第七話 懐かしき愛の歌

 7-3 She Moved Through The Fair

 飛び込んだ水の向こうで、誰かが呼んでいる。それほど深いように見えなかったプールの底には、どんなに潜っても辿り着かない。呼吸が苦しくなって思わず行く手に伸ばした手を、誰かが掴んだ。途端に水の圧迫感が消えて、呼吸が出来るようになる。薄目を開くと、ゆらゆらと揺れる水の向こうにぼんやりと誰かのシルエットが見えた。
「フィラ」
 馴染みがあるようでない、自分と同じ声の誰か。
「フィア……?」
 答えた途端に視界がクリアになる。何故か懐かしい気分になった。ずっと前にも、こうしてフィアと水の中で向かい合っていたような。もしかしたらそれは、生まれる前の記憶だったのかもしれない。
「お久しぶりです」
 フィアが間近で笑いかける。水の中で手を取り合った双子の妹は、服も髪型も何もかも、鏡に映したようにフィラにそっくりだった。
「ごめんなさい、フィラ。私の魔力をあなたに預けます。受け入れて」
 迷う理由も時間もない。即座に頷いたフィラに、フィアは微笑して瞳を閉じる。同時に繋いだ手から何かが身体の中に流れ込んでくる。使い手の性格を映したような、丁寧に構築された魔術式。その道筋を辿って、膨大な量の魔力が。けれどいつかリラの力を調べるために魔力を注ぎ込まれたときのような苦痛はない。まるで最初からそこにあったように、フィラの中に馴染んでいく。
 数秒もかからずに全てを渡し終えた後、フィアは目を開けてまた微笑んだ。
「今度は本物の青空の下でお会い出来ることを祈っています。気をつけて行ってらっしゃい」
 そう言うフィアはどこか余裕があって、むしろ何かが楽しみで仕方がないようにすら見える。これからフィラの代わりに光王庁に閉じ込められる未来が、優しいものであるはずがないのに。
「フィアも……気をつけて」
 それでも無事追跡をかわしてサーズウィアを成功させるためには、あとを任せるしかない。
「大丈夫です。ここには、フランシス様がいますから」
 悪戯っぽく微笑んだフィアが、するりと握っていた手を離す。そのままフィアはまるで生まれたときから水の中で暮らしている生き物のように、優雅に水面へ向かって泳いでいった。
 見上げるフィラの腰に、ふっと何かが巻き付く。見下ろすと、それは巨大な白蛇の身体のようだった。
 ――こっちしゃ――
 独特のしゅるしゅるとした口調が告げる。それでこの白蛇が誰なのかわかって、フィラは緊張しかけていた身体から力を抜いた。
 潰さないように気をつけているのがわかる力加減で、白蛇――蛇《へび》の目様は、フィラを水底に引き込んでいく。揺れる水面が遠ざかり、少しずつ光が薄れ――やがて、何も見えなくなった。

 フランシスが駆けつけたとき、聖騎士団本部は戦場になっていた。部屋から出るなと厳命されている聖騎士団の関係者は、領域を侵した光王親衛隊に加勢するつもりなど欠片もないらしい。廊下の扉は全て閉じられた上に緊急用の結界まで展開されていて、冷たい拒絶と沈黙を纏っている。当然だろう。もともと聖騎士団と光王親衛隊は犬猿の仲だし、加勢するふりをして逃亡者を支援したなどと難癖をつけられてはたまらないという理由もある。
 魔術と怒号が飛び交う廊下に飛び込むと、行く手を遮るような水壁を挟んで、水の神フィーネと光王親衛隊の三人が対峙していた。
「フランシス様!」
 フィーネの魔術に結界で対抗していた一人が振り向いて必死の声を上げる。
「どけ!」
 言葉と同時に、展開しておいた魔術式を発動させた。高温の青白い炎が、フィーネの張った水の膜を突き抜けて本体に迫る。
「くっ、ここまでか……」
 フィーネは悔しそうに――しかし事情を知るフランシスからは楽しそうにしか見えない様子で表情を歪ませ、正確に核を狙った炎が胸に届く寸前で姿を掻き消した。
「申し訳ありません。巫女様が……」
