第六話 グロス・ディア
6-4 願い事
変化が起こったのは、ジュリアンが黒い立方体の中へ入っていった五分ほど後のことだ。頬を撫でる風のような気配を感じたフィラが顔を上げると、音もなく匣が縮み始めたところだった。
「え……?」
思わず立ち上がって駆け寄ろうとして、まだ結界が維持されたままなのに気付く。
「大丈夫だよ」
ティナがリョクの背中の上からいつもと同じ口調で話しかけてきた。
「もうすぐ終わるし」
確かにティナが言うとおり、匣が消えてしまうのはもう時間の問題だろう。心配なのは中にいるジュリアンが無事なのかどうかだ。抵抗なく通り抜けられるのだから、押し潰されてしまうなんてことはないはずだけれど。
どくどくと鼓動を打つ胸を押さえて、じっと匣が縮んでいくのを見守る。何が起こるか予測も出来ない場所だから、ティナが大丈夫だと言ってくれても、それでもどうしても怖かった。匣はみるみるうちに縮むスピードを上げ、中央へ向かって収縮していく。やがて中心地点に立っていたジュリアンを突き抜けるように匣は縮んで、その姿が現れて、それからさらに匣は縮んで彼の掌の中に収まった。
「ジュリアン!」
どこか苦しげな表情で立ち尽くすジュリアンに、フィラは思わず駆け寄る。
「大丈夫ですか? どこか具合が悪いとか……」
顔を上げてフィラを見たジュリアンは、力の抜けた笑みを浮かべた。
「大丈夫だ」
そう言って何かを手渡そうとするように右手を差し出されたので、フィラは反射的に受け取ろうと両手を出してしまう。
「これ……」
手の上に落とされたのは、さっき縮んでジュリアンの手に収まった黒い匣だった。
「お守りみたいなものだ。持っていてくれ」
「は、はい。あの、中で何が……」
説明する声にもどこか覇気がなくて、フィラは心配になってしまう。けれどジュリアンは、まだ答えられないと言うように首を横に振った。
「行き先は教えてもらえた」
それだけを短く答えると、ジュリアンはどこか疲れたようにリョクとティナの方へ歩いて行く。
「暗くなる前に宿泊の準備をしよう。明日の予定は……それから相談しても良いか?」
「……わかりました」
肩越しの声に、フィラは躊躇いながら頷いた。様子がおかしいからちゃんと話を聞きたかったけれど、もう間もなく暗くなってしまう。その前にキャンプの準備をしなければならないことは確かだった。リョクに積んだままだった荷物を下ろし、黙々と宿泊の準備を始めたジュリアンに倣って、フィラも夕食の支度を始める。無言のまま立ち働く二人を、ティナもどこか心配そうに見つめているようだった。
どことなくぎこちない雰囲気のまま夕食を終え、ジュリアンと交代で水浴びをし、それからティナとリョクを外に残したままテントに入る。この付近なら危険は少ないだろうとジュリアンが判断したので、今日は結界は張っていなかった。
寝具の上に腰を落ち着けた後もまだ何か考え込んでいるジュリアンの隣に座って、フィラはその横顔を見上げる。
「明日は、湖に沿って東へ向かう。少し行ったところにラファスという村があるらしい。そこからなら、向こう岸に渡れるんだそうだ」
ジュリアンはさっき口にした言葉を忠実に守るように、明日の予定について話し始めた。
「村……ってことは、人がいるんでしょうか?」
「どうだろうな。匣の中で会った存在から渡された情報では、少なくとも危険はないようだったが」
相変わらず現実とは思えないこの国に、人間が住んでいるなんて、今はもうむしろあまり想像がつかない。妖精たちは人間、というには余りにも姿形も思考もかけ離れているようだったから、すっかりそのイメージが染みついてしまった。
「えっと、他には何かお話したんですか?」
それだけだと、ジュリアンの様子がおかしい理由にはならない。ジュリアンは少し迷うように眉根を寄せ、小さくため息をついた。
「竜化症のことを話した」
その表情と声色に、ずっと胸の奥にぴりぴりと居座っていた嫌な予感が確かな形を与えられる。
「竜化症……良くないんですか?」
