第五話 挿話
5-3 面倒くさがらない男
「……もう、用はないと思いますが」
我に返ったフィアが、あからさまに警戒した視線を向けてくる。フランシスは笑顔を返しながら、その下で真剣に考えていた。
自分の望み。それがここまでわからなくなったのは久しぶりだ。今までフランシスはいつだって、自分が何を望んでいるのか自覚した上で行動してきた。そうでなければ立場やしがらみに呑み込まれると、光王親衛隊長に就任する頃にははっきりとわかっていた。
最終目標は青空を取り戻すこと。そのために二重スパイのような真似をし、親を裏切り、利用出来るものは何でも利用してきた。
その目的を果たすためにすべきことをし終えた現在の指針は、サーズウィアの後に魔術が消えることで訪れる混乱をできる限り回避することだ。その仕事にも一段落ついたら、フォルシウス家の威光を取り戻す必要もある。優先順位の問題で犠牲にはしてきたが、フォルシウス家を継ぐ者としての責任を捨て去るつもりはない。そうしなければフォルシウスの一族だけでなく、関連企業に勤める多くの従業員が路頭に迷うことになる。それはリラ教会が支配する地域にとっては、絶対に避けなければならない事態でもあった。
――そうだ。望みはつきない。成し遂げるべき課題はいつだって山積している。それを笑顔で片付け、感謝も嫉妬も好意も悪意もあらゆる激しい感情を向けられながら、自己満足に浸るのが自分の生き方ではなかったか。
でも今口に出してしまった言葉は、青空を取り戻すためのものでも、サーズウィアの後にやって来る混乱を回避するためのものでも、フォルシウス家を継ぐ者としての義務を果たすためのものでも何でもなかった。
では、これは何だ。求めても手に入れられる保証はないのに、それでも求めてしまったものは……?
「フィア、こっちへ来てくれませんか?」
一度間違えてしまったものは、もう取り返しがつかない。開き直ったフランシスはうっとりと微笑みながらフィアに手を伸ばす。悪魔に魂を売ったというより、自分自身がメフィストフェレスになったような気分だった。
フィアは怯えたような瞳でフランシスを見つめ、それから迷うように俯いて唇を噛みしめた。
「本気で、仰っているのですか」
疑問ですらない呟きを零したフィアにも、答えはわかっているはずだ。
「もちろん」
フランシスは笑みを貼り付けたまま答える。部屋の扉の鍵は開いたままだ。逃げようと思えば簡単に逃げられるのに、フィアはぎゅっと拳を握りしめて顔を上げた。真っ直ぐ瞳の奥まで貫くようなその視線を、フランシスは今まで経験したことがないような高揚感と共に受け止める。
見抜いて欲しいのだ。いつものように、隠してきた自分の本当の願いを。そう思いながら、迷う少女の、それでも真っ直ぐな瞳を見つめ返した。
望みがわからないなんて嘘だ。今この瞬間に望んでいることは、フィア・ルカがこの手の中に落ちてくること。その望みは今までの目標を阻害するものだから、本当は自分を騙してなかったことにしなければならない。一時の気の迷いにしなければならないものだ。でもそう誤魔化すには、この感情は余りにも確信に満ちていた。
――構うものか。両方手に入れてしまえ。
役立たずの頭の中でメフィストフェレスが囁く。もはや後戻りは叶わない。それならば、嘘など捨て去ってしまえ、と。
フランシスが開き直ったのとほぼ時を同じくして、フィアは一歩踏み出した。ぞくりとした快感が背筋を駆け抜ける。たったそれだけのことで、身も心もさらに高揚する。
躊躇いながらゆっくりと縮まる距離に、鼓動が早くなっていくのを感じた。フィアも同じだろうか。緊張しきったその表情と、真っ白な指先にきっと同じだと確信する。
やっと手が届くところまで来たフィアに、フランシスは優しく――自分でもうさんくさい自覚のある笑顔を向けた。伸ばしたままだった手に、フィアがそっと手を重ねる。冷たく震える指先を捉えたまま、フランシスは立ち上がった。
