第三話 無給休暇

 3-2 違法居住区の朝

 部屋に入って少ない手荷物を片付けると、ジュリアンはすぐにベッドに横になった。外では気を張っていたようだが、部屋に入ってからはずいぶんとだるそうだったので、そうしてくれてフィラもほっとする。時刻はもう九時を回っていた。
 夕食は来る途中の車の中で食べていたし、シャワールームもこの宿にはないようだ。もうやるべきことはないし、それにしばらく逗留するにしても疲れは出来るだけ早く取っておいた方が良いだろう。そう判断したフィラも、自分の荷物を片付けて水分補給用の飲み物を枕元に用意してからジュリアンの横に潜り込んだ。
 いつもより体温が高い。寝苦しそうではないけれど、やはり少し熱が出てきたみたいだ。もっと具合が悪くなりそうだったら、看病に必要なものは――
 どうやって調達するか考えていたはずなのに、自分で思っていた以上に疲れていたのか、フィラの意識もすぐに途切れてしまった。

 早めに寝たからか、翌日もフィラはいつも通りの時間に起き出した。ベッドを抜け出しても目を覚まさないジュリアンの首筋に手を当てて熱を測る限りでは、昨日とそんなに変わりはないようだった。まだ熱が上がりきっていないせいか寝汗もそんなにかいていなかったけれど、起きたら着替えてもらった方が良いかもしれない。
 歪んだガラスのはまった窓の外には灰色の空が広がっていた。結界は張られているけれど、上空を遮るような物理的な天井はここにはない。昔の記憶を掘り起こすと、天魔の侵入に対しては来た奴と戦う、というのがここのやり方だったはずだ。
 低く垂れ込めた雲は陰鬱だけれど、それでも太陽は活動を始めるには支障ないくらいの光を供給してくれていた。眼下に広がる町並みは、トタンと木材とどこかから集めてきたのだろう廃材で出来た掘っ立て小屋がほとんどだ。そこに住む人々はだいたいがWRUからの脱走兵で、出自にはこだわらない賞金稼ぎギルドに属しているはずだった。まだ夜が明けたばかりなのに、街の出口の方にはこれから稼ぎに行く武装した男たちが集まっている。
 街の中心にある一番立派な建物は彼らが所属している賞金稼ぎギルドの支部だろう。運営費の半分くらいが光王庁から出ているはずのギルド支部が違法居住区にあるのは、おそらくユリン付近の天魔を排除してくれる存在が、光王庁にとっても都合が良いからだ。ジュリアンが複雑な感情を抱く理由もわかるような気がする。
 そんなことを考えながら着替えを終えて、フィラはさてこれからどうしようかと考えた。
 ジュリアンが起きる前に、朝食と水分と着替えとたらいとタオルを用意しておきたいところだ。側を離れるなとは言われているけれど、ホテルのロビーまでなら大丈夫だろうか。
「ティナ」
 小声で呼びかけると、ベッドの下で丸くなっていたティナが這い出してきた。
「ロビーに行こうと思うんだけど」
「わかった。ついてく」
 皆まで言うなという勢いで、ティナは肩に飛び乗ってくる。フィラは足音を潜ませながら、そっと部屋を出た。