ここに来るまで、毎晩調律はしてきたけれど、フィラには音の乱れ方から竜化症の進み具合を測ることは出来ない。グロス・ディアに入ってから、なんとなくあまり良くないんじゃないかとは思っていたけれど、怖くて聞けなかった。
「……ああ。ここの魔力は、俺には濃すぎる」
感情を押し殺すように目を伏せるジュリアンのコートの袖を、フィラは思わずぎゅっと掴む。
「私、何か出来ること、ありますか?」
必死すぎて妙に片言になってしまったフィラを見下ろして、ジュリアンは静かで穏やかな笑みを浮かべた。その表情に、視線に引き込まれるように、フィラはただジュリアンを見上げる。フィラが掴んでいない方の手が、愛おしげに髪を撫で、輪郭を辿るようにそっと頬に添えられた。ジュリアンがそのまま覆い被さるように距離を縮めてきて、フィラはほとんど条件反射みたいに、でも確かな意思を持って瞳を閉じる。
唇が触れた。何かを確かめるように、何度も何度も。深くなっていく口づけに、フィラはジュリアンに縋るようにその服を掴む。背中を支えながらゆっくりとフィラを寝具の上へ押し倒したジュリアンの吐息が、微かに耳に触れた。
「側にいてくれ」
懇願するような囁きが、先ほどの問いの答えだ。ほとんど真っ白になった思考でもそれだけはわかって「はい」と答えたけれど、たぶんまともな声にはなっていなかった。
夜明け前に目が覚めて、フィラはまだ眠っているジュリアンを起こさないように足音を忍ばせながら一人でテントを出た。早起きのリョクは静かに草を食み、散歩に行ってしまったのかティナの姿は見えない。周囲には朝霧が立ちこめている。
ジュリアンが起きる前に朝食の準備まで済ませてしまおうと、フィラは湖の畔に行き、しゃがみ込んで顔を洗った。夜明け前の薄明の中でさえ濃いコバルトブルーの水は、両手で掬って近くで見ると驚くほど透明度が高い。持ってきたタオルで顔を拭いて、ぼんやりと水面を見つめた。向こう岸もレルファーの大きな幹も、霧に隠されて今は見えない。空を覆い尽くすレルファーの葉はゆっくりと金色に染まり始めて、その色が霧も同じ色に染めていく。まるで光そのものに包まれているみたいだ。
ぼんやりとその光景に見とれていると、羽織っていたミリタリージャケットの胸ポケットで何かが震えた。何だろうと思って取り出すと、昨日ジュリアンから受け取ったまま忘れていた『お守り』だった。掌に載せたそれは、昨日見た『匣』とまるで同じ、どこから見てもどの面も一切光を反射しない真っ黒な立方体だ。観察しているうちに、匣から吹きこぼれるように闇があふれ出した。それはすぐに一条の束にまとまって、光に満ちた金色の霧に少女の影を映し出す。
「誰……?」
白目のない瞳、尖った耳。黒いワンピースに白い肌の、不思議な少女が湖の上に浮かんでいた。匣の中から現れた姿、ということは、昨日ジュリアンが匣の中で会った存在なのだろうか。
「そう。私はノクタ・エデオ。匣の闇。どうぞノクタとお呼びください」
フィラの思考を読み取ったように、聞き取りやすい共通語が頭の中に響いてくる。
「私に……何か……?」
ジュリアンではなくフィラに、いったい何の用があるというのだろう。一人きりになったタイミングを見計らったように現れた少女に、フィラは微かに緊張する。
「あなたに、出来ること」
少女はフィラの張り詰めた視線には気付かない様子で、平坦な声で言った。
「あります。それを提案しようと考えて、このような手段を取らせていただきました」
「私が……出来ること?」
唐突に現れて、唐突なことを言い出したとしか思えないけれど、なのに妙に気になる。胸の奥がざわつく。それはどこか落ち着かない、不穏なざわつきだった。
「昨夜言っていたでしょう。何か出来ることはないか、と」
やはりフィラの不安には気付かないのか、あるいは気付けないのか、ノクタと名乗った少女は淡々と話し続ける。
