第七話 霧の向こう

 7-1 爪痕

 レルファーから降りそそぐ光は、ユリンで浴びていた陽光と同じように、優しい暖かさを持っている。霧はまだ湖の上に立ちこめていたけれど、それでもまるでひなたぼっこをしているような暖かさだった。コバルトブルーの湖を、推進力になるようなエンジンもオールも何も見当たらないのに、舟は滑るように進んで行く。
 舟に乗る前、湖の縁に沿って東へ向かい、朝とは呼べないくらいの時間に辿り着いた村は、昼なお暗い不思議な集落だった。濃い色の葉を密集させた丈の高い木が村の周囲を覆っていて、レルファーの光もほとんど届かない。様々な色の石をまだらに積み上げて作られた家の間で、妖精の森で見たのと同じ透明な植物が、まるでガラス細工のランプのように淡い光を放っていた。
 家々にもその庭にも荒れ果てた雰囲気は全くないのに、人は一人もいなかった。余りに不自然だったので、フィラはこっそりと扉の開いている家を覗き込んでみた。そこではまだ暖炉の火が燃えていて、テーブルの上に並べられたシチューも湯気を立てていた。ほんの数秒前までそこに人がいたかのようだ。けれどすぐに、そこに人がいない以上に不自然な事実にフィラは気付いてしまう。暖炉の薪は燃え尽きることなく、シチューも湯気を立てたまま冷めることがない。動きはあるのに、まるで最後の数秒をループしているみたいで、なんだか恐ろしくなってフィラは思わず視線を逸らしてしまった。
 ジュリアンも当然この村の不自然さに気付いていたようだったけれど、原因までは特定出来なかったらしい。何かしらの魔術は働いているのだが、余りにも規模が大きすぎる上に、ジュリアンの知っている魔導技術とは系統が違いすぎてすぐに分析するのは難しいのだと、村の奥に向かいながら教えてくれた。
 村の奥のボート小屋に二人を案内してくれたのはノクタだった。
 朝、無言でキャンプに戻って全部片付けた後、ジュリアンがタオルと一緒に放り出してしまったノクタを拾ってきてくれた。その時にフィラには聞こえないところで何かやりとりをして、ノクタはジュリアンの説得を諦めたようだった。そんなわけでノクタは今もフィラの羽織ったミリタリージャケットの胸ポケットに収まっている。
 ボート小屋で見つけた舟に乗り、湖に漕ぎ出してから、もう一時間くらいが経っていた。ゆっくりと進んで行くほとんど揺れない舟の上で、荷物を背負ったままのリョクは静かに湖面を見つめている。フィラとジュリアンの間に流れる微妙な空気に気付いているのだろうティナも、黙ってその背中で丸まっていた。
「この向こうにも、やっぱり誰もいないんでしょうか」
 湖の向こうを見つめながら、フィラは向かい側に座っているジュリアンにふと尋ねた。
「その可能性は高そうだな」
 どうしてこんな風になっているのだろう。グロス・ディア全土がこんな状態だとしたら、ここから先も誰にも会えないのだろうか。凪いだ湖を見下ろして、フィラは小さく息を詰めた。
「サーズウィアが来たら、この魔術も解除されるのかもしれないな」
「時が止まっているみたいですね」
 ほとんど波も立たない水面も、昨日と同じように輝くレルファーの天蓋も。とても静かで、何も変化がないみたいに見える。その静寂を乱すのが恐れ多くなるくらいだ。
「そうだな。この舟の行き先もリンディンという村らしいんだが、恐らくそこもラファスと同じような状態だろう」
 舟は勝手に動いていくので、ジュリアンも手持ち無沙汰に水面を眺めている。
「あの」
 まだ当分岸に辿り着きそうにないからと、フィラは身を乗り出した。
「時間ありますし、『調律』しましょうか?」
 焼け石に水だということはわかっているが、それで少しでも竜化症の進行を遅らせることが出来るかもしれない。
「ああ……そうだな。頼む」
 答えるジュリアンの微笑が柔らかくて、ほっとする。朝からずっと張り詰めていた気持ちが、それだけで緩んでしまう。フィラは舟を揺らさないようにしながら、ゆっくりとジュリアンの隣まで移動した。ジュリアンが手袋を外して右手を差し出す。その手を握って、フィラは目を閉じた。