「……逃げないの?」
その手を握り返しながら言うような台詞ではないだろうと、自分でも少し笑えた。
「フランシス様がお望みなら」
本当は怖いくせに、震えているくせに、フィアはそれでも真っ直ぐフランシスの瞳を見つめて答える。その瞳に差し込む人工的な明かりさえも、ひどく美しく感じた。
「俺の……望み……?」
すべて見通そうとするようなその瞳に見惚れながら、小さく呟く。
何を望んでいるのか。そんなことはわかりきっている。
最初は比べられるのが苦痛だった。ジュリアンに出来ないことを自分は出来ると証明したかった。下らない比較をする人間全員に、そんなのはするだけ無駄なのだと突きつけてやりたかった。
そのために出来ることを、幼い頃からずっと考えていた。そして思いついたのは、青空を取り戻すためにジュリアン・レイには出来ないことをしてみせることだった。その空を取り戻すために手をこまねいていた大人たちと自分は違うのだと、ジュリアン・レイと同じだけの犠牲なら払った、出来る限りのことはしたと、誇りを抱いて空を見上げられる何かを成し遂げること。
それはフランシスにとっては、フォルシウス家の跡継ぎである自分の価値を高め、その地位を利用して青空を取り戻す手伝いをすることに他ならなかった。
やがて反抗期の子どもの意地だったはずのその手段は、少しずつ目的に成り代わっていく。ジュリアンとの間にあった確執も奇妙な化学反応の果てにどこか共犯者じみた友情に変わり、聖騎士団が壊滅した頃には他人の評価やジュリアンとの比較などどうでも良くなっていた。付き合いが長くなればなるほど彼我の違いは明瞭だったし、青空を取り戻すという大それた望みの前では、他人の評価など便利な駒の一つでしかない。
「フランシス様……?」
緊張しきった声に名前を呼ばれて、はっと我に返った。
両方手に入れてしまえ。悪魔はそう囁いた。けれど、そのために出来ることは何だ? 少なくともこちらを真っ直ぐ見上げる少女を組み敷いて、嫌われてしまうようなことをする、なんてことは望んでいない。
嫌われたくない。
それは、どうでも良かったはずの他人の評価を求めることだ。奇妙な気分だった。フィアはフランシスが何をしようと、ずっとその望みを叶えようとしてきてくれたのに。
「君はいつも俺の望みを叶えようとするんですね」
フランシスがフォルシウス家を裏切っていることに気付いて、協力すると告げたその時から、フィアはずっとそうだった。自分の命を好きなように使えと言い、フランシスの指示も待たずに次々と先回りして望みを叶えようと動いていた。それに気付いた瞬間、すうっと胸の奥を冷たいものが撫でていったような心地になる。
「君の望みは何? 君はどうしてここにいる……?」
たぶん笑顔は消えている。フィアの表情もフランシスのそれを映したように強張っていた。
「君が逃げても逃げなくても、俺は自分の役割を放棄したりはしませんよ」
卑怯な言い方をしている自覚はある。フィアはフランシスの望みを知っている。そしてきっと同じ望みを持っている。
「何を……言わせたいのですか」
フィアの視線に責めるようないろが宿った。当然だとフランシスも思う。お互いにわかっていながら、下らない意地の張り合いをしている。それでも自分の方から大事な言葉を口に出来ないのは、勇気がないからだ。ここで先に言われてしまったら、きっと一生頭が上がらないのに。
それでも、どうしても知りたかった。
命を預けても良いと思ってくれたのはなぜだ。あの頃の自分にそんな価値はなかったはずだ。あの時、十四歳のフィアが殉じたのは、フランシスの目的――空を取り戻すこと、だったのではないか。
