第三話 無給休暇

 3-3 彼女が見せる悪夢は

 昼食頃には熱はまた上がっていて、フィラが作ってきたリゾットを食べるのも少ししんどかった。食後に解熱剤を飲み、また着替えてから眠る。ここ数年はそれどころではなかったので毎回魔術で誤魔化してきたけれど、先代団長が生きていた頃はよく寝込んでいた。夢うつつにその頃のことを思い出す。
 聖騎士団本部の奥の、殺風景で暗い部屋の中で、一人きりで悪夢を見ながら熱が下がるのを待っていた。最低限の監視は受け入れていたが、看病は断っていた。監視体制があるのにわざわざ人手を割いてもらう必要はないというのが理由だったが、今考えてみるとたぶんすぐ側で見張られるのも嫌だったのだろう。先代団長は時折見舞いに来たが、多忙なため毎回ではなかった。それ以外に誰かが来たことはあっただろうか。よく覚えていない。
 機械的に水分と栄養と睡眠を取っているだけだった記憶の中に、ふいに別の記憶が紛れる。淡いブルーのカーテンと、そこから差し込む光。枕元で見守る人の気配。どこから来たのかわからなかったその記憶が、聖騎士団に引き取られる前のものだったのだと、今ならばわかる。
 自覚と共に浮上する意識に、誰かが本のページをめくる微かな音が忍び込んできた。分厚い雲を通して差し込む淡い太陽光、サイドテーブルにそっと戻されるマグカップのことりと鳴る音。窓の外から聞こえる遠い喧噪と、鳩が眠そうに喉を鳴らす声。
 どこかほっとする人の気配にうっすらと目を開けると、すぐにフィラが顔を覗き込んでくる。
「暑いですか?」
「ああ……少し」
 ぼんやりと答えると、すぐに冷えたタオルが首筋を拭って、それから額に当てられた。少し気分が良くなってどうにか礼を言おうとしたけれど、気怠さに引き込まれるようにすぐにまたまどろみの中へ戻ってしまう。
 夢の中では、なぜかリサがしゃべっていた。
「どうせ君は忘れちゃうでしょ? そもそも私に覚えとく価値があるとも思えないし」
「そういう問題じゃない」
 答える声は、十年前の自分のものだ。
「いいよもう。カイ君に頼むから」
 そういえばこんな会話をしたことがあった。竜化症になりかねない無茶な魔術の使い方をするリサをたしなめたときだ。
「リサ」
「良いんだってば。忘れられるよりは忘れる方がマシ」
 リサが感情的になっていることに気づいて、ジュリアンは説得を諦めた。その感情をなだめるためだけに忘れないと約束することなど、あのときの自分は思いつけなかった。忘れるときは忘れる。竜化症にかかってしまえば、約束していても意味がない。あの頃は、それが自分にわかるすべてだった。
「忘れるんでしょ、君は」
「その可能性はあるが」
「忘れるよ」
 責めるような過去の声が、耳の奥で響く。
 ――忘れるよ。忘れる……――
 残響が谺を呼び、その声がまた残響を呼んで、やがて耳を聾するような轟きになった。
 ――忘れる――
 ――忘れる――
 ――そう、お前は忘れるだろう――
 重い鐘を打ち鳴らすような響きの中で、その声だけがふいにはっきりと聞こえた。
 ――今、ここにある、その幸せさえも――

 はっと目を見開いて、目の前にあった手を思わず掴んだ。
「ジュリアン?」
 柔らかな声が、不思議そうにジュリアンを呼ぶ。それに応えることもできないまま、掴んだ手を引き寄せてフィラを抱きしめた。
「悪い夢でも、見たんですか?」
「……ああ」
 頷いて、ふと自嘲の笑みを浮かべる。もう怖い夢など見ないと思っていたのに、今さら何に怯えているのかと。
 ぬくもりを手放しがたくてじっとしていると、フィラがためらいながら背中に腕を回してくる。
「何か飲みますか?」
 身体が冷えてくる前に、フィラはそっと囁きかけてきた。
「ああ」
 自分でも落ち着いてきたのがわかっていたので、素直に身を離してフィラが差し出してきたペットボトルを受け取る。