 もうすっかり覚えてしまった音。金属が触れ合うような、高く澄んだ音。だいたいの音を合わせた後で、少しだけ歪んだ音たちを調律していくのも、ずいぶん手際が良くなったと思う。
「どんな音が聞こえるんだ?」
 調整を終えて顔を上げると、じっとフィラを見つめていたらしいジュリアンと目が合った。
「ええっと……」
 不意打ちでどきどきしてしまったフィラは、思わず視線を彷徨わせる。
「金属が触れ合う音みたいな……鉄琴の音が近い感じですかね。あ、でもあれよりは倍音がもっと複雑にかかってる感じなんですけど」
「倍音? 物理と用語が一緒なら倍振動による音ということになるが」
「たぶん、そうだと思います」
 物理については詳しくないけれど、なんとなくそんな話だった気がする。フィラは感覚的にあんな感じの音が倍音、という認識でいるのだけれど、ジュリアンはたぶん理論的に理解出来ているのだろう。自分のつたない説明ではわかってもらえそうにない気がしていたので、用語が一緒で良かったとちょっとほっとする。
「含まれている倍音によって音色が変わるんです。倍音のない音だけだと、チューナーとか音叉みたいな音になるんですけど、楽器になるともっと複雑で……」
「もしかして、魔力の調律のときもその倍音も含めて調整してるのか?」
「そうですね……」
 フィラは少しだけ目を閉じて、さっき調整し終わったばかりの音に耳を傾けてみる。
「純粋な倍音だけじゃなくて、結構それ以外の上音も混ざってるんですけど……あ、えっと、つまり倍音じゃない……なんというか……」
「振動数が整数倍じゃない音か?」
 説明に詰まったフィラの後を、ジュリアンがさらりと引き取る。
「確かそんな感じだったと思います」
 エステルが割と真面目にピアノの調律について教えてくれたときのことを思い出しつつ、フィラは頷いた。なんだか不思議と懐かしい気分と、ジュリアンに何かを教えているという状況を新鮮に思う気持ちが同居している。
「そういう音も混じってて、全部調整するのは難しいので、出来るだけ聴いてて心地が良い音になるようにしてるんです」
「なるほどな。機械的に調律したときより自然な感じがするのはそれでか……」
「そうなんですか?」
 フィラ自身はジュリアンに調律してもらったときも違和感はなかったから、その感覚は何だかよくわからない気がする。
「リラの魔力が暴走した後、しばらく気分が悪かっただろう? あそこまでじゃないが、自分で一定の波長になるように調整すると少し違和感があるというか、なんとなく据わりの悪い感じになる」
 二人で話しているうちに、薄く張り詰めていた緊張感が消えているのに気付いて、フィラは思わず顔を綻ばせた。
「役に立ててたなら良かったです」
「充分過ぎるくらいだな」
 少しおどけて胸を張ってみたフィラの額を、ジュリアンが微笑を浮かべながら軽く小突く。それを見ていたティナが、聞こえよがしに盛大なため息をついた。
「何か言いたげだな」
 それで初めて存在を思い出したというように視線を向けたジュリアンに、ティナは呆れ返った半眼を返す。
「べっつに」
 ティナはぶっきらぼうにそう言うと、めんどくさそうにしっぽだけを振ってみせた。
「君たちがいつも通りで何よりだと思っただけだよ。別に聞かされるこっちの身にもなれよとか思ってないし。むしろその調子でいてくれないと逆に落ち着かないくらいだし」
 嫌みに見せかけて心配してくれたらしいティナに、ジュリアンは穏やかな微笑を浮かべ、フィラも思わずつられて笑ってしまった。和やかになった空気を感じたのか、リョクも気が抜けたようにあくびをしている。
 そんな様子を見ていると、まだ大丈夫なのだと思える。大丈夫。まだこの旅の終わりは来ない。まだ、あと少しだけ――
 自分で自分にそう言い聞かせながら、フィラは笑った。

