第六話 終わりの始まり
6-3 月に触れるひと
「真昼の月……」
呆然と呟いた自分の声が、どこか遠くから響いてくるみたいだった。思い出すのは、ユリンで見た青空に消える白い月だ。あの時、ジュリアンは「見たくない」と言ったのだった。良い思い出がないから、と。
「ユリンで月が消えたのは……それで……?」
「ああ」
見たくないから隠しているのかと聞いたら「そんな面倒なことをしそうに見えるのか」とか言っていたのに、どうやら実際には「面倒なこと」をしていたらしい。本当に見たくないと……思い出したくないと、思っていたのだろうか。
――そうかもしれない。
だってそれを見たときに、彼は大切な人々を亡くしたのだから。
「あそこの空は、本物に近すぎる」
手すりに寄りかかったまま静かに目を伏せるジュリアンは、ひどく穏やかに微笑んでいた。
「最初はただ、見たくなかっただけなんだが……結局最後まで修正する気になれなかったのは、あの空が偽物だということを忘れないためだったのかもしれないな」
いつか本物に変わるための魔法。それを信じたかったのは、誰よりも魔法をかけている本人だったのかもしれない。
「リラの力が再び手に入る希望があるなら、諦めるわけにはいかなかったから」
ふと言葉を切って時計を見たジュリアンが、思わずといった雰囲気で苦笑した。
「すまない。話しすぎた」
「い、いえ」
はっと夢から覚めたような心地で、フィラは目を瞬かせる。
「四年前の事件、ですよね……」
それに当てはまるようなニュースは、確かに見た記憶がある。まだどこか他人事のようにおぼろげな部分がある記憶をフィラは必死に掘り起こした。
あの頃フィラが住んでいたトレーラーハウスに受像機《テレビ》はなかったし、エステルには新聞を読む習慣もなかった。だからフィラが触れられるニュースは限られていたのだけれど、それでも耳に入ってくるくらいには大きなニュースだった覚えがある。けれど余りに現実感がなくて、リタの話の中の兄とニュースで見ていたジュリアンの姿が、十二歳のフィラの中でちゃんと結びついていたとは言い切れない。
「でも何か……大勝利みたいに言われてませんでしたっけ……」
「言われてたな」
どうにか引っ張り出した記憶と現在の知識の齟齬に首を傾げるフィラに、ジュリアンはあっさりと頷いた。
「聖騎士団は大いなる犠牲を払うことになったが、その役割は十二分に果たした。聖騎士団団長は命と引き替えに風霊戦争で世界を滅ぼした荒神を封じ、聖人として神の元に、とかそんな感じだったか」
まるで他人事のような穏やかな口調と表情。苛立ちを諦念で包み込んだような穏やかさに、フィラは思わず両手を握りしめる。
「光の巫女はほとぼりが冷めた頃にアースリーゼに力を引き継いで引退したことになった。リタは公式な場に出たことがなかったし年齢も非公開だったから、そこを誤魔化すのはそんなに難しい話でもなかったんだ」
自分のため、というよりジュリアンの睡眠時間を確保するためにはもう話を切り上げた方が良いとわかっているのに、どうしても続きが聞きたかった。機密事項として今語られている事実を知っている人間はきっと何人もいるはずだけれど、それに対するジュリアンの感情が語られることは、今までなかっただろうと思ってしまったから。感情を押し殺すことに慣れてしまった彼は今もその穏やかな仮面を外すことが出来ずにいるけれど、耳を澄ませば聞こえそうな気がする。その奥に潜む、無言の叫びのような何かが。
「俺の騎士団長就任が認められたのもその流れだ。俺を団長にしたくない人間はたくさんいたはずだが、他にこんな貧乏くじを引き受けたがる人間がいなかったから……このまま聖騎士団が消滅してしまえば混乱を引き起こすことになるからと急遽人員をかき集めて……まあ、かき集めるのは俺の仕事だったんだが……」
珍しく思いつくまま考えがまとまる前に口に出しているような調子で話していたジュリアンは、ため息をつきながら前髪をかき上げた。
「敵方の鹵獲兵器であるダストや身元のわからないリサを無理矢理ねじ込んだのもそういった事情があったからだ。聖騎士団は壊滅してもまたさらに強くなって蘇るというイメージを作り出すために、当時の戦績はやたら大げさにアピールされていた」
そう言われて思い出してみると、確かに妙にきらきらしいニュースが多かった記憶がある。けれど、それに対するリタとエステルの反応はフィラの記憶にある限りかなり冷淡だった。
