第七話 懐かしき愛の歌

 7-5 Siuil go doras agus ealaigh liom

 鳥の鳴き交わす声にふっと目を開ける。フィラは眩しさに何度か目を瞬かせてから周囲を見回した。明るい森の中だ。冬枯れの梢を通して、柔らかな陽の光が差し込んでいる。新緑の気配と生命力に満ちた森は、陽光の下でまるで別世界に来てしまったように色鮮やかに見えた。
「起きたか」
 しゅるしゅるとした発音の声にはっと振り向くと、小さな泉のほとりに大きな白蛇がとぐろを巻いていた。
「蛇《へび》の目様……」
「迎えが来るまでここで待つのしゃ」
 白蛇はそれだけ言うと、フィラが何か尋ねる前に泉の中へするりと潜っていってしまう。柔らかな日差しが差し込む午後の森に一人取り残されたフィラは、手持ち無沙汰にまた周囲を見回した。濡れ鼠になったままなので少し寒いけれど、着替えはもちろん手元にない。風に当たらないように木の陰に回り、梢越しに上を見上げる。まだ葉を出していない枝の向こうに見えるのは、青空だ。偽物だとわかっていても美しい、ユリンの空。
 ――帰ってきたんだ。
 青空を見上げるうちにじわりと実感が湧き上がってきて、同時に目の奥が熱くなる。離れていたのはほんの半年ほどのことなのに、こんなにも懐かしくなるなんて思わなかった。
 滲みかけた涙を拭って立ち上がる。やっぱりじっとしていると少し寒い。惑いの泉の場所は一定ではないから、ここがどこなのかはわからない。そしてさっき光王庁のプールと繋がったのも、惑いの泉がどこにでも現れる泉だからなのか――蛇の目様に聞いてみたいところだったけれど、さっさと泉の中に戻ってしまったのをわざわざ呼び出して聞くのも躊躇われる。
 静かだ。裸の梢を風が吹きすぎる音、どこかで鳴き交わす鳥たちの声。光王庁の人工的な静けさとは全然違う、森の静かなざわめき。土と木々の匂いも、中央省庁区ではほとんど触れることのなかったものだ。
 耳を澄ましていると、ふと下生えを踏み分ける音が聞こえた。迎えが来たのだろうか。少しだけ警戒しながら音のした方を伺っていると、やがて木立の向こうから一人の少女が姿を現した。年齢はフィラと同じくらいだろうか。服装はユリンの街ならごく普通に見かける、膝下丈の麻のワンピースだ。少し大きめのかごを抱えているので、野草を摂りに来た地元の住民に見えなくもない。肩につくかつかないかの栗色の髪を後ろで結わえ、シュシュでまとめている髪型もユリンでは珍しくないものだった。顔立ちにも特徴らしい特徴がないので、目を離したらすぐに容姿を忘れてしまいそうだ。ただ、そんな余りにも普通のユリンの住民らしい少女がここにいるのは、いかにも不自然だった。
 彼女が『迎え』なのだろうか。考えているうちに、少女は真っ直ぐフィラの方へやって来る。
「フィラ・ラピズラリ様ですね?」
 少女はフィラの前に立つと、見た目の印象よりも遙かに大人びた硬質な調子で尋ねかけてきた。
「お迎えに上がりました。聖騎士団第三特殊任務部隊、通称レイリス所属。サンディ・クルスです」
 フィラが何か答える前に、少女はまるで台本を読み上げるようによどみなくそう名乗る。第三特殊任務部隊《レイリス》の名は聞いたことがあるけれど、どんな任務に就いているのかは教えてもらったことがなかった。なんとなく雰囲気から諜報活動なのかとは思っていたけれど、そうだとしたら彼女の簡単に人混みに紛れてしまいそうな気配にも説明はつく気がする。
「まず、着替えを」
 差し出されたバスケットを、フィラは慌てて受け取った。サンディが背中を向けたので、フィラはバスケットの中に入っていた服を取り出して着替え始める。
 見覚えのある服だ。踊る小豚亭に置いてきたはずの、エディスと一緒に古着を直して着ていたブラウスとスカート。一緒に入っていたやはり見覚えのあるタオルで身体を拭って、リネンのブラウスに袖を通し、スカートを身に着ける。光王庁から身に着けてきたものは全てバスケットにしまって、完全にユリンで暮らしていた頃と同じ服装になった。
