第七話 霧の向こう

 7-6 道の先、その果ての空

 フィラの存在が遠ざかっていくのを、呆然と見つめる。どんな魔術を使っても、どんなに手を伸ばしても、もう届くことはないのだとわかっていた。最初の一瞬に躊躇わなければ……そんな後悔が押し寄せてくるけれど、そんなことをしても無駄だったことは理解している。躊躇わずに魔術を使っていればジュリアンは消滅《ロスト》していた。フィラをたった一人でここに残していくのなら、それは助けられなかったも同然だ。
 フィラの姿が完全に見えなくなってしまった後も、ジュリアンはその場から動けなかった。一瞬こちらを振り向いてからフィラたちの後を追ったリョクのことも、ほとんど意識の内に入らない。何も出来ないままこちらとあちらのつながりが完全に絶たれて、もうその魔力の残滓すら感じることは出来なくなった。周囲を埋め尽くすレルファーの根が明らかな敵意を持ってのたうち始めたことに気付いていても、対抗する気力すらなくジュリアンは立ち尽くす。
「ジュリアン!」
 いつの間にか肩の上にいたティナが耳元で叫ぶ。
「何やってるんだ! 動けよ! 死ぬ気か!?」
 泣き声でわめく子猫の声も、現実感を呼び戻してはくれない。
 ――死なない……ならば生き延びるのか。フィラはここにいないのに……?
「走れ! 『匣』に入るんだ! 何でも良いから走ってよ!」
 ティナが人の形をしていたら、きっと襟首を掴んで揺さぶられていただろう。子猫の爪が食い込むのを、布越しに微かに感じる。
 現実感を失ったまま、ジュリアンはふらりと振り向いた。のたうつ根が、その尖端をこちらに向けている。
「生き延びろ! 生き延びるんだよ!」
 ティナの叫び声に動かされたように、真っ先に襲いかかってきた根を串刺しにされる寸前で避ける。
「駄目だ。立ち止まるな。前に進め!」
 灰色の霧に覆われた森をティナの声に背中を押されて走り、襲いかかる根を半ば条件反射的に剣で払う。
「伏せろっ!」
 緊迫した声にやはり条件反射的に身をかがめると、肩の上を太い木の根がなぎ払った。それがかすったのか、ティナの身体が前方に吹き飛ばされる。その瞬間にはっと世界が色を取り戻した。
 まだ、終わってはいない。まだ、守らなければ――
 勢いを殺さないままティナの身体を拾い上げ、前方に見える漆黒の壁へ走る。数秒もかからず辿り着ける距離がひどく遠く感じる。
「生き延びろ、生き延びるんだ……」
 フィラから託されたリラの魔力を封じるだけで精一杯なのだろう。破損した身体を再構築することすら出来ないらしいティナは、それでも物質としての身体が消えないように必死で維持しながら己を抱えるジュリアンの手に爪を立て、呟き続ける。
「そうしなきゃ、フィラを助けられない……!」
 震えながらしがみつく子猫の体温を感じながら、最後の一歩を駆け抜けた。のたうつ木々すら呑み込む闇の中に、身構えもせず飛び込む。
 瞬間、森の匂いも葉末のざわめきも襲いかかってくる根が風を切る音も消え失せて、完全な闇と静寂が辺りを支配した。呼吸を整える間もなく、目の前の闇の中に久しぶりに見る少女の姿が浮かび上がる。白目のない瞳、少し尖った耳。人間ではあり得ない容姿の闇の化身。
「ノクタ・エデオ」
 匣の闇。フィラを守ることより、リラの力を失わないことを選んだ少女。約束を、違えた者。憎しみを込めて睨み付けるジュリアンを、ノクタは無表情に見つめ返した。
「よくここまで辿り着いてくださいました」
 感情の感じられない平坦な声で少女は言った。
「申し訳ありません。レルファーが荒神になることなどあり得ないはずだったのですが」
「……わかっている」
 そうだ。この少女に八つ当たりをしても仕方がないことくらいわかっている。レルファーの変心を見破れなかったのはジュリアンも一緒だ。その場に崩れ落ちたいほどの無力感に襲われながら、それでもジュリアンはどうにか表面上の平静を取り戻して少女を見返した。
「私はここを離れることが出来ません。レルファーによって隔てられてしまったため、今私の分身がどうしているのかも、把握することが出来ていません」
 それでは、フィラが無事かどうかも知ることが出来ないのだ。それがわかっても、ジュリアンの心は凍りついてしまったように凪いだままだった。
「私に出来ることは限られています。この匣の中の理《ことわり》を動かすことしか、あなたのために出来ることはない」
 ノクタが何かを訴えるように真っ直ぐジュリアンを見つめる。その黒曜石のような感情のない瞳の中に一瞬何かが過ぎったような気がしたけれど、それを読み取り理解しようとするだけの気力はジュリアンには残されていなかった。
「サーズウィアを呼んでください。宿命《さだめ》の子よ。あなたにはもう、それしか残されていないはずです」
 ノクタの判断はどこまでも冷厳で正しくて、だからこそ受け入れることが出来ない。
「フィラは……どこだ」