「……ものすごく強いみたいなニュースはよく見てたんですけど……リタが嘘ばっかりって言ってたし……あの頃は……その、リタと魔術の訓練をするのに忙しくて……」
ジュリアンの表情が曇ったことに気づいて、フィラは慌てる。
「そっ、それに、受像器《テレビ》なかったんですよね、家に」
意味もなく両手を動かしながら、自分がなぜこんなに必死になっているのかわからなくなってきた。
「あ、でも、その、先生があんな子どもたちに全部押しつけやがってみたいなことを苦々しそうに言ってたのは覚えてます」
何を言おうとしているのかもよくわからなくなってきたところで、ジュリアンが苦笑しながらフィラの手を取って、無意味な動きを止めてしまった。
「いなかったんだよ。経験や戦術的な知識はともかく、純粋な魔力の強さで聖騎士団に入団可能だった人材が」
手を取られてしまったフィラは、がちごちに固まったままその言葉を聞く。意味もなく動揺しすぎてしまったのも手を取られているこの状態もものすごく恥ずかしい。耳まで赤くなっているのが自分でもわかった。
「それに既にある程度の地位を得ている人間が、あのときの聖騎士団に入るメリットもなかった。本来入団を認められない立場にいたリサやダストを加えたのも、研究畑にいたランティスを引きずり込んだのも……全部、人がいなかったからだ。あとはレイ家が私兵として雇っていた傭兵を形だけリラ教会に入信させて採用したりとか」
「先生が言っていた『子ども』って、まずジュリアンのことだったと思うんですけど……」
少しだけ落ち着いてきたフィラがそれでも手を握られたままなのが気まずくて上目遣いに見つめると、ジュリアンは穏やかな笑みを返してくる。
「そうだったんだろうな」
握った手に、ほんの少しだけ力が入ったのを感じた。
「だが、全部押しつけられたとは思っていない。あの頃は考える余裕もなかったが、たぶん俺一人の力ではどうにも出来なかった」
フィラの手を引き寄せながら、ジュリアンはまるで中世の騎士のように恭しく腰を折る。持ち上げられた指先に唇が触れて、フィラは目を見開いた。
「サーズウィアを呼びに行くこともそうだ。俺一人では、ここを抜け出すことさえ出来ない」
ジュリアンがかがんだまま視線だけ上げて、さっきとは逆に見上げられる格好になる。何だか妙な既視感がある。以前にも同じようなことをされてからかわれたような。
「苦労をかけると思うが」
違うのは、ジュリアンが浮かべているのがあの時のような人の悪い笑みではなく、愛おしむような穏やかな微笑であることだ。それが向けられる対象が自分であることにまだ慣れないフィラは、それでも精一杯の余裕をかき集めて笑い返した。
「望むところです」
どこか共犯者じみた笑みを交わし合ってから、ジュリアンは背中を伸ばす。
「そろそろ寝るか」
甘い雰囲気を振り切るように、ジュリアンはおそらくわざとだろう軽い調子で言った。
「そうですね。明日も早いですし」
ここで切り上げないといつまでも話し込んでしまうことは、最近の自分たちの行状から二人とも学んでいる。
「おやすみ。また明日」
「おやすみなさい」
当たり前のようにそう言い合えることに、胸の奥が暖かくなった。幸せ、なのだと思う。この先へ続く未来を、何としてでも手に入れたいと思う程に。
少しだけ名残惜しい気分で手を放して、それぞれの部屋へ戻る。
戻った部屋のベッドの上では、ティナが丸くなっていた。
「おかえり。遅かったね」
フィラが戻ってきたことに気づいたティナが、片目を開けてこちらを見る。
「つい話し込んじゃって。ティナもおかえり」
ベッドに座って背中を撫でると、ティナは小さくあくびをして起き上がった。
「寂しいなら抱き枕になってあげても良いけど。サイズ今のと大きいのどっちが良い?」
行儀良く両前足をそろえてこちらを見上げるティナと視線を合わせたまま、フィラは目を瞬かせる。
「……はい?」
ティナが何を言っているのかまったく理解出来なかった。
「だから、寂しいなら抱き枕に」
「いやそっちじゃなく」
混乱したままティナの言葉を遮り、ベッドに手をついてその顔を覗き込む。
「大きいサイズって何?」
「え、もともと僕この格好してたわけじゃないんだけど」
何で知らないのとでも言いたげなティナに、フィラは困惑した。
「……もともと?」
「あーそっか。見せなきゃわかんないんだっけ」
見もせずにどうやってわかれば良いのかフィラには理解できないが、きっと神々の世界では違った常識があるのだろう。もしかしてジュリアンだったらわかったりするのだろうか。