「団長がこちらにいらっしゃるまで、フィラ様には踊る小豚亭でお待ちいただくことになっています」
 着替えが終わりそうな気配を感じたのか、背中を向けたままのサンディが小声で言う。なんとなく着替えを見た時から予感はしていたけれど、あらためてその名を聞くと、嬉しいような怖いような複雑な気分になる。こんな形で戻ることになるなんて、全然想像していなかった。踊る小豚亭が変わりないかも不安だけれど、それ以上に自分が変わってしまったような気がして、少しだけ気後れする。
「終わりましたか?」
 冷静に問いかけられて、フィラは慌てて「はい」と答える。
「では行きましょう」
 サンディはフィラがタオルと着てきた服をしまったバスケットをごく自然に奪い取って、先に立って歩き出した。

 懐かしい街道を歩いて行く。午後の陽射しはまだ柔らかくて、春が来たばかりだということが肌でわかった。まるで散歩しているようなゆったりとした歩調でサンディと並んで歩きながら、フィラは花畑に囲まれたユリンの街の美しさを改めて感じる。魔術を少し勉強した後だと、この陽光を再現するために必要な魔力量と魔術式ががどれほど膨大で複雑なものか考えてしまう。中央省庁区の結界から降りそそぐ光も確かに膨大なものだけれど、ユリンの陽光に比べれば薄暗くて人工的だ。
「あの」
 並んで歩くのにいつまでも無言なのも気まずくなって、フィラはサンディに声をかけてみた。サンディはちらりとフィラへ視線を向けて先を促す。
「サンディさんは、こちらにはいつから?」
「三日ほど前です。ここに来るのは今回の任務が初めてだったので、早めに来て下見をしていました」
 他人行儀ではあったが、思ったよりも親切にサンディは答えてくれた。打ち解けるつもりがないのではなく、もしかしたらこれが素なのかもしれない。
「フィアには会いました?」
 フィアが今までどこにいたのかは知らないけれど、惑いの泉を通って来たのなら、出発地点はたぶんユリンだったのだろう。
「ええ、もちろん。いろいろ引き継ぎや作業がありましたので」
「引き継ぎ……?」
 フィラが首を傾げると、サンディは市街地とこちらの距離を測るように視線を動かした。まだ充分距離があると確認できたからだろうか。サンディは頷いて口を開く。
「ここで私がフィラさんの代わりを務めるために、いろいろと……動きの癖やしゃべり方など、なりすますために必要な情報を引き継いでいただいていました」
「私の代わり……?」
 サンディはふと立ち止まり、フィラを真っ直ぐ見つめる。ほとんど同じ背丈の彼女は、真摯な表情でその栗色の瞳を瞬かせた。
「光王庁におけるあなたの存在はなかったことにされました。このままでは戻ってきた際に、社会的な地位も財産も何一つない状態となってしまい、その後の社会生活に困難を来すことが予想されます。団長も戻った際には全てを失っていると思いますので、それまでは私がフィラ様が持つ全ての権利をお預かりすることになりました」
「それは任務として……?」
 もう既にリラ教会を、そして聖騎士団を離れてしまっているフィラとジュリアンに対して、第三特殊任務部隊《レイリス》の彼女がそこまでする理由があるのだろうか。
「いえ。個人的に。どちらにしろ第三特殊任務部隊《レイリス》は正式にリラ教会に所属しているわけではありませんから」
 ものすごく事務的に告げるサンディは、どうやら本気のようだ。
「もう一人、キースという同じく第三特殊任務部隊《レイリス》所属の者も協力者です」
 再び歩き出しながら、サンディは微かに眉根を寄せる。初めて見せた表情らしい表情だった。
「キースは……素直に認めたくはありませんが、優秀な人間です。ヒゲ剃りはサボっても頭を剃るのはサボらないという、謎のポリシーだけは理解出来ませんが」