「着替えた方が良さそうだな」
 喉の渇きを潤すと、今度は下着が肌に貼り付く感触が気になった。半分は熱のためでもない気がする。
「そうですね。あ、新しいタオルあるので使ってください」
 フィラはジュリアンがいつも通りに受け答えしたことにほっとした様子で、着替えとタオルを差し出して席を外した。
 ジュリアンは着替えながら、窓辺でじっと様子を見ていたティナに視線をやる。
「何か干渉を受けた感覚は?」
 自然と表情が険しくなっているのを感じた。
「なかった、と思うけどね」
 ティナも瞳孔を探るように細める。
「……そうか」
 自らの身体の奥を探るように、胸に手を当てて瞳を閉じた。
 さっきの声は、カルマのものだった。この身の奥に埋め込まれた、神の核。その、本来の主。その影響をこちらが受けることはないと言われていても、その全ての機能が解明されていない以上、完全に信頼しきることは出来ない。自分自身でさえ。
 ――大丈夫だ。もしもそんなことが出来るなら、とっくに自分は理性を失っているはずだ。
 そう言い聞かせながら、着替えを再開する。着替え終えてフィラを呼ぶ頃には、気分もだいぶ良くなっていた。体温計で測定すると、体温ももう平熱に近くなっている。
「熱は下がってますけど……夕食までまだちょっと時間がありますし、寝ててください」
 すっかり世話を焼くモードになっているフィラは、体温計を見つめながらそう言った。機械的に管理されるか自分で全ての責任を持つかのほぼ二択だった身としては、何だかこういうのは新鮮だ。
「な、なんで笑うんですか?」
 見つめている内に、いつの間にか笑みを浮かべてしまっていたらしい。こちらの表情に気付いたフィラが不本意そうに眉根を寄せる。
「いや。悪くないなと思って」
「何が……いや、やっぱり良いです」
 問い返しかけたフィラは、途中で何か恥ずかしいことを言われると思ったのか顔を赤くしながら視線を逸らした。そういう反応をされるともっとからかいたくなるし、やり過ぎて怒られるのも悪くないと気付いてしまったのはつい最近のことだ。もっと以前から無自覚に同じことをしてきた記憶もあるから、フィラにはさぞかし性格が悪いと思われていることだろう。
「も、もう! ニヤニヤしてないで寝てください! ぶり返しますよ!」
 怒ったようにそっぽを向きながら、フィラの声にはどこか甘さが滲む。ティナの盛大なため息を聞き流しながら、ジュリアンはまたベッドに横になった。
「夕食の時間になったら起こしますから」
 フィラはベッド脇の椅子に座りながら、サイドテーブルに置いてあった本を引き寄せる。
「それ、魔術の教本か?」
 横目に見た本の表紙に見覚えがあったので、何となく尋ねた。眠気はもうなくなっていたので、少しだけ話したい気分になっている。
「はい。たぶん、フィアが置いていったんだと思います」
 見やすいように傾けてくれた本の表紙は、やはりよく初年兵が手にしている初級魔術の解説書だ。同じシリーズを使っていたこともあるのだが、十五年くらい前の話だし、その時もざっと読んで自分の知識と照合しただけだから、内容に関しては間違っていなかったことくらいしか覚えていない。
「わかりやすいのか?」
 初年兵の訓練も、実践はともかく基礎理論の講義をすることなどなかったから、彼らがどんな風に魔術の基礎理論と向き合い、苦労しているのかは正確には把握できていなかった。その辺りのことについて一番詳しく教えた相手は、たぶんフィラだ。ふと興味が湧いて尋ねてみると、フィラは少し考え込んでから微笑んだ。
「これだけ読んだらちょっとわかりにくい気もするんですけど」
 ふと目を伏せた横顔が、不思議なほど美しく透き通って見えた。
「先に実践を教わってたから、ああそういう意味があったんだなって」
「とにかく実戦的な方法ばかり先に詰め込んでもらっていたからな。それでも使うことは出来るが、理論を知らないと応用が利かないから、知っていた方が良いとは思う」
