第一話 帰郷
1-4 合流
髪を切り終えて道具を片付けに店内へ戻ると、なぜかレックスがテーブルに突っ伏していた。
「あ、フィラ、領主様は?」
近くへ行くと、その横で半笑いしていたソニアが小声で尋ねかけてくる。
「あ、うん、今キースさんと二階に……」
すっきりしすぎて落ち着かないと苦笑しながら二階へ上がっていったジュリアンのことを思い出して、フィラは小さく微笑んだ。今頃幻覚魔術のプロフェッショナルであるらしいキースと共に、変装の仕上げをしているはずだ。
「あー……あはは」
ソニアはなぜか乾いた笑いを浮かべて、突っ伏したままのレックスの頭をぽんぽん叩く。
「どうしたの……?」
ぴくりとも動かないレックスに、フィラは首を傾げた。
「ああ、うん、熱中症……みたいなもん?」
「熱中症……?」
五月に入ったとはいえ、高地にあるここはまだまだ肌寒いと言っても良い気候だ。
「大丈夫? お水持ってこようか?」
とはいえ、友人がそれで参っているならもちろん心配になる。フィラが気遣うように顔を覗き込もうとすると、レックスはなぜか悲痛な呻き声を上げた。
「あ、フィラさん」
どうしようかとおろおろしていたら、後ろからキースに声をかけられる。
「そっちの旦那のことは俺が面倒見ときますんで、ちょっと頼まれてくれませんかねえ?」
「あ、はい。何でしょう?」
レックスからなんとなくあまり構ってほしくないオーラを感じた気がして、フィラは素直にキースに向き直った。
「いやあ、ありがたい。実はもうすぐリサさんが到着しそうなんですが、迎えに行く予定のサンディがバルトロさんのところに出かけてまして。ちょっとこれ届けてもらえませんかねえ?」
キースが差し出したのは、簡易封筒に入った何かのメモだ。魔術の痕跡を残したくないせいか、どうも第三特殊任務部隊《レイリス》の二人はアナログなやりとりも頻繁に使用しているらしい。
「わかりました。行ってきますね」
「必ず手渡しでお願いします」
フィラが深く頷くと、キースもにやりと笑って頷き、それからおもむろにレックスの隣に腰掛ける。
店を出る前に聞こえてきたのは、「まあ元気出せって。長い人生じゃよくあることさ」というキースのどこか楽しそうな声だった。
護衛としてついてきたティナを肩に乗せて、ユリンの裏路地を歩く。以前は当たり前のことだったのに、それが不思議と新鮮で特別なことに思えた。
大通りと平行に走る、すり減った石畳の裏通り。隙間から雑草の生えた石段。石橋の下のアーチが描くはっきりとした影。相変わらず野良猫のたむろしている狭い路地は、両脇の家々が窓に飾っている花が目を楽しませてくれる。ティナと一緒に猫に挨拶をしながらそこを抜けて、教会裏のアーチをくぐった。ほとんど人とすれ違うことはない、静かな道行きだ。
教会の裏庭の隅の石段を降りたところにある、バルトロの地下工房へ続く少し背の低い木戸の前で、フィラは立ち止まった。仕事を中断させられるのがあまり好きではないバルトロは、よく遊びに来るフィラにはノックなしで自由に出入りして良いと言ってくれていたけれど、今でもそのルールは有効なのだろうか。
少し首を傾げて考えてみたが、仮にノックしてみたとしてもたぶんバルトロには聞こえないだろう。
そっと扉を開いて中に滑り込んだフィラは、思わずその場で立ち止まって目を見開いた。石の壁がむき出しになった地下工房は、以前ジュリアンがそこにあったものを全て没収してしまったために空になっているはずだった。けれど今は、新たに作図されたらしい飛行機の設計図や空を写した写真が壁に貼り付けられ、見覚えのある四気筒エンジンが部屋の中央に鎮座している。おそらくこれから加工されて翼や胴体になるのだろう木材と金属板も部屋の一角に立てかけられていた。
戸惑いながら一歩踏み出したフィラの耳に、工房の奥の居間から微かな話し声が届く。
「……のリストの通り、お返しします。もし足りないものがありましたら、領主のラインムント・ゼーゲブレヒトまでご連絡いただければ対応するとのことです」
淡々とした話し声はサンディのものだ。
「もちろん、このことはユリンの運用ルールに抵触するものですので、他言は無用です」
「ああ、もちろん、もちろん。わかっているとも」
珍しくやや興奮気味に答えているのはバルトロだ。何となくどういう状況なのか理解したフィラは、足早に工房を通り抜けて居間へ続く扉を叩く。
「フィラ様がいらしたようです」
中から冷静なサンディの声が聞こえ、次いでバルトロが立ち上がったのだろう気配がした。
「ああ、フィラか。どうぞ入ってきなさい」
やはりいつもより少しだけ弾んでいる気がするバルトロの声に導かれて、フィラは扉を開ける。居間で向かい合っていたのは、声で予想していた通りバルトロとサンディだ。立ち上がったその場で嬉しそうに笑っているバルトロと、無表情のまま控えているサンディ。ジュリアンと初めて出会ったときとは対照的な光景だった。
「工房を見たかい? 記憶を戻してもらってから設計図や資料なんかも少しずつ返してもらっていたんだがね」
