第六話 終わりの始まり

 6-2 月を見たひと

 結婚式の日に出て行ったときのままになっていた部屋へ戻り、寝る支度を調え終える頃には日付が変わりそうな時刻になっていた。服や勉強道具のようなフィラ個人の持ち物はほとんど光王庁のジュリアンの部屋に送ってもらったのだが、いつ泊まりに来ても良いようにいくつかの着替えや夜着はセレスティーヌが残してくれていたから、今日もほとんど手ぶらで来ることができた。
 ティナは今日もランティスのところだ。寝ようかとも思ったけれど、どうにも気分が落ち着かなくてバルコニーに出てみると、ちょうどジュリアンも出てきたところだった。
「奇遇だな」
 微かに目を見開いてそう言ったジュリアンは、ふっと微笑して手すりに寄りかかった。
「ここで話すの、久しぶりですね」
「そうだな。五ヶ月ぶりくらいか……」
 その時を思い出すように空を見上げたジュリアンが、ふと何か不味いものを呑み込んでしまったような表情になる。
「ど、どうかしました……?」
「……いや……あの時怒らせた理由が、今わかった」
 虚空を睨み付けながらものすごく不本意そうに、でもとても正直に告げられて、フィラは一瞬何のことだか考え込んだ後で思わず噴き出してしまった。
「……笑うなよ」
「す、すみません」
 手すりにつかまって肩を震わせながらどうにか謝ってみたけれど、笑いっぱなしでは説得力の欠片もない。本当はおかしさよりも嬉しさの方が勝っていたのだけれど、意識したらまた泣いてしまいそうだったから、きっと笑っている方が良いのだと思った。ジュリアンは深々とため息をついて、笑いの発作が治まるのを待っている。
 しばらく後、どうにか笑いを止めたフィラが滲んでしまった涙を拭っていると、ジュリアンはふと背後の庭とその向こうに広がる中央省庁区の街並みを振り返った。
「ここの夜は暗いだけだな」
 思わず零れたような小さな呟きが、遠くから聞こえる街の喧騒に吸い込まれていく。ジュリアンの視線を辿るように顔を上げたフィラも、中央省庁区を覆う平坦な色あいのドームの天井に目を細めた。
「星も月もないですもんね」
 思い出すのは、ユリンの城の塔で見た、満天を覆い尽くす星の群れだ。偽物だとわかっていても、ユリンの空は美しかった。
「ああ、そうだな」
 見えない星を探すように、ジュリアンは遠くの空を見つめている。何故か声をかけてはいけないような気がして、フィラはじっとジュリアンの意識がこちらへ戻ってくるのを待った。
「……本物の月を見たことがある」
 やがてぽつりと呟いたジュリアンは、まだどこか遠くの空に見えない何かを見つめているみたいだった。
「リタが最後に魔術を使ったときだ」
 フィラは小さく息を呑む。それはつまり、リタが消滅《ロスト》する原因になった魔術――竜化症を一気に悪化させるような大規模な魔術を使ったときのことだ。だってフィラが知る限り、その時までリタには竜化症を思わせる何かなんてなかった。
「あの時、聖騎士団はウィンドの協力を得て、力を取り戻しつつあったカルマの力を封印しようとしていた」

 なぜこの話をする気になったのか、自分でもよくわからなかった。思い出すたびに身の内に湧き上がる感情が恐ろしくて考えないようにしてきたが、忘れてはいけないことだともわかっていた。
 あの場にいて生き延びた聖騎士はジュリアンとカイだけだ。それ以外に生き延びた聖騎士は、戦闘要員ではないために光王庁に残っていたフェイルと、負傷のため作戦に参加しなかったジクストゥス、諜報活動に従事していたキースの三人だけで、聖騎士団の下についていた僧兵団も五割に近い死者と行方不明者を出し、壊滅した。
 作戦が展開されたのは、中央省庁区から遙かに離れた荒野。四方数百キロに渡って人間が居住可能な区域が存在しない、荒神と天魔に支配された不毛の土地だった。カルマの隠れる風霊戦争時代の遺跡に向かうふりをして、聖騎士団は決戦の場と決めた平地に陣取った。あからさまな罠だったが、カルマはわざとおびき出されたふりをして現れた。彼女にとってはその場にいた光の巫女もジュリアンもウィンドも先代聖騎士団団長――ヴァルフレード・アルバーニも、そしてそれ以外の聖騎士たちも、全て邪魔な存在だったからだ。
