか打ち合わせを済ませた後、病院で一番広い個室のベッドに座ったまま、ランティスはそう言って苦笑した。もう治療は終わり、今はリハビリを始めているところだと、さっき主治医から聞いている。
「……すまない」
俯いて視線を逸らした。見るのが怖かった。ランティスの右足の左隣のシーツが、真っ平らにベッドに貼り付いているのを見るのが。
「気にすんな。今時の義足はすごいんだぜ。痛覚だってあるってよ。本物の足と変わらねえって」
問題はそこじゃない。身体に負った怪我よりも重大な問題が存在している。急激に発症した竜化症は、これから瞬く間にランティスを蝕んでいくだろう。聖騎士を引退したとしても、竜化症の進行を止められるわけではない。
「戦闘関係からは引退するが、フェイルのおっさんの手伝いなら出来るしよ。魔術が使えないからって開発が出来なくなるわけでもねえし。まだまだ口は出させてもらうぜ」
「ああ……よろしく頼む」
わざと明るい口調で話すランティスは、気にするなと言いたいのだろうが、そんなことは不可能だ。それでもランティスの気遣いをはねのけて許しを請おうとすることは、それはそれで甘えなのだろう。だからジュリアンは無表情のまま、そう言うしかなかった。
「……悪ぃ、そろそろ客が来る」
ジュリアンの様子を見てため息をついたランティスは、ふと時計に目をやってそわそわとし始める。
「客?」
ランティスの怪我は必要最低限の人間にしか知らせていない。ジュリアンの知らない客が来ると言うことは、ランティスが自分で呼んだと言うことだ。
「コ・レ」
小指を立てておどけてみせるランティスに、どうしても眉根が寄ってしまう。もちろん、彼女には知る権利がある。そしてジュリアンを詰る権利も。
「気にすんな。そして邪魔すんな」
ランティスは軽く言うと、猫を追い払うような仕草でジュリアンに退室を促した。頷いて退室しようとしたところで、すれ違いに小柄な白人女性が入ってくる。一礼して早足で通り過ぎていく栗色の髪をショートカットにした女性には見覚えがあった。学生時代に何度か見かけた、ランティスの恋人だ。
「ランティスっ!」
女性はよく響く声で叫びながらベッドに駆け寄る。その気配を背中に感じながら、廊下へ出た。
「よお、アリーシア」
「この馬鹿っ!」
ガツッという相当痛そうな音が響いて、ジュリアンは思わず足を止めてしまう。
「もう良いじゃない。もう、あたしは充分待った」
震える声の後に、呼吸を整えるような間。
「ランティス、結婚しよう」
次に聞こえた声は、もう震えてはいなかった。
「……俺から言うつもりだったのになあ」
聞いていてはいけない。そう思って早足でその場を立ち去ろうとする。
「かっこつけてないで、返事は!?」
その背を追いかけるように、アリーシアの怒鳴り声が聞こえた。
「イエス、マム!」
軍隊式の敬礼がついて来そうな返事だった。アリーシアが泣き崩れる声と、ランティスの「愛してる」という微かな声。早足で立ち去る背中に聞こえたのはそこまでだった。
充分離れたところまで来て、重い足を止める。やり場のない苛立ちが胸の中で渦を巻いていた。
「くそっ!」
拳を壁に叩き付ける。無意味な行動だとわかっていても、自分が制御しきれなかった。
また仕事に戻った光王庁の廊下で、ランベールと出会った。
「そろそろ落ち着いたか」
足を止めたランベールが、静かに問いかけてくる。報告はランベールの所にも行っているはずだし、魔力観測器とネットワークの補修のために技術者のチームも貸してもらっていた。聖騎士団の置かれている状況を、ランベールは手に取るようにわかっているはずだ。
「はい」
いつも通りに答えようとしたのに、少しだけ声が沈んだ。ランベールは何か逡巡するように顔を歪ませ、すぐにまたいつもの無表情に戻る。
「……一度、家にも顔を出してやれ。セレスティーヌが心配している」
「今日は……仕事が終わるのは深夜になります」
「エリックに伝えておく。明日の朝食だけでも良いだろう」
正直なところ、気が重かった。今は誰とも話したくない。いつも通りの態度など取れそうになかったし、そうでないところは見せたくない。それでもふと、あの家の自分の部屋ならば光王庁の殺風景な部屋よりは身体が休まるかもしれないと思う。
「わかり……ました」
そう答えた側から後悔していたけれど、ランベールは僅かにほっとしたように頷いた。
自分自身の感情と向き合うのを避けるように、休憩も取らずに仕事に没頭していたせいで、日付が変わる前には今日できることはほぼ終わってしまった。いくつか先に片付けておける仕事もあったが、集中力が切れてしまっている自覚はあったので、諦めて切り上げることにする。