 ロビーは昨日着いたときよりも明るい光に満ちていた。昨日は気づかなかったが、天井に明かり取りの窓があって、そこから淡い日差しが差し込んでいるからだ。おかげで昨日は見えなかった埃や家具についた傷がよく見えて、記憶にあるよりもさらに古ぼけた様子なのがわかってしまう。
「おはようございます」
 フィラが声をかけると、昨夜とまったく同じ姿勢でカウンターに座っていた男が顔を上げた。
「一人で来るたあ感心しねえな」
「すみません」
 言われそうな気はしていたので、フィラは少しだけ首をすくめる。
「あの……もし出来ればお借りしたいものがあって」
「グレッグだ」
 唐突に遮られたフィラは、一瞬考え込んだ後で何と呼びかけようか迷ったことを察してくれたのかと気づいた。
「グレッグさん……」
「欲しいものは何だ」
 答えるグレッグの顔はますます恐ろしげな渋面になったが、あれは喜んでいる顔だよという昔の師匠の言葉を思い出したフィラは思わず破顔する。ここに来るのは数年ぶりのはずだけれど、変わらないものがあったことが嬉しかった。二年前に途切れてしまった自分自身の足跡と繋がっていくような、ほっとする、感じがする。
「体温計と、たらいか洗面器を貸していただけると助かるんですが……」
「ああ、あの坊ちゃん倒れたのか」
 ちょっと待ってろ、と言い置いて、グレッグはカウンターの奥に消えた。置いて行かれたフィラとティナは、手持ち無沙汰に周囲を見回す。
「……誰か来るね」
 空気の匂いをかいでいたティナが、小声でフィラに囁いた。いつでも部屋に駆け戻れるように階段の近くまで移動したところで、昨夜フィラたちが入ってきたのとは別の――おそらく正面玄関の扉が甲高い軋み音を立てながら開く。
「おはようございます、おやっさん!」
 威勢の良い声と共に入ってきたのは、巨大なクーラーボックスを二つ両肩にかけた十七、八歳くらいの赤毛の青年だった。
「おっ、かわいこちゃんがいる」
 玄関先にクーラーボックスを放り出してそそくさと歩み寄ってきてフィラの肩に手を置こうとした青年を、ティナが牙を剥きだして威嚇する。
「やだなあ、何もしないって」
「おい」
 へらへらと笑う青年を、カウンターの中から熊が威嚇した、と思ったら、その下からグレッグが姿を現した。洗面器を抱えたグレッグは、縄張りに入ってきた敵を発見した熊のような目つきで青年を睨み付ける。
「その娘っ子には手ェ出すな」
 慌ててフィラから離れた青年は、放置していたクーラーボックスを拾い上げてカウンターまで走った。
「あの子おやっさんの孫かなんか?」
「大恩ある人の連れ合いだ」
 邪険に相手をしながら、グレッグは洗面器をカウンターの上に置く。上にタオルがかかっているのでよくわからないが、明らかに頼んだものより多くの何かが用意されている。
「へ〜、おやっさんの恩人?」
「俺のじゃねえ。ここに住むろくでなしども全員の、だ」
 妙に静かな声色に気圧されるように、青年が姿勢を正したのが見えた。
「いくらおめぇが馬鹿でもわかってんだろうが。現在進行形で受けている恩を仇で返したりすれば……この俺が許しちゃおかねえ」
「わ、わかったよ、おやっさん」
 すごんでみせるグレッグに、青年は慌てて両手を振る。
「わかれば良い。今日の売りもんは何だ」
 いつもの無愛想に戻ったグレッグに、青年はほっとした様子でクーラーボックスを広げた。
「今日の行商はなかなか気前が良くってですね、瓶詰めのワインなんかもありますよ」
「じゃあそいつはいただきだ」
「毎度!」
 青年は機嫌良く敬礼して、ワインの瓶とグレッグが差し出したコインを交換する。
「ペットボトルは」
「水が六本、紅茶が三本、ジュースが五本、スポーツドリンクが一本ですね」
「二本ずつ寄越せ。スポーツドリンクはいらん」
「いよっ、太っ腹!」
 グレッグはうるさいとでも言いたげにコインとしわくちゃの紙幣をカウンターに放り、青年が並べたペットボトルをカウンターの下にごそごそと置いた。
「それと小僧、そこの娘っ子にスポーツドリンクの一本くらいプレゼントしてやれ」
「お、じゃあお近づきの印に」
「余計な話は良い」
 調子よく振り向いた青年に、背後からグレッグが釘を刺す。青年はあからさまに残念そうな表情で、フィラにスポーツドリンクのペットボトルを差し出した。中央省庁区ではまだ庶民もよく利用するペットボトルだが、ここみたいな一般の流通網から外れた場所では貴重なもののはずだ。
「あの、お代は……」
「もらえないもらえない、おやっさんの顔を立ててやってよ」
 人懐こく笑う青年に押し切られるように、フィラはペットボトルを受け取ってしまった。
「良かったら名前を」
 それに気を良くしてずいっと迫ってくる青年に、フィラは思わず一歩引いてしまう。
「おい」
 背後から地の底を這うような声がした。今にも噛みつきそうな低い声に、青年は飛び上がる。
「すいまっせん!」
「油売ってないでとっとと行け!」
「はいぃ!」
 青年は慌ててクーラーボックスを抱え上げ、転がるようにして外に出て行った。取り残されたフィラは呆然とそれを見送る。フィラの肩からずっと威嚇し続けていたティナが、ようやく警戒を解いて毛繕いを始めた。
「で、さっきの頼まれものだが」
 指先だけで手招きされてカウンターに近付くと、グレッグはカウンターの上に置いていた洗面器をフィラの方へ押し出す。
「これだ。持ってけ」
 かかっていたタオルを除けると、洗面器の中には新鮮なリンゴと洗い立てのタオルが二枚入っていた。
「水は部屋の奥の廊下の突き当たりだ」
「こんな貴重なものを……」
 こういう場所で野菜や果物を手に入れるのがどんなに大変なことか、フィラもよく知っている。
「勘違いするな。あの坊ちゃんが何をしようとしているかはわかってる。だからだよ」
 その言い方は、昔子どもの泣き声なんざこの宿には似合わねえと言ってフィラの相手をしてくれたときと同じだった。
「ありがとうございます、グレッグさん」
「早く戻ってやれ」
 ぶっきらぼうに言うと、グレッグはフィラに背中を向けてしまう。たぶん、照れ隠しだ。微笑んだフィラは、見えていないとわかっていながら、深く頭を下げた。

