第一話 帰郷

 1-3 忘れられた傷

 屋根裏には、柔らかなランプの明かりが灯っていた。ジュリアンが上がっていったとき、フィラは寝藁の上に座り込んで、さっき渡された資料に目を通しているところだった。古い毛布にくるまって、膝にはティナを乗せ、ページを捲る合間にその喉や耳の後ろをくすぐってやっている。なめらかな飴色の木組みの屋根裏と、古ぼけているけれど大切に使われてきたことがわかる灰色の毛布。乾いた寝藁と、それに混ぜ込まれたカモミールの匂い。背の低いチェストの上には、小さなランプとホットカモミールミルクの入ったマグカップが置かれている。
 とてもちいさな、幸福な風景。けれどそれを守り切ることすら、本当はこの両手では難しいのだろう。世界のありようすら変えようとしているくせに、ふいにそんなことを思う。
 梯子を上がりきって低い天井に身をかがめると、気配に気づいたフィラが顔を上げた。
「あ、おかえりなさ……い、は、変ですね」
 いつもの癖で言いかけた言葉を、フィラは途中で照れくさそうな微笑に変える。
「いや」
 ゆっくりとフィラの隣に腰掛けると、ふわりとカモミールの匂いが立ち上った。
「梯子を使うのなんて、大学の図書館以来だな」
 梯子を登って潜り込む狭くて天井の低い屋根裏部屋は、まるで秘密基地のようだ。フィラの隣に座って、換気のためか大きく開かれた天窓を見上げる。
「立てかけているだけだから、慣れるまでこわいですよね。最初の頃はよく寝惚けて転げ落ちそうになってました」
「ああ、おかげで目が覚めた」
 半分冗談でそう言って横目で見ると、フィラは意外そうに目を見開いていた。
「落ちそうになったんですか?」
「油断したら落ちそうだなとは思った」
 他愛のない冗談だが、フィラは楽しそうに笑う。
「じゃあ、明日の朝は気をつけないといけませんね。ここの朝は早いですし」
「寝坊は出来ないんだったな」
 確か、朝ミルクを配達してくれる人に寝藁も交換してもらうから、とさっきフィラが言っていた。ベッドを運び込めず、寝具をしまっておく場所もないこの屋根裏ではそれが一番合理的だったのだろう。
「そうそう。夜明けと同時に活動開始です」
「早寝した方が良さそうだ」
 口ではそう言いながら、ジュリアンはまた視線を天窓へ戻した。半月には満たない月が、煌々と光を放っている。
「明るいな」
 目を細めて小さく呟いた。フィラは見ていた資料をチェストに置き、ランプのつまみを回して芯を下げ、炎を消す。フィラの膝に乗っていたティナは小さく伸びをして「散歩に行ってくる」と宣言すると、天窓にひらりと飛び上がって外へ出て行った。
「……資料、見てたんですけど」
 僅かな沈黙の後、フィラが躊躇いがちに手を伸ばしてくる。どうするのかと思って見ていたら、彼女は真剣な表情でジュリアンの髪に触れた。神経など通っていないのに、なぜかぞくりとした感覚が背中を駆け抜ける。
「髪、切らないといけないですね」
 一瞬の動揺にフィラは気付いていないようだった。
「ああ……『ジェイ』は髪が短い設定だったな」
 フィラの方はエフィー役がフィアだったこともあって変装の必要はないが、ジュリアンはこの国の人間にはだいたい顔を知られているので、ある程度の変装はしなくてはならない。
「明日切ってもらっても良いか?」
 フィラは動きをぴたりと止めて、素早く数回瞬きした。
「え……私が、ですか?」
 思いっきり戸惑った表情のフィラに、ジュリアンは微笑を浮かべる。仕事中はもちろんだが、プライベートでもキースやフランシスやリサのような癖の強い人間とばかり接していると、この素直な反応が妙に新鮮で癒されるのだと、最近気付いた。
「床屋に出かけるわけにもいかないだろう」
 それもそうだと思ったのか、フィラは納得と迷いがない交ぜになった表情を浮かべる。
「……あんまり上手じゃないですよ」
 返事の代わりに笑みを深めると、フィラは頬を紅潮させて目を逸らした。