「そうですね」
 顔を上げたフィラが、ジュリアンを真っ直ぐ見つめてやわらかく目を細める。
「ジュリアンの魔術を見てると、本当にそうだなって思います」
 直球で褒められたことよりも向けられた微笑が妙に眩しくて、ジュリアンは視線を逸らした。もう熱はないはずなのに頬が熱い理由は、あまり考えたくない。
「まあ、俺は……必要に駆られて覚えただけだ」
 言い訳のように呟くと、フィラが小さく笑う気配がした。照れているとでも思われているのだろう。それは間違っていないが、たぶん理由は彼女が思っているのとは別のものだ。
「わからないところがあったら、後で教えてもらっても良いですか?」
「ああ、もちろん」
 目を閉じながら答えると、静かな声が「ありがとうございます」と囁いた。目を閉じたせいか、耳を撫でていくような、ごく近い気配の声に聞こえた。

 一日ゆっくり休んだためか、翌日にはすっかりいつもの調子に戻っていたのだが、大事を取って出発を早めることはしなかった。次に大きな街に立ち寄れるのは、予定では一週間後だ。
 さすがに元気になっているのに一日寝ていられる気がしなかったジュリアンは、体調を見ながら車体の整備と食料の買い足しを終え、午後の残りの時間はホテルの部屋でフィラとのんびり過ごすことにした。
 時折投げかけられるフィラの質問に答えながら、居住区に敷かれた違法なネットワークに入り込み、聖騎士団の敷設した天魔監視装置のデータをかすめ取る。暗号化されて他のデータに紛れているので普通なら見つけ出すことすら出来ないはずだが、システムを構築し運用していたジュリアンにとってはさほど難しいことでもない。暗号化を解除するためのキーも、もちろんこうなることを見越してコピーしてきていた。
 データをかすめ取った目的は、今後の旅路の安全性を高めることだ。キャンピングカーに用意されていた情報端末でデータを分析し、天魔の群れと遭遇しない可能性が高いルートを探していく。いつもは部下にさせている仕事だったが、理論を知らなければいざというときに困るので、自分で全ての作業を出来るようにはしていた。だから、それもさほど手間取ることなく終わる。
 問題は、ここから先リアルタイムの情報を入手するのが難しいということだ。電波や魔力波をかぎつける天魔も存在するから、居住区の外で単独行動を取りながら通信網にアクセスするのは危険が大きい。それでは本末転倒だから、今得られる情報と自分の目で見た情報だけで、どうにか予測をつけながら乗りきっていくしかない。
 作業が一段落して顔を上げたジュリアンは、いつの間にか集中しすぎていたことに気付く。遠慮していたのか、集中している間にフィラが声をかけて来ることはなかった。それどころか、いつの間にか部屋からいなくなっている。ティナが警戒しているとはいえ、油断しすぎたようだ。深々とため息をついたところで、入り口のドアが開いた。二人分のコーヒーと、なぜかいかにも子どもが喜びそうな菓子類の載ったトレイを手にしたフィラが、笑いを堪えているような表情で入ってくる。
「コーヒーを淹れに行ったら、そろそろおやつの時間だろうってグレッグさんが」
 ジュリアンは説明と共にテーブルに置かれた菓子をじっと観察する。ジュリアンにはあまり馴染みがない類の食物だが、見たことがないわけではない。以前ハロウィンの日にユリンで配らされたのと同じような種類の、つまりやはりどう見ても子ども向けの菓子だった。
「お前、まだ子どもだと思われてるんじゃないか?」
「絶対六、七歳の子どものままだと思われてますよね」
 フィラはくすくすと笑いながら、カラフルなチョコレート菓子の袋を開ける。
「前に来たときの印象のままなんだろう」
 ジュリアンも微笑しながら、フィラが差し出した奇怪な色にコーティングされたチョコレートを受け取った。