 部屋に戻ると、ジュリアンは目を覚ましていた。
「おはようございます」
 小声で言って、サイドテーブルに歩み寄り、もらってきたリンゴとスポーツドリンクとタオルと、車から持ってきた朝食を置く。
「着替えますか?」
「ああ……それは?」
 どこかぼんやりとした様子で頷いたジュリアンは、怠そうにテーブルの上のリンゴとスポーツドリンクを見る。
「いただいたんです」
「ここの主人にか?」
「はい、リンゴの方は。飲み物は……ここに飲み物を売りに来た方に」
 どうしてそうなったのかわからない、という表情をしたジュリアンは、念のために魔術で成分を分析してから頷いた。
「じゃあ、着替えの間にお水汲んできますね」
 ジュリアンが気怠い仕草でまた頷いたのを確認して、フィラは洗面器とマグカップを手に部屋の外へ出る。
 二人分のマグカップと洗面器を水で満たし、廊下で着替えが終わるのを待ってから部屋に戻った。それから投げ込みヒーターでお湯を沸かし、レトルトの野菜スープを作って、パンとナッツとリンゴと一緒に食べる。チーズは食べられそうだったら、と思っていたのだが、ジュリアンはそちらにも平気で手を出していた。
「良かった。食欲、ちゃんとありますね」
「ああ、夜頃には熱も引きそうだ」
 のんびりとした会話に、窓辺に座っていたティナがあくびをする。久しぶりのゆったりとした時間に、今だけだとわかっていても何だか幸せだった。
「じゃあ、後はゆっくり休んでください」
 食べ終わった後フィラがそう言うと、ジュリアンはほっと力の抜けた笑みを浮かべてベッドに横になる。
「悪いな、いろいろ」
「気にしないでください。あんまり魔術でどうにかしてばかりなのも良くないと思いますし」
 いつでも使えるように洗面器で濡らしたタオルを絞りながら答えると、ジュリアンの目元が優しく和んだ。
「そうだな……おやすみ」
「おやすみなさい」
 ジュリアンが目を閉じたので、フィラは出来るだけ音を立てないように食器を片付け、もらったスポーツドリンクを水で薄めてサイドテーブルに置いておく。それからきちんと畳んでまとめてあった洗い物をロビーに持っていき、グレッグに預けた。ついでに後で厨房を貸してもらえないか尋ねたら快く承諾してくれたので、昼食にはもっと消化に良いものを作ろうと決意しながら部屋に戻る。
 その後はキャンピングカーで発見した魔術教本を読んだり、ティナと猫じゃらしで遊んだりして時間を潰した。