 いろいろすっ飛ばされてすごい紹介をされてしまったフィラは、どう反応したら良いかわからずに一瞬固まりかける。
「あ、すみません。我々の方でもいろいろ準備をしてありますので、ご安心くださいと伝えたかったんです」
 相変わらず堅苦しい話し方だったけれど、何となくサンディがキースという人物に対して抱いている親しみが感じられたから、フィラは少しほっとした。
「もうすぐ街に到着します。街中では私のことは友人として扱ってください。ちなみにフィラ様は、私とは領主の城で知り合ったことになっていますから、そのつもりで」
「えっ、あっ、はい!」
 突然言われて思わず答えてしまったが、対応出来る自信は全く湧いてこない。
 しかし街に入った途端サンディは突然親しげになって、踊る小豚亭での最近の出来事を面白おかしく話し始めてくれたので、時々相槌を打ちながら聞いているだけで、傍目からは友人に見えるだろう構図ができあがったのだった。

「フィラ!」
 踊る小豚亭の裏口から入ると、待ち構えていたようにエディスが飛び出してきた。
「良かった、元気そうだね」
 そのまま遠慮なく抱きしめられて、フィラは泣きたいほどの懐かしさに目を閉じる。
「おかえり、フィラ」
「……ただいま、エディスさん」
 感極まったような声に、フィラもどうにか震える声で答えた。懐かしい干し草と食べ物の匂いがする。
「フィアに協力する代わりに一時的に記憶を戻してもらってね。向こうで何があったか、だいたいの話も聞かせてもらったよ」
 身体を離してフィラの顔を覗き込んだエディスは、少しだけ苦笑した。
「聖騎士団団長と……特にジュリアン様と結婚するなんて大変だっただろう。よくがんばったよ。エルマーはちょっと怒ってたけどね」
「あ、あー……そうですよね……」
 何の相談もなく結婚して、旅立つことまで決めてしまったこと。手紙くらい出したかったけれど、あの頃の立場では事情を知らない人間と連絡を取ることはさすがに許してもらえなくて、結局一度も連絡出来なかったこと。ずいぶん不義理を働いてしまったことを、今さらながらに思い出す。
「ああ、あんたにじゃなくて、団長にだよ」
 エディスは苦笑を深めながら手を振った。
「責任を持って守ると言っておきながら政略結婚とはどういう了見だってね」
「う、うわあ……」
 エルマーが本気で怒るとかなり怖いことを知っているフィラは、思わず顔を引きつらせた。
「あ、あのですね、あれはジュリアンが悪いわけじゃなくて、あの時はそうするしか」
「ああ、ああ、わかってるわかってる」
 急き込んで言い訳しようとするフィラの肩を、エディスは優しく叩いて微笑む。
「ちゃんと事情は聞いてるよ。聖騎士団がこの四年でどんな立場に立たされていたのか。あんたが何を抱えていて、どんな選択をしたのか」
 記憶を取り戻したというエディスが、何をどこまで把握しているのかわからなくて、フィラは目を瞬かせた。
「ここが竜化症の施設だって話は聞いてただろう? 竜化症を発症するほど魔術を酷使するのはほとんどが軍人だ。つまり、ここにいるのはほとんどが退役軍人ってわけさ」
 そう言って笑うエディスの顔に浮かぶのは、今まで見たことがなかったような陰だ。軍人として、重い竜化症にかかるほどの魔術を使いながら、戦場で生き抜いてきた記憶が、そうさせているのだろうか。
「あたしたちも例外じゃない。あたしは下っ端もいいとこだったが、エルマーは一時は聖騎士団にも籍を置いていたからね。団長の立場も多少は理解できる。それに四年前の聖騎士団壊滅のときの戦いには、バルトロも僧兵として参加してて、その前後のことを少しは知ってたから、いろいろと教えてもらったんだよ。レイ家とフォルシウス家の力関係がどうなっていたか、その関係の中であんたを守るとしたら、団長に何が出来たのか」