「どうして伸ばしてたんですか?」
 それでも触れたままの指先に、ジュリアンは目を細める。
「伸ばすつもりはなかったんだが……忙しかったというか、触れられるのが好きじゃなかったから忙しさを理由にしていたというか……」
 ろくでもない理由だとはわかっていたのだが、口に出すとますますどうしようもない。
「あ……」
 はっと何かに気付いたように手を引っ込めようとしたフィラの手首を掴んで引き留める。
「お前は良いんだ。だから頼んでいる」
 囁きながら指先に唇を寄せると、フィラは小さく息を呑んだ。
「お前はちっとも慣れないな」
 その慣れていない様子が面白くてこういうことを仕掛けるのだから、自分も相当性格が悪いとは思う。たぶん同意見なのだろうフィラは、抗議を込めて睨み付けてきた。
「む、むしろなんで平然としてられるのかがわかりません。慣れてるんですか?」
 恋愛沙汰に慣れているかと聞かれれば、答えはノーだ。とうに答えを知っているはずの少女にそれを告げるのも何だか気恥ずかしくて、ジュリアンは余裕ありげな笑みを浮かべる。
「慣れてるな。平然としているように見せかけるのには」
「……ほんとは平然としてないんですか?」
 半信半疑の表情でじっと瞳を覗き込んでくるフィラに、ジュリアンは笑顔のまま、けれど割と真剣に頷いた。
「ああ。全く」
 正直に答えたのに、フィラは「この嘘つきめ」とか言いたそうに眉をひそめる。宥めるように手の甲に口づけを落とすと、フィラはふっと目を伏せた。
 自制するべきか否か迷って、結局迷う余裕があるなら自制するべきだとジュリアンは判断を下す。
「……もう寝るか」
「そうですね」
 再びジュリアンと視線を合わせたフィラは、照れたように小さく微笑んだ。

 翌朝予定通り早起きした二人は、朝食の前に開店の準備を手伝った。ジュリアンはエルマーが若い男の人手があるときに片付けたかったという雨漏りの修繕と薪割りという、どう考えてもジュリアン向きではない仕事を引き受けて、しかし開店前に全て終わらせるという手際の良さを見せていた。開店準備が終わると少し時間ができて、以前ならその時間に城へピアノの練習をしに行っていたことを思い出しながら、ジュリアンと二人で朝食を食べた。
 開店後はジュリアンは表に出るわけにはいかないので、屋根裏でキースが持ってきた書類の束に目を通していた。どうやら協力者の一人でもある現在のユリンの領主が、時間があるならアドバイスをお願いしたいと送ってきたものらしい。新領主はジュリアンよりずいぶん年上らしいのだが、自分の半分ほどの年齢のジュリアンにも必要とあらばアドバイスを求められる人のようだ。魔術と戦闘技術に関すること以外ではこちらが教えを請う立場だとジュリアンが言っていたから、きっと有能な人なのだろう。酒場で話を聞いた限りでは、ユリンの人々からの評判も良かった。ジュリアンの前にいた領主が滅茶苦茶にしていったものを元に戻し、さらに治安と生活レベルの向上に努めるという、ジュリアンの路線を継承しているらしい。電気も魔術もほとんど使えず、この古めかしい生活自体がユリンの長所でもあるという特殊事情の中で、何を導入し何を切り捨てるのか、新しい領主も真剣に考えてくれているようだ。
 午後はまた少し時間が空いたので、フィラは昨日頼まれた髪を切るという任務を遂行することにした。裏庭に道具を置くためのワゴンと小さな椅子を持ち出して、ジュリアンをそこへ座らせる。
「写真の通りに切らないといけないんですよね……」
 キースにもらった資料を睨み付けて難しい顔をしているフィラに、ジュリアンが微笑した。
「そこまで気にしなくて良い。どうせキースも適当に設定したんだろうしな」
「そう……なんですかね……?」
 資料の中の『ジェイ』という人物は、顔立ちはジュリアンとそっくりなので整っていて、髪型も何だかちゃんとしているように見えるのだ。