 頭を下げようとする隊士に首を振って見せ、炎で水壁を払いながら、フランシスはその向こうへと足を進める。
「言い訳は良い。急げば間に合う可能性もある。走れ!」
 そう告げながら、フランシスは既に走り出していた。一瞬出遅れた親衛隊士たちも、慌ててその背中を追う。
「敵はフィーネだけか!?」
 走りながら尋ねると、「もう一体います」と背後から答えが返ってきた。
「聖騎士団団長の守護神ティナと思われます。しかし、姿が……登録されたものではなく! 猫科の動物とは思われますが……」
「光の神だ。幻影の可能性もある」
 そんなわけはないとわかっていながらそう言って、走り続ける。
「光の神は逃げたのか?」
「はい、水の神に足止めされている間に……」
 ティナもフィーネも守護神となったのは最近の話だが、使い手がジュリアンとリサであることを考えればその連携も容易に説明がついた。
 聖騎士レイヴン・クロウから、聖騎士団団長ジュリアン・レイに地の神器を奪おうとする動きがあると連絡が入ったのはつい先ほどのことだ。軍部が即座にジュリアン確保に動き、光王親衛隊には光王から直接、当然次に狙われるはずの光の巫女の保護が命じられた。
 フランシスはコンサートの警備を自分の補佐官に引き継いでから駆けつけることで、怪しまれない程度に時間を稼いだ。あまり早く現場に到着してしまうと、本当にフィラを確保できてしまう可能性があるからだ。
 一つ予想外だったのは、緊急事態を受けて光王が許可しない限り、光王庁内では戦闘魔術に関してはかなり重い制限を課されているはずの守護神の能力がフルに使われていたことだ。制御システムの構築はフォルシウス系の技術部が請け負っていたはずだが、どうやら聖騎士側ではとうに解析して抜け道を見つけていたらしい。今回は事前の打ち合わせは何もなかったのだが、アドリブでお節介を焼く必要もなかったかもしれない。フィーネが本気を出していたら、フランシスでもこの先には進めなかっただろう。
「どこだ!?」
 廊下の先のトレーニングルームはもぬけの殻だった。隊士の一人が叫ぶが、もちろん答えはない。フランシスは遅れて加勢に来た隊士たちと共にしらみつぶしに室内を探していく。聖騎士団本部の構造については部外秘になっているので、どこに何があるのかフランシスたちも理解していなかった。しかもフランシスたちが部屋に入った瞬間から強烈な魔力妨害波《ジャミング》が周囲を覆い尽くしていて、魔術の痕跡など探りようもない。フィラとティナどころか先ほどまで交戦していたフィーネの行方すらわからなかった。
「隊長! こちらに階段が!」
 奥の魔術訓練室を調べていた隊士が戻ってきて大声で報告する。フランシスは一部の隊士を見張りのためにトレーニングルームに待機させ、自分は先頭に立って奥の部屋へ向かった。
 光王庁の他のどの区画にあってもおかしくないような規格通りの真っ白な階段を降りると、特殊環境下での魔術訓練に使われているらしい、水に関わる魔力が増幅された空間に出る。
「フィーネは……既に逃げ去った後か」
 わかりきっていることを苦々しく聞こえるように意識しながら口にした。訓練用のプールは静かに凪いでいて、行われただろう魔術の片鱗も見当たらない。魔力妨害波《ジャミング》も相変わらず空間を満たしていて、魔力の痕跡から探ることもすぐには出来そうになかった。
 素早く視線を巡らせたフランシスは、プールの側に打ち上げられるように倒れている少女に気付く。彼女から何の魔力も感じないのは、魔力妨害波《ジャミング》のせいばかりではないだろう。予感に背中を押されるように、少女へ駆け寄った。抱き起こした少女の身体は軽く頼りなく、やはり触れていても魔力は感じない。
 ――どちらだ。
 妙な焦燥に駆られる。ジュリアンが彼女を置いていくはずがない。わかっていても、もし違ったらという懸念が拭えない。
(早く目を開けてくれ……!)