 無駄だとわかっていて問いかけた。それを知ることは出来ないと、さっき告げられたばかりなのに。
「カルマが連れて行きました。私には行く先はわかりません」
 それにもかかわらず、ノクタは辛抱強く言い聞かせるように答える。
 カルマが光の巫女としての力を失った彼女を生かしておくだろうか。理性はそんなことはあり得ないと言う。七年前に取り戻したはずの感情は上手く働かず、目の前にある事実を受け入れられないまま、虚無のような果てのない空しさだけが胸の内を支配している。
「お前はここにフィラを呼ぶことは出来ないのか」
 ――出来ないはずだ。なぜなら。
「我々が動かすことが出来るのはこの匣の中にある理だけ。最初に言ったはずです、宿命《さだめ》の子よ」
 彼女の答えはわかっていた。あり得ない希望でも縋りたかっただけだ。
「それではもう、俺には空を取り戻す理由がない」
「本当に?」
 ノクタはジュリアンの真意を見通そうとするように、じっと瞳を覗き込んでくる。
 その疑問に対する答えは、嘘だ。改めて考えるまでもない。
 サーズウィアを呼ぶことは、彼女と出会う前からジュリアンを動かしていた生きる理由だった。空を取り戻すと約束した相手は、フィラだけではない。カイやリサと、フェイルやランティスと、ダストやフィアと、もう名前も思い出せない誰かと。天魔に包囲されたキャンプで、明日のことなど誰にも約束できないような状況で、怯える兵士たちに語って聞かせた希望。体の良い広告塔だとわかっていて、何も知らない人々に語ってみせた救い。たった一人の妹に誓った未来。今さら捨てられるはずもない。
 先ほどからぐったりしたままのティナを抱え直した。リラの力はティナが持ってくれている。守護神であるティナからその力を引き出し、サーズウィアを呼ぶことは不可能ではない。
「……わかった」
 今の自分にそれを呼ぶ力があるのなら、呼んでしまえば良い。
「サーズウィアを呼ぼう」
 それが自分に残された生きる理由。果たさなければならない宿命。それを果たして――そして、消えるのだ。フィラのいない、この世界から。消えたくないなんて、もう、願えそうになかった。
「レルファーは協力してくれるのか」
 空っぽのままでも、理性と記憶はそれとは無関係に働いている。まるで自分ではない誰かの声を聞いているような気分で問いかけた。
「荒神と化しているのなら難しいかと。しかし、どう探ってもやはりレルファーが荒神と化したとは思えません」
 ノクタは何かの気配を示すように上空を降り仰ぐ。その視線の先にも広がっているのは暗闇だけだが、彼女はその外に存在しているレルファーの意志を感じているのだろう。
「カルマが何らかの形で干渉しているのだと思います。つまり」
「カルマを倒せば良いんだな」
 この期に及んでなおいつもと変わらない調子で話し続けるノクタを、ジュリアンは性急に遮る。早く終わらせてしまいたい。今考えられるのはそれだけだった。
「竜化症は私が治します。その上でなら可能でしょうか」
 こちらへ視線を戻したノクタが尋ねかけてくる。確かに竜化症が治れば、とりあえず魔術は手加減せずに使えるようになるだろう。
「……さあな」
 それで勝てるかどうかは、また別の話だ。たとえジュリアンが全力を出したとしても、そう簡単に対抗できるような相手ではない。ましてレルファーも味方とは思えない現在の状況においては、なおさらだ。
「我々にも他に希望はありません」
 ノクタはそう言うと、ジュリアンを見る視線を強めた。その瞬間、身体の中にあった違和感が消えていく。ほとんど消えかけていた右腕の感覚が戻り、複雑な魔術を張り巡らせてどうにか維持していた内臓の機能も、魔術が無効化されてエラーが返されたことで取り戻せたのだとわかる。魔術を通してではなく、自分の意志ひとつで何もかもを動かすことが出来るのがいっそ不思議なほどだ。竜化症が初めて発症して以来の久し振りの感覚ではあったが、それでも身体機能を魔術で補いながら動くよりはまだ自由が利きそうだった。
「我々は生きるためにこの星へやって来ました。このような事態は、我々の望むところではありません。どうか、よろしくお願いします」
 右手を握りしめて感触を確かめるジュリアンに、ノクタは今までの感情のない調子とは違う、真摯な言葉で語りかける。
「……ああ」
 ノクタが真剣であればあるほど、それ以上の会話を続ける気力が奪われていくようで、ジュリアンは短く答えてノクタに背を向けた。
「あちらへ……光の方へ」
 視界から消えたノクタの声が、変わらず脳内で響く。顔を上げると、闇の中にたった一つ取り残された星のように、小さな光が瞬いているのが見えた。ジュリアンが歩み寄るより早く近づいてくる光は、やがて開きかけた扉の輪郭を形作る。目を細めてそれを見つめてから、ジュリアンはふとずっと黙ったまま身動ぎもしないティナを見下ろした。
「ティナ」
 左手に抱えた、闇の中でほのかな光を放つ動かない子