いったん部屋に戻り、シャワーを浴びて団服を新しいものに変える。有事の際にすぐ出動できるように、四六時中団服を着ているせいで、私服などもう何年もしまい込んだままだ。
着替え終わった後でも、まだレイ家に行く気分になれず、往生際悪く部屋を眺め渡した。
ベッドとデスクと書棚とクローゼットという最低限の家具しか置かれていない部屋は、壁紙もカーペットもない無機質なものだ。以前魔術訓練場だった施設に後から壁を入れて、寝室とキッチンとリビングとシャワールームに分けはしたものの、ほとんど寝るためにしか使っていない。書斎を兼ねた寝室にはまだそれなりに物が置いてあるが、リビングなんて名前だけで家具一つ置いてはいない。かつてはここに閉じ込められているようなものだった。そんな場所を居心地良くしようなどと思えるはずもない。
普段は何とも思わないのに、今は何故かここにいるだけで憂鬱な気分になる。閉じ込められているわけでもないのに、牢獄にいるような。
だからと言ってレイ家に赴くのも気が進まないが、着く頃にはエリック以外は寝ているだろう。ジュリアンは一つため息をつくと、光王庁地下の車庫へ向かった。いつもよりゆっくりとしたスピードで運転しながら、レイ家の邸まで辿り着く。ふと思いついてティナの居場所を探ると、中央省庁区の外れの方に気配がした。またいつものようにふらっと散歩に出かけているのだろう。
玄関の前に車を止めると、すぐにエリックが出てきて車を預かった。
「奥様はもうお休みになっています。ご挨拶は明日に」
「ああ、そのつもりで来た」
短い会話だけを交わして、邸の中へ入る。静まりかえった邸の中に人の気配はなく、ただその静寂を壊さないように足音を殺して自分の部屋へと向かった。
人の気配や魔力を探る気力もなく、ぼんやりと考えにふけりながら歩いて行く。フィラが注意していなければ気付けない程度の魔力しか持っていないということは、頭の中から抜け落ちていた。部屋の前の壁に寄りかかって待っていたフィラに、気付くのが遅れたのはそのせいだ。
俯いたまま歩いていたジュリアンがはっと顔を上げたときには、彼女はもうほとんど目の前に立っていて、何も取り繕う暇がないうちに視線が合っていた。
「おかえりなさ……」
余程酷い顔をしていたのだろう、フィラの言葉は途中で不自然に呑み込まれた。呆然とこちらを見つめる彼女の頬から、みるみる血の気が引いていく。まるで彼女の方が痛みを堪えているようなその表情に、何もかもを見透かされてしまったような気がした。
そう思った瞬間に、ずっと張り詰めていたものがふつりと途切れる。全身から力が抜けていく。奥底に押し込めていた苛立ちや憎しみや、どろどろとした黒い感情が溢れ出しそうになる。
「ジュリアン、あの……」
柔らかな声が、名前を呼ぶ。今度はためらうこともなく。ごく自然に耳に馴染むその声に、努力の成果を見せるのがなぜこのタイミングなのかと、明らかに見当違いな怒りがわき上がった。今自分を支えているものは、聖騎士団団長という立場と矜恃だけだったのに、その声に惹かれるように醜い己自身が胸の奥から這い出そうとする。
「どうしてお前は……こんな時にばかり俺の前に出てくるんだ」
胸の内で何かが崩れていくような感覚に、心のどこかで恐怖を感じながら苛々と呟く。こんなのはただの八つ当たりだ。言い訳のしようもないほど理不尽なことを言っている自覚はあった。
「どうしてって……お母様が、あのままだといつまでも待っていそうだったから、私が代わりに」
壁から背中を離してこちらへ歩み寄ろうとしたフィラを、逆に壁際に追い詰めるように動いていた。そのまま彼女を閉じ込めるように、両手を壁につく。至近距離で視線が合う。フィラの困惑した表情が、泣き出しそうに歪む。自分が何故こんなことをしているのか、まったく理解できなかった。
彼女が待っていたのは、こんな人間なのか。親友を見捨て、部下を犠牲にして生き延びてきたくせに、それに苛立って何も知らない少女に理不尽な八つ当たりをするような。
フィラの目を見ていられなくなって、その肩に顔を埋める。一瞬怯んだように身体を強張らせたフィラは、けれどすぐにジュリアンの背に両腕を回した。何度も弱みを見せてしまった経験が、フィラにそれを求めていると思わせてしまったのかもしれない。
いや、たぶん、ジュリアンがそれを望んだからだ。彼女はそれに応えたに過ぎない。見透かされているような感覚が、不快なのかそうでないのか自分でもよくわからない。
「お前、あまり俺を甘やかすなよ」