その目的が果たされようとしている今もフィアがフランシスの駒でいてくれるのは、サーズウィアを呼ぶためにジュリアンが諦めなければならなかったものをフランシスが一つ一つ拾い上げているからだ。取り戻された青空を人々が呪わない社会を作り上げられるように。
それを上回る気持ちでなければ意味がない。そうでなければ、一時的な気の迷いで求めているわけではないと知られた途端に逃げられる。なぜならこの気持ちは、その目的を果たすためには邪魔でしかないものだから。
(……そうか)
自分は恐れているのか。やっと腑に落ちる。嫌われること、拒絶されること、フィアの望む未来と自分の願いが一致しないかもしれないということ。
恐怖の正体がわかってしまえば、恐れは押さえ込める。
「フィア」
冷え切った少女の手を引いて、その瞳を覗き込んだまま細い腰を引き寄せた。フィアは一瞬驚いたようにフランシスの身体を押し返そうとしたけれど、結局ろくな抵抗もせずに腕の中に収まってしまう。フィアの頬に手を当てて、視線を合わせる。
「俺は、君が好きですよ」
囁きながら探しているのは、自分と同じいろの恐怖だ。
「全てを捨てても、君を選べるくらい」
嘘ではなかった。今、この瞬間に本当にどちらかを捨てなければならなかったとしたら、間違いなくフランシスはフィアを選んだだろう。フィアが同じだけ求めてくれるなら、きっと。
「君はどう?」
キスの直前みたいな距離でひそやかに問いかける。フィアの瞳が揺れて、誘われているような気分になった。けれど今は、そんな都合の良い解釈を自分に許したりはしない。彼女のそんな表情が、ただ自分だけに向けられていることには深い満足を覚えるけれど。
そうやってフランシスはじっと待ち続けた。揺れる瞳の奥の熱が、ゆっくりと静かな覚悟に変わっていくのを。
「私は……あなたに、何も捨てて欲しくはありません」
当然だ。何も捨てるつもりなどない。これまで積み重ねてきた全てのものも。今、腕の中から真っ直ぐこちらを見上げている少女の想いも。どちらかを捨てなければならなかったとしたら。そんな局面に自分を追い詰めるつもりなどさらさらない。
「捨てないよ」
そのために犠牲にする苦痛も労力も、フランシスにとっては大したものではない。捨てられるけれど、捨てたりはしない。
「君が俺の側にいて、そう望んでくれるなら」
だから。――だから、何だ? 言いかけた言葉を呑み込む。そこから先を言葉にできないのは、フランシスの望みを叶えるためではなく、フィア自身に望んで欲しいからだ。押し返そうとしたときに腕に添えられていたフィアの手が、ぎゅっと服の布地を掴む。
「私は……」
どこか切羽詰まったような視線で、フィアはフランシスを見上げた。求めても良いのかと、許しを請われているような気分になる。
「言って」
だから先を促した。ただ彼女の気持ちを、その唇から告げて欲しかった。瞳の奥の覚悟が、隠しきれない激情と共にフランシスを射抜く。もはやその瞳の訴えてくる感情だけで充分だったけれど、それでもフランシスはフィアの言葉を待った。ゆっくりと、緊張に強ばった唇が開く。
「私は、あなたの側にいたいです。ずっと……何があっても」
――ああ、これこそが待ち望んでいた言葉だ。
震えるような歓喜に、一瞬我を忘れた。夢中でかき抱いたフランシスの背中に、フィアも縋り付くように腕を回す。きつく抱きしめた感触に、あらゆる理性と理屈が塗りつぶされていく。
「好きだよ。好きだ……」
熱に浮かされたように呟く。そして本当に熱があったんじゃないかと思い出して微かに笑う。それでも良かった。だって、ずっとこのときを待ち望んでいたのは本当だ。
「私も好きです。フランシス様」
小さく囁かれた言葉に、知らない感覚が胸の奥から湧き上がってくる。フィアが共に歩んでくれるなら、どんな面倒なことでも乗り越えられる気がした。
とりあえずは、明日実家で両親に敷かれた針のむしろに耐えるところからだ。それを思い出しても、先ほどより憂鬱には感じなかった。