 当時のカルマはかつて「カルマ」とは呼ばれていなかった頃、風霊戦争で世界を滅ぼしたときと同じ力を取り戻していた。ウィンドとランが風霊戦争直後に封印したはずの憎しみに誰かが形を与え、それを核として集まった魔力がカルマとなったのだ。聖騎士団はどうにかして彼女を封印しなおさなければならなかった。
 もしも封印が失敗して、再び風霊戦争の終結時と同じ災禍が引き起こされれば、今度こそ人類は生き延びられなかっただろう。それを防ぐことが出来たという意味では、あの作戦は完全な失敗ではなかった。
 追い詰められたカルマは自らの存在を破壊する覚悟で魔力を暴走させた。それでも光の巫女とウィンドの力で被害は局地的なものに抑えられた。結果だけで言えば、聖騎士団の壊滅と光の巫女の竜化症発症と引き替えに、カルマの力を封じることには成功したのだった。作戦通りではなかったが、そういう結末になることをヴァルフレードは覚悟していたのだと思う。
 あのときジュリアンは前線に出る許可を与えられず、後方で戦場を囲む結界を維持していた。ぎりぎりの戦いでなぜ最大戦力を投入しないのか、当時は自分の魔力がカルマとの戦いにおいて暴走する可能性があるからだとしか思えなかったが、今ではそれが一種の保険でもあったのだと理解している。聖騎士団団長と後継者として指名されている副団長が同時に死亡すれば、生存者を撤退させることさえ満足には出来なかっただろう。
 中心から二キロメートルほど離れた地点から、ジュリアンは全てを見ていた。囮であり作戦の要でもあったリタの元にカルマが現れ、聖騎士団を中心とした精鋭たちと交戦が始まり、ウィンドとリタが協力してカルマの力を押さえ込もうとするのを。
 そしてそれが成功するかに思えたその時、カルマは力を暴発させた。
 ヴァルフレードに誤算があったとすれば、それはカルマがまるで人間のように感情に任せて魔力を暴走させたことだろう。ジュリアンがいた場所から最初に見えたのは、戦闘の中心地点を覆い隠す大量の土埃だった。上空に重く垂れ込めていた暗い雷雲が、その時妙に白く輝いていたのを覚えている。音もなく広がった土煙は、ふわりと羽ばたくように形を変えて巨大な渦になった。渦は静かに、ゆっくりと全てのものを呑み込みながら天空へと昇っていく。蜘蛛の子を散らすように中心から退却していく僧兵たちの怒号も、轟々と唸っていなければならないはずの風の音も、何も聞こえなかった。荘厳な奇跡のように、暴風の渦は高く高く昇っていき、白く輝く雷雲へと達する。
 美しい悪夢のようなその光景を、ジュリアンは圧倒的な魔力が戦場の外へ溢れ出さないように必死で結界を維持しながら、ただ呆然と見守っていることしか出来なかった。その渦の中心にリタもヴァルフレードもいるとわかっていたのに、出来ることは何もなかった。
 空に達した竜巻は、白く輝く雲を巻き取りながら徐々にその範囲を広げていく。今ではもう、渦巻く風の全てが白い光で染まっていた。逃げ遅れた者がその白い渦の中へ吸い込まれていくのを為す術もなく見つめながら、構築を補助する僧兵たちからの制御が途切れて砕け散りそうな結界を支える。直径三キロメートルにも達する結界を移動可能な車載型簡易補助装置だけで維持することは、ジュリアンにも難しかった。逃げ延びた僧兵たちが消滅《ロスト》を覚悟の上で結界維持に参加しても、内側で荒れ狂っている風の魔力に対抗できるのは僅かな時間だけだとわかっていた。結界が崩れれば、風霊戦争の時と同じようにカルマの怒りが他の神々に伝染してしまう。そうやって荒神が爆発的に増えれば、ようやく生きる場所を確保し始めた人間たちはまた絶滅の淵に追いやられることになる。
 たぶんあの時、その場にいた全員が絶望していただろう。誰もが最後の希望と頼むヴァルフレードの魔力もリラの魔力も、カルマが暴走させた強大な力に阻まれて感知できなかった。竜巻の中心にいるはずの彼らが無事でいるなどと、誰も考えられなかったはずだ。