自分で甘えておきながらつくづくろくでもない台詞を吐くものだと、自分で自分に呆れた。
「……良いじゃないですか。甘えるくらい。そのくらい、誰だって」
反論するフィラは、これも母親の代わりだとでも思っているのだろうか。甘やかすから、つけあがるのだ。こんなろくでもない男を。何度も何度も。
不意に凶暴な感情が去来する。笑い出したいような気分になる。
雰囲気が変わったのを感じ取ったのか、背中に回された指先が縋るように団服の布地を掴んだ。
怖い、と、言われているような気がした。
はっと我に返り、拳を握りしめて劣情を抑えつける。こんなものを、恐ろしいほどお人好しなだけの少女にぶつけたくはなかった。
一つ息を吐く。どうにか自制心を取り戻して身体を起こし、フィラに背を向ける。そのまま部屋のドアに手をかけた。
「あ……お、おやすみなさい」
どうにか絞り出したような声に「おやすみ」の一言すら返すことが出来ないまま、部屋に入る。
閉ざした扉に寄りかかり、そのままずるずると床に座り込んだ。
(最低だ)
暴かれたくないのに、さらけ出したくなる。弱さも、醜さも。
普段なら押さえつけておけるその欲求に逆らえないくらい弱っているときに限って、フィラが心配そうにこちらに手を伸ばしてくるものだから、なおさら。
それでも、フィラの人の好さを責めることなど出来ない。結局は自分で自制しなければならないことだ。
少し距離を置いた方が良いのかもしれない。これ以上関わらせたくない。
フィラが光の神の力を抱えている以上望むべくもないのに、そんなことを考えている。巻き込んだのは、自分だ。フィラのことも、ランティスのことも。その力が必要だった。他にどうしようもなかった。
そんな言い訳をしながら、取り返しがつかないほどに傷つけるのだ。大切な存在を。
自分自身の思考に、はっと息を呑んだ。
(大切……?)
呆然とする脳裏に、さっき間近で見たフィラの瞳がちらつく。ユリンの青空の下で微笑むその表情、柔らかく名前を呼ぶ声、側にいるだけで不思議と居心地良く感じられるその空気を――いつの間にか失いたくないと思っていなかっただろうか。
わかりきっている答えに、身体の芯が冷えていく。
片手で顔を覆い、立てた片膝に顔を埋めるように身体を丸める。出来ることなら何もかもを放り出して子どものように泣き叫びたかった。そんな感情を握りつぶすように、ただ拳を握りしめる。
この感情は危険だ。これはいつか、自身の判断を狂わせるかもしれない。巻き込みたくない。つらい思いもさせたくはない。けれどもしフィラがこのままリラの力を解放できなかったなら、そのときは。
冷酷な判断を下さなければならないはずなのに。
ジュリアンの部屋に続く扉が閉まった途端に、全身の力が抜けた。震えながらその場にへたり込む。
(どうして……?)
自分で自分の身体を抱きしめるようにしながら、フィラは自らに問いかけた。どうしてこうなったのか、まったく理解できなかった。頭の中がぐちゃぐちゃだ。触れられた感覚が、首筋を掠めた吐息の暖かさが、まだ鮮明に残っていて混乱を加速させていく。
今回の討伐の結果については、あまり詳しいことは聞いていなかった。聞いても教えては貰えなかった。襲われた居住区の住民で助けられたのは三割にも満たなかったということと、救助に向かった僧兵と聖騎士にも死傷者がいたらしい、ということ。新聞で見たたったそれだけの情報から、ジュリアンの内心を推し量ることなど出来るはずがない。
たぶん、ここにいてはいけなかったのだ。待っていて顔が見たいなんて、フィラ自身のエゴイスティックな欲望に過ぎなかった。何か出来ることがあるかもしれないなんて、思い上がりも良いところだ。一人でいたいと思っているときに、土足で踏み込んだりするから怒らせたのだ。
(どうしよう……)
それでもたぶん、ジュリアンは自分が八つ当たりをしてしまったと思っているに違いない。だから明日、朝会ったときに、謝ったりするのはきっと間違っている。何もなかったことにしなければならない。
しなければ、ならないのに。
――本当はもっと縋って、さらけ出してほしかった。一人で抱え込まずに、弱さを見せてほしかった。
でもそれを他の誰でもない自分に見せてほしいと思うのは、余りにも身勝手な感情だ。自分で自分の感情を怖いと思う。その感情を胸の内に押し込めるように、ぎゅっと両手を握りしめて、フィラは立ち上がった。
タイムリミットは一晩。明日の朝には、何事もなかったような顔をしていなくてはならない。間違えたのはフィラだ。そんなことで、ジュリアンにこれ以上負担をかけたくはなかった。