 そうしてくれさえすれば、きっと自分は見分けられる。
「フランシス様、お気をつけください」
 隊士の一人が気遣わしげに声をかけてくるが、答える余裕はなかった。覚醒の魔術を使って無理矢理少女を叩き起こす。
「ん……」
 微かに身動ぎして、少女は眩しそうに瞳を開けた。茫洋とした視線が少しだけ彷徨って、すぐに強い光を宿して真っ直ぐフランシスを見上げる。その瞬間に、フランシスはふっといつもの自分を取り戻した。幼い頃からずっと貼り付け続けてきた真意を隠すための笑顔を、再び頬に乗せる。
「……おはよう、お姫様」
 芝居がかった台詞に、少女は微かに眉を顰めた。
「どうやら上手くあの光の神にリラの力を預けたようですね」
 精一杯の虚勢を張ったように睨み付ける視線は間近で見てもフィラそっくりだけれど、最初に目が合った一瞬で確信を得ていたフランシスは怯まない。ゆっくりと余裕の笑みを浮かべて、少女を威圧してみせた。
「それで、フィラ・ラピズラリなんて人間は実在しているのかな?」
「実在してはいますよ」
 核心に触れる言葉に周囲の隊士たちは息を呑み、少女は――フィア・ルカは被っていた仮面を脱ぎ捨てる。――否、別の仮面を被りなおしたと言う方が正しいのかもしれない。
「三年ほど前に『消えて』いただきましたけどね」
 フランシスの腕の中で、フィアはどこか妖艶な笑みを浮かべて言い切った。

「さってと。私たちもそろそろ行きますかね」
 魔力妨害波《ジャミング》に隠れて天井裏に潜みながらその様子を見守っていたリサは、光王親衛隊がフィアを連れて去って行くのを見て、小さく笑った。通気口の小さな穴から下の様子はよく見える。数人は魔術の痕跡を解析するために残っているが、プールに残された転移魔術の痕跡から行き先を知ることは出来ないだろう。わかるのはせいぜい、リラとティナとリサとフィーネを合わせた程度の魔力量が行き来したことくらいだ。フィアが持っていた魔力が二回通り抜けたのを誤魔化すために、リサは別ルートで脱出することになっている。そのために今のリサの服装は光王庁内に無数に存在する一般僧兵の制服だった。団服と違って着心地は良くないが、この場合は仕方がない。
「しっかしノリノリだったねフィーネ」
 魔力を隠して側に戻ってきたフィーネに、リサはにやりと笑いかける。
「小賢しい人間どもって台詞、一度言ってみたかったんですよね」
 しれっと答えるフィーネは、リサから見てもかなりイイ性格だ。
「無駄に進んでるねえ、ヒューマナイズ」
 半眼で笑って肩をすくめて、リサは制服の裾を直した。これから聖騎士団は光王親衛隊の立ち入り調査を受けることになるだろうが、ジュリアンとリサとフィラ(のふりをしたフィア)以外が協力していた証拠は見つけられないだろう。魔力妨害波《ジャミング》だって訓練施設では常に使えるようにしているものをリサが無許可で動かしただけだ。
 リサはとっくに逃げ出したものとして、あまり真剣に探されはしないだろう。情報統制の必要性から、慰問コンサートはこのまま何事もなかったように続行されるだろうし、そちらの警備についている人間を動かせない関係で追跡に割ける人員は少ない。抜け出すだけなら正直楽勝だ。
 今後のリサの役割は、遊撃隊としてジュリアンとフィラの旅路を援護することだ。以前|第三特殊任務部隊《レイリス》の手伝いをしていた関係で賞金稼ぎとしての偽の身分で動き回っていた経験もあるリサにとっては、馴染み深い仕事でもあった。むしろこちらの方が性に合っているかもしれない。
「いやあ、嬉しいね。これからは報告書のない生活だと思うと!」
「実質、あなたが作成するべき報告書はほぼ全てカイ・セルスが作成していたと思うのですが」
 無駄だとわかっていてツッコミを入れてくれるフィーネは実に親切だ。
「楽しい旅になりそうだね〜」
 リサは上機嫌で呟くと、ほとんど鼻歌を歌い出しそうな調子で脱出地点への移動を開始した。