「昨日彼にも提案しましたが、受け入れていただけませんでしたので、あなたからも言ってもらえればと。あなたの中にある光の神の力をティナに渡し、あなたがここに残れば、彼の竜化症の進行を遅らせられる可能性が高まります。誰かを守りながら戦う必要がなくなれば、彼が魔術を使う頻度を減らすことが出来ますから。現状で竜化症の進行を遅らせるには、それが一番有効な手段であるように思えるのですが」
足手まといだと、言われている。自分でもそうだと思う。でも、だめだ。
「……無理です。そんなの」
立ち上がって真っ直ぐ少女を睨み付け、からからに渇いた喉から絞り出すようにそう答えた。
出来るわけがない。そんなひどいことを、今さらジュリアンに言うなんて。昨夜のことがなくても、言えない。言えるわけがない。
「だって、私が同じことを言われたら……きっと耐えられない」
泣くのを堪えて、目に力を込めるフィラを、ノクタは湖と同じくらい凪いだ瞳で見返した。
「考える余地は」
「ないです!」
聞いていたくなくて、思わずそう叫ぶ。ほとんど無意識の内に、手にしていた匣とタオルを放り出して、フィラは踵を返した。悔しさに涙が滲んで、そんな顔をジュリアンには見せられないと思ってそのまま森へ駆け込んだ。
悔しかった。本当はノクタの言うとおりだとわかっていたから。足手まといになるとわかっていてついて来た。それでもできる限りのことはしようと思ってそうしてきたけれど、でもここではフィラを守るための結界を作ることすらジュリアンの負担になっていて、このまま、自分を守るためにジュリアンが消滅《ロスト》してしまったら――
押しとどめてきた不安が、恐怖が、ノクタの言葉で決壊してしまったみたいに、嵐のように押し寄せてくる。
痛い。いたい。それでも側にいたい。消えないで。行かないで。
両手で顔を覆った。悔しくて悔しくて、そのまま拳を握りしめる。ぜんぶ、ぜんぶただのわがままだ。願うことしか出来ないなんて。
「泣いてるの?」
ガラスが触れ合うような高く澄んだ声に、フィラははっと顔を上げる。気付かないうちに、妖精たちが周りに集まっていた。
「あの人のせい?」
「一緒にいたくないの?」
状況が何もわかっていないのか、妖精たちは無邪気に残酷な問いを投げかけてくる。
「だったらわたしたちのところにいらっしゃいよ!」
「歓迎するわ」
「匣の闇様も喜んでくださるでしょうし」
「私たちもあなたのこと好きだもの」
「良い匂いがするものね」
やめて、と叫びたいのを堪えて、フィラはどうにか浅い呼吸を落ち着けようと深呼吸した。
「……行かない」
何とか絞り出した声は、それでも自分でも誰かと思うくらい低く響く。そこに滲む明らかな怒気に気圧されたのか、妖精たちが戸惑ったようにざわめいた。
「私は……」
「フィラ!」
森と妖精たちのざわめきを切り裂くように、いつになく切羽詰まった声がフィラを呼ぶ。その声に掻き消されるように、妖精たちは幻のように姿を消した。
こんなひどい顔を見せたくはないのに、逃げることも出来なくて、フィラは俯いたまま立ち尽くしていた。逃げるなんて、出来るわけない。泣き顔を見せてしまうことになっても、声の主が駆け寄ってくるのを待つことしか出来なかった。
駆け寄ってきた勢いのまま、ジュリアンは無言でフィラの腕を掴む。手加減を忘れたのか、少し痛いくらいの力の強さだった。その痛みがジュリアンの想いを伝えてくるようで、押しとどめていた涙がついに零れ落ちてしまう。
――だめだ。止められない。
俯いたままのフィラを、ジュリアンはいつになく乱暴に手近な木の幹に押しつけた。
「行くな」
決して大きな声ではなかったのに、まるで慟哭のように聞こえる。泣いているのは、フィラの方なのに。そのままジュリアンは、表情を隠すようにフィラの肩に顔を埋めた。
「行くな」
「……行かないです。どこにも」
縋り付くようにジュリアンのコートを掴みながら、嗚咽混じりのひどい声で誓う。
「側に、います」
だから行かないで。側にいて。
同じ思いを抱えているはずなのに、どうしてこんなに怖いのだろう。最初からわかっていたはずなのに、改めて突きつけられた無力さが、願いをばらばらに切り裂いていくみたいだった。