 さっきから、エディスはジュリアンのことをずっと『領主様』ではなく『団長』と呼んでいる。もちろん、ジュリアンはもうユリンの領主ではないから当然なのだけれど、そうすることで、彼女は記憶のない領民としての自分と、記憶を取り戻した元僧兵としての自分を切り分けているようだった。
「ちゃんと聞いた上で、エルマーと相談して協力するって決めたんだよ。あたしもエルマーもバルトロも、それにあんたの友だちのソニアとレックスも、事情を聞いた上で協力するって決めたんだ」
 エディスはそこで真面目な表情を崩して、悪戯っぽくウィンクして見せる。
「大丈夫さ。あたしたちの役目は隠れ家の提供と口裏合わせ。それだってランベールの旦那が光王庁の意思を望む方向にまとめ上げるまで時間が稼げりゃ良いってだけなんだから」
 さて、と両手を打ち合わせて、エディスはフィラの背後に黙って控えていたサンディに視線をやった。
「あんたも朝から働きづめで疲れただろう。甘いものとお茶でもどうだい?」
「お心遣い、痛み入ります」
 フィラもね、と視線を戻されて、フィラは返事の代わりに微笑む。久しぶりのエルマーさんの手作り、と思ったら、急に辺りに漂っているバターとシナモンの匂いが気になってきてしまった。
 三人はそのまま開店前の店内に入り、エルマーも交えて近況報告会を始めた。

 夕刻、久しぶりに店に出たフィラは記憶を取り戻していない皆にも温かく迎えられた。しばらく留守にしていた理由は外で家族が見つかったから、ということになっていたらしい。外での生活については尋ねられても何も答えられなかったけれど、それもサンディが「魔法が解けてしまうから」とフォローしたら、皆もそれを許してくれた。記憶も何もないままここへ来たときと同じように、いろいろな事情を抱えて戻ってきたときも受け入れてもらえたことが――この街の特殊性の故だとわかっていても、受け入れてもらえたあたたかさは本物で、フィラはそれが何よりも嬉しかった。
 久しぶりに会ったソニアとレックスは、いろいろ言いたいことも聞きたいこともあるけどまた後でね、と耳打ちしてきた。バルトロも来ていたけれど、酒場が混んでいてちゃんと話すことは出来なかった。
 結局その日は皆でゆっくり話す暇も打ち合わせする暇もなく、二度手間になるから団長が来てから皆で話そうというサンディの提案を受け入れることになり、フィラは半年前までと全く同じように、酒場の手伝いで一日を終えることになった。
 明日の仕込みも終わって、ここを離れたときと何も変わっていない屋根裏部屋に戻りながら、フィラは静かに考える。
 ユリンの街に住む人々の過去のこと。ソニアやレックスはユリンへ入ることになった両親について来たのだと聞いた。エディスは僧兵として戦場で伝令を務めていて、そこでエルマーと知り合ったのだと。エルマーは十五年前に退役する前は聖騎士で、先代団長とも面識があったということ。そしてバルトロは、四年前――ジュリアンが語ってくれた、あの恐ろしくて美しい決戦の場にいた。
 四年前のあの日、バルトロも見たのだろうか。ジュリアンが見た青空と、真昼の月を。そしてジュリアンは、そのことを知っていたのだろうか。――知らないわけがない。それを知っていて、空を飛びたいというバルトロの願いを記憶から消したときのジュリアンの気持ちを考えると、胸が苦しくなる。
 屋根裏部屋について、寝藁の上に横になりながら、会いたいな、と、そう思った。
 朝別れたばかりなのに、もうジュリアンに会いたい。会って無事を確かめたい。久しぶりに戻ってきた故郷と呼べる場所でも、ジュリアンが無事だという確信がないまま離ればなれでは、とても安らぐことはできない。
 ジュリアンがいつ到着するのかは、サンディもわからないと言っていた。彼を迎えに行ったキースとティナから連絡がないから問題はないと、サンディは自信たっぷりに言っていたけれど、屋根裏で一人になると少しだけ不安が顔を出してくる。
 窓の外の偽物の月に向かって、フィラは祈るように瞳を閉じた。
 ――大丈夫。きっとすぐに来る。二人で旅立つ、その時は。