満面の笑みでフィラを出迎えたバルトロは、我慢できないというように勢いよく話し出す。
「今日、正式に飛行機の開発を許してもらえたんだよ」
「正確には、見て見ぬふりをするということです。実際の運用の許可は、サーズウィアが来るまで出せませんので」
律儀に水を差したサンディに、しかしバルトロの笑顔が翳ることはない。
「ああそうだね。もちろんだ」
「それで、フィラ様はなぜこちらに?」
バルトロに倣って立ち上がったサンディが、じっとフィラを見て、問いかけてくる。
「キースさんから、これをサンディさんに渡すようにって」
差し出した封筒を検分するようにじっと見つめてから、サンディはそれを手に取った。素早く中身に目を通したサンディは、納得したように小さく頷く。
「リサさんが到着したそうなので、迎えに行ってきます。バルトロ様はこの後踊る子豚亭へ?」
「ええ、そのつもりです」
バルトロが頷いている間に、サンディは火の消えた暖炉に歩み寄り、フィラが持ってきた紙と封筒に向かって魔術を使う。小さな紙片と封筒は炎すら上げずにさらさらとした灰になって崩れ落ち、暖炉の灰に紛れてしまった。サンディが使った魔術も、痕跡どころか発動した瞬間でさえフィラには魔力の動きが全く感じられないほど秘やかなものだ。すごく慣れた雰囲気だったのは、きっと普段からこんなふうに自分の痕跡を残さないように徹底しているからなのだろう。
「私はこのまま真っ直ぐリサさんを迎えに行きます。バルトロ様はフィラ様と一緒に踊る小豚亭へ向かっていただけますか? ティナさんもいるので大丈夫だとは思いますが、念のため」
「君さ」
フィラの肩の上で大人しくしていたティナが、サンディをうさんくさそうに見やりながら口を開く。
「カイに似てるって言われない?」
「言われますが、あそこまで融通が利かないつもりはありません。第三特殊任務部隊《レイリス》ですから」
それにどう反応したら良いのか、もちろんフィラにはわからなかった。
リサが踊る小豚亭に到着したのは、フィラとバルトロに遅れること一時間後のことだった。
「や〜、もう、疲れた疲れた」
裏口から入ってきたリサは完全に仕事帰りの雰囲気で踊る小豚亭のテーブルに突っ伏す。さっき同じように突っ伏していたレックスは、フィラが帰ってくる頃にはとうに復活して、隅のテーブルで黒髪になったジュリアンに何か熱心に質問していた。今は夕食前の時間帯で客が一人もいないし、キースの魔術で髪の色まで変わっているから誰か入ってきてから奥へ移動しても気付かれないだろう、ということらしい。ソニアは店の手伝いでいったん戻っているので、店内にいるのは今はフィラとジュリアンとレックスとリサの四人だけだ。見慣れない髪型と髪色のジュリアンは、自分自身でも落ち着かない様子で時折前髪を気にしながらレックスと話し続けている。
「何か飲み物用意しましょうか?」
だらしなく伸びているリサに、フィラは仕事モードで声をかけた。
「うん〜、お願い〜、なんか冷たいやつ〜」
語尾も姿勢ものびのびだ。余程疲れているらしい。
「いや〜しかし参った。まさかクロウがああなるとはね〜」
「リサ。何の話だ」
レックスと話していたはずのジュリアンが、リサの呟きを聞きとがめて立ち上がる。
「ああ、そっか。まだ情報来てないか。来ないよね、もうここ聖騎士団の関係者いないことになってるわけだし……」
険しい表情で見下ろすジュリアンを、リサはどこか力のない瞳で見上げた。
「四月三十日|午後一時《ヒトサンマルマル》。北米第四地区。天魔の掃討任務中、予兆なく戦闘地域と神域が交錯。直前まで大型天魔と対峙していたレイヴン・クロウは戦闘中行方不明《MIA》。他の僧兵の被害は救助に急行したシリイとトライとどこからか現れた謎の賞金稼ぎことワタクシが保護したため軽微。レイヴン・クロウの消息については現在聖騎士団副団長カイ・セルスから箝口令が出ている、と。報告としては以上かな」
飲み物を取りに行くタイミングを逃したフィラは、厳しい表情のジュリアンと虚脱したようなリサを見比べる。MIAが何を指しているのかわからないけれど、何故か背筋が寒くなるような、嫌な感じがした。
「……予兆はなかったのか」
「うん。全然。場所も限定的だったみたい。私も広域救難信号の波長をキャッチして初めて気付いたし。なんかさー……嫌な感じなんだよね。タイミングとか」
リサが言葉通り心底嫌そうに顔をしかめたところで、厨房の方からサンディが入ってくる。
「団長。リサさんから話は……聞いているようですね。キースさんがそのことで相談したいと言っています。二階へお願いできますか」
一目で状況を把握したらしいサンディは、決められた台詞を復唱するように迷わずそう言った。
「了解した。リサ、お前も来い。詳細を教えてもらいたい」
「うぃーっす。あ、フィラちゃん、飲み物二階に持ってきてもらっても良いかな」
気怠そうに立ち上がったリサが、へらりと笑って小首を傾げる。
「は、はい。もちろんです」
「ありがと〜」
リサはひらひらと手を振ると、先に歩き出していた険しい表情のジュリアンとサンディに続いて、二階への階段を上っていった。