 その後、音響学は魔力制御学に応用できるかという話題から、なぜか論文の書き方の話題を経てフランシスとジュリアンが昔はどんな関係だったのかという話になり、さらにとりとめもなくいろいろな話をしているうちに舟は向こう岸の村に辿り着いていた。滑るようにひとりでに進んできた舟は、やはり音もなくぴたりと桟橋に横付けになる。
 妖精の森と違って、ずいぶん開けた場所だという第一印象だった。辺りに生えている植物は透明ではないけれど、密集していないのでむしろガラスの森より見通しは良いくらいだ。桟橋から少し離れた岸辺に、真っ白い小さな塔が見えた。蔦に覆われた石の塔は、物見にでも使われていたのだろうか。十メートルくらいの高さの塔の最上部は、小部屋とそれをぐるりと囲む展望台のような作りになっている。
 村はその向こうにあった。ジュリアンが予想していた通り、人の気配はない。どこかきのこを思わせるような雰囲気の、こぢんまりとした可愛らしい丸い輪郭の一階建ての家々も色とりどりの石畳を敷き詰めた道も何もかもが可愛らしい村なのに、たった一つの爪痕がその全ての印象を掻き消している。
 村の中心地だったのだろう広場から南北に向けて、集落は切り裂かれていた。家を二つに裂き、石畳を割ってかさぶたのように土を剥き出しにした地割れのような、でも明らかに「上から」力を加えられたとしか思えないその裂け目は湖まで続いている。
「どうして……」
 さっきまでの穏やかな気持ちまで奪われていくような光景だった。指先が冷たくなっていくのを感じながら立ち竦むフィラの隣で、ジュリアンも険しい視線で裂け目を見つめていた。
「風……みたいだね」
 もやい綱がなくても流れていかない不思議な舟から自力で上がってきたリョクの背中の上で、ティナが静かな緊張を孕んだ声で呟く。
「風、って……」
 思い当たる存在が一つしかなくて、フィラは思わず息を呑んだ。でも、ちがう、そんなはずはない。だって魔女は……魔女は――
「一つ確認しておくけど」
 ティナがいつになく硬い声をジュリアンにぶつける。
「カルマは取り逃がしたんだよね?」
「……ああ」
 答えるジュリアンの顔が、苦しげに歪んだ。
「とどめを刺せなかったのはレーファレスが躊躇ったから。そうだよね?」
 感情を押し殺すように瞳を閉じて、そして再び目を開けたときには、ジュリアンは聖騎士団団長だった頃に見せていたような無表情になっている。
「そうだ」
 一切の感情を排した言葉にティナが立ち上がって、リョクも落ち着かない様子でティナを振り返った。
「そんなんで戦えるの? これがカルマの仕業だとしたら、今度は借り物の力じゃない、本当の力を取り戻したカルマと戦わなきゃいけないんだよ?」
 責めるような言葉なのに、ティナは泣きそうだ。
「レーファレスって、カルマとどんな関係があるのさ?」
 さらに問い詰めるティナに、ジュリアンは無表情のまま首を横に振った。
「その話は後でも良いか」
 ティナは文句を言いかけたが、すぐに何かに気付いたように口を閉ざす。
「今はとにかく、ここを離れた方が良い」
 確かに、この事態を引き起こした存在が近くにいるとしたら、こんな視界の開けたところにとどまっているのは危険だ。それがカルマであろうと、なかろうと。
「ノクタ、出来るだけ安全な場所へ行きたい。どこか心当たりは?」
「道を北へ」
 ジュリアンがフィラの胸ポケットに向かって問いかけると、はっきりとした共通語が頭の中に響いた。
「夕方までには聖都クレフィアへ着くはずです。そこも無人ですが、生きている結界があるはず」
 少しだけ視線を上げたジュリアンに真剣な表情で見つめられて、フィラも緊張しながら頷く。話を聞きたいのはフィラも一緒だ。でも、今は少しでも安全なところへ移動して、ジュリアンが魔術を使う羽目になるのを避けたい。
 まるで話を理解しているように側へ歩いてきたリョクの手綱を取って、ジュリアンが歩き出す。それに並んで歩きながら、フィラは行く手にそびえ立つレルファーの大樹を見上げた。海のように広い湖を越えて近付いたその幹は、ほとんど視界いっぱいに広がっている。その近さに、旅の終わりが迫っているのを嫌でも予感させられた。