 無音の竜巻はその頃にはもうほぼ結界の全域を覆い尽くしていた。天と地を繋ぐ柱というよりは、視界を真っ白に塗りつぶす巨大な壁のように目の前に迫るそれとの彼我の距離が、そのまま死への距離だった。
 無理だろうな、と、そう思った。何かが麻痺してしまったように、恐怖も、怒りも、悲しみも、激しい感情は何も湧いてこなかった。無力感がもたらす虚無に、全ての感情が吸い込まれてしまったようだった。
 あの竜巻が薄く脆い結界を破って、全てが溢れ出したとしたら、この場にいる生身の人間は誰一人助からないだろう。そしてジュリアン自身は――きっとカルマの怒りに呑み込まれて竜に変わるのだろう。その後はここを中心にして、世界中に無数の荒神が生まれていく。そんな世界で人類が生き延びられる可能性は、ほとんどゼロに近い。
 結界維持装置からものすごい勢いで吐き出されるエラーを機械的に処理しながら、妙に冷静にそんなことを考えていた。
 勢力を増した竜巻の外縁が、ついに結界に触れた。ただでさえ処理が追いついていなかったエラーが爆発的に増えて、薄青い膜のような結界に目視できるほどの亀裂が走る。近くで結界維持に参加していた僧兵が、啜り泣くような声で神に祈るのが聞こえた。目の前に迫っているはずの死が、酷く遠く感じられた。
 維持装置が結界の崩壊を告げる。一気に溢れ出した魔力に晒されて、全身から魂がもぎ取られるような心地がして目を閉じた。風の音はまだ聞こえない。悲鳴のように誰かが神の名を、家族の名を呼ぶ。それすらも無音に呑み込まれていく。
 ジュリアンも祈っていた。この期に及んでなお、自分の祈りが神に聞き届けられるとは思えなかったけれど、他に出来ることなど何もなかった。
「……神よ、憐れみたまえ」
 定型文を昔教えられたとおり機械的に呟いて目を開ける。真っ白に染まった竜巻は、眩いほどに光り輝いていた。場違いなほど美しい死の光景に目を奪われる。その瞬間、唐突に光の渦は力を失った。あるいは跪き、あるいは倒れ伏して祈っていた周囲の僧兵たちも呆然とそれを見上げている。
 一瞬遅れて、どこか懐かしい魔力の気配が頬を撫でた。それがリラの力だと気付くのに、少し時間がかかった。その間に竜巻はまるで最初からなかったかのように忽然と消え失せ、代わりにその場所に現れたのは圧倒的な光の滝だった。世界の全てを覆い尽くしていた灰色の分厚い雲は巨大な竜巻で吹き払われていて、その向こうには今まで見たこともないような透明な青が広がっていた。
 ――青空だ。
 周囲の状況を把握することも今何が起こっているのか考えることも全て忘れて、ジュリアンはただ呆然と見とれた。たぶん、呼吸すら忘れていた。
 ずっと失われていた、多くの人間が求め続けてきた、かつてこの世界のどこででも見られたはずの、しかし今では決して見ることは叶わないはずの青い空。それがこんなにも美しいものだと、その時までジュリアンは知らなかった。降り注ぐ光の温度も、その光に照らされた世界の鮮やかな色も、何もかも。
 何もかも知らないはずのものだったのに、それなのに胸の内側から灼き尽くされるほどに懐かしかった。知らないはずなのに知っていた。その空が、地平線の彼方まで続く風景を。この大地を覆う蒼穹を。きっと、生まれる前から。
 見とれている間に雲は再びその勢力を増し、青空を覆い隠していく。消えていく青の中に、ふと白い影が見えた。輝くような青い空の中で、ただ一人静かに佇んでいるような不思議な存在感。
 目を、奪われた。
 これ以上美しいものは、きっとこの世界には存在しない。
 奇妙な確信に突き動かされて、思わず手を伸ばす。
 あれは、月だ。この地球がこんなふうになってしまっても、変わらず側で回り続けていた。誰も観測することは出来なくても、潮の満ち引きでその存在を知らせていた。
 手が届かないと知っていた。それでもすぐ側にあるような気がして――
 けれどそんな思いを押し潰すように、灰色の雲は再び白い月も青空も隠していってしまう。
 感情抑制装置を埋め込まれてから初めて、何かを欲しいと思った。
 触れられなくても構わない。あの真昼の月を、もう一度この目で見ることが出来るなら。
 死んでも良いなと、そう思った。