「そういえばジュリアンにフィラに見せとけって言われてたんだった。すっかり忘れてた」
マイペースにしっぽを揺らすティナに、フィラはがっくりと肩を落とした。
「忘れてたと言えば僕も自分の形忘れてたんだよね。あいつとの訓練中にどうもこの形だと力を使いづらいってわかってさ」
フィラの苦悩にはお構いなしにますますマイペースさを見せつけるティナに、フィラは半分あきらめの境地で向き直る。
「えーっと、それで元の形……? を、思い出したの?」
「うん、ジュリアンと相談して使いやすい形を探ってるうちに本来の、って言ってもこの世界での姿が仮初めのものなのは変わらないんだけど……まあつまり、馴染みのある形を思い出したってわけ」
なんだかティナのひげが得意げにぴくぴくしている気がするが、今の話のどこに得意になれる要素があったのかわからない。
「いつ?」
「一週間くらい前だったかな」
つまりジュリアンがものすごく忙しかった頃だから、彼の方ではティナに話しておけと言ったからにはフィラもとっくに知っていると思っていたのだろう。ティナに悪気が全くなさそうなので誰も責める気にはなれないが、何か切羽詰まった状況で突然知ることにならなくて良かったとフィラは密かに胸をなで下ろした。「大きいサイズ」がどれくらい大きいのかわからないけれど、その大きさと形状によってはパニックを起こしてしまう可能性だってあったわけだ。
「で、見る?」
いかにもどちらでも良さそうに聞いてくるティナが、本当は見せたくてうずうずしていることにフィラは気づいてしまう。忘れてたくせに、とは思わないでもないが、フィラとしても見ておきたいことは見ておきたかった。
「うん。見る」
「わかった」
ティナは頷くとベッドから飛び降りて大きく伸びをする。その全身が淡く光ったかと思うとみるみるうちに光量を増し、眩い光にティナの輪郭が呑み込まれて消えた。思わず目を閉じたフィラが、光が収まった気配を感じて恐る恐る薄目を開けると、ティナがいたところには虎くらいの大きさの光の塊が浮かんでいた。質感も何もない光の塊はすぐに真っ白な毛並みの巨大な猫に変わり、地に足をつける。
ティナがそのまま大きくなったような子猫の体型ではなかった。どこか精悍な山猫を思わせるシルエットは、野生の獣のしなやかな美しさだ。北欧産の長毛種の猫のような豪華な被毛と、鳥の翼のような形に長く背中の方へ延びた耳、そしてその後ろから優美なカーブを描いて生えている角が子猫の姿とは決定的に違うところだろう。確かに神様として崇められていたとしてもおかしくない威厳のある姿だった。
「……ティナ?」
本当にティナだよね、と聞きたい気持ちが、声に表れているのが自分でもわかる。
「そうだよ」
そこだけは変わらない、|子猫に特有の薄青《キトゥン・ブルー》の瞳で、ティナはフィラを見上げた。少年のような声も変わらなかったから、フィラは少しだけほっとする。
「な、撫でても良い?」
子猫の産毛とはまた違った手触りの良さそうな毛皮に、思わず手を伸ばしそうになって慌てて尋ねた。
「良いよ」
身をすり寄せてきたティナの首にしゃがみ込んで腕を回し、背中を撫でる。フィラよりも大きくなってしまったティナは子猫の姿の時のように気軽に扱うのは躊躇われる威厳があったけれど、ごろごろと気持ち良さそうに喉を鳴らす様子はやっぱりティナだ。
「で、どうするの?」
撫でられるのに飽きたらしいタイミングで、ティナは問いかけてきた。
「どうって?」
「抱き枕。昔みたいに添い寝してあげるって言ってるんだけど」
「あ、ああ」
冗談かからかっているのかどちらかだと思っていたのだが、どうやらティナは本気だったらしい。
「じゃあ、久しぶりにお願いしようかな」
「サイズはどっちがいいの?」
とっさに考えたのは今日の気温だった。三月の初めの中央省庁区は、まだ少し肌寒い。
「えっと、それじゃ、せっかくだから大きい方で」
暖かそうだから、という理由でフィラは即決した。
「わかった」
ティナは小さく頷くと、音もなくベッドに飛び乗る。その隣に潜り込みながら、そういえばこの大きな猫は実在の動物がモデルなのだろうかとフィラは一瞬考えた。フィラの記憶の中にはこんな神秘的な姿の動物はないから、ティナだけがこんな姿なのかもしれないけれど、少し気になる。ティナに聞いたら忘れたとか言われそうだから、明日ジュリアンに聞いてみよう。
そんなことを考えながら、フィラは満ち足りた眠りに落ちていった。