「と、とりあえず頑張ります」
「ああ……程々にな。服は脱いだ方が良いか」
「うぇっ、あっ、そうですね!」
 動揺して思わず二歩くらい後退ったフィラに、ジュリアンは困惑した表情を向ける。
「……あんまり意識しないでくれ。こっちがいたたまれない」
「う、すみません。心を無にします……」
 フィラがはさみの刃先と見本の写真を見比べて精神統一している間に、ジュリアンは手際よく上半身裸になり、結んでいた髪もほどいてまた椅子に座った。
「よ、よろしくお願いします」
「いや、それはこちらの台詞だろ」
 思わず深々と頭を下げてしまったフィラに、半分呆れたような声が答える。フィラは意を決してはさみを構え、ほどかれた髪を一房手に取った。
「良いですか……?」
 この期に及んでまた問いかけてしまう。自分でもおかしいくらい怖じ気づいているとわかる。
「どうぞ」
 少し笑いを含んだ声で返されて、フィラはもう覚悟を決めるしかないと観念した。
「では、参ります」
 恐る恐る一回はさみを入れてしまうと、後は段々勇気が湧いてくる。まずはだいたいの長さに切ってしまって、それから形を整えようと考える。明るいところでは見慣れない裸身につい目が泳ぎそうになるが、フィラはなんとか手元に意識を集中した。ランティスや体格の良い僧兵たちに囲まれていると線が細いみたいに見えるけれど、こうして陽光の下で背中を見ていると、やっぱりしっかりとしなやかな筋肉がついていて、鍛えられているのがわかる。広い背中。男のひとの、身体だ。当たり前だけれど、改めて意識してしまう。
 一房、二房、丁寧に切っていたフィラは、途中ではっと息を呑んだ。
「この傷……」
「傷?」
 聞き返されて、恐る恐る手を伸ばす。首の後ろ。いつもは団服の襟の下に隠れているところから、左の肩甲骨に向かって。陽光の下でなければ見落としてしまいそうな淡い傷跡をなぞるように指先で辿った。
「ああ、それか」
 位置からしてほとんど致命傷だったはずなのに、ジュリアンは平然と頷く。
「以前に、ちょっとな。自分で見えない位置だから消すのを忘れていた。忘れる程度のものだ。気にするな」
 もう完全にふさがっているから、古い傷なのだろう。たぶん、フィラと知り合う前の。だから具体的なことは口に出さないのだと、わかっていてもどうしても気になった。黙々と髪を切りながら、考える。消すのを忘れていた、ということは。
「他の傷は消してしまったんですか?」
 後はバランスを見ながら整えるだけ、というところまで切り終えてから、フィラは怖々と問いかけた。
「ああ」
 小さく頷いてから、僅かに逡巡するような気配。
「俺は先代団長とは違うから……傷だらけの叩き上げの英雄と、傷一つ負わない人間離れした英雄と……どちらの演出が俺に相応しいかといえば、どう考えても後者だろう」
 それはつまり、英雄にならなければいけなかった、聖騎士団を立て直そうと足掻いていた頃の傷、ということだろうか。落とされた小さな呟きに、フィラは手を止めて、持っていたはさみをワゴンに置いた。
 少しだけ躊躇ってから、その背中に寄り添う。ジュリアンが振り向く気配がして、肩に置いた手にそっと手が重ねられた。
「ありがとうございます」
 誰にも言わないで来たはずの理由を教えてくれたこと。そしてそんな傷を負いながら守ってくれたこと。
「前に……」
 何故だか少し気まずそうに、ジュリアンは前を向く。
「あまり甘やかすなと言わなかったか?」
「良いんですよ」
 そもそもどこがどう甘やかしていることになるのかよくわからないのだが、それを措いておいたとしても。
「私がこうしたいだけだから」
 何だか気が抜けたみたいに、ジュリアンはため息をついた。
「まったく。勝てる気がしないな」
 背中に寄り添ったまま、フィラは小さく笑う。他に勝てるところなんてピアノの腕くらいなのだから、このくらいは許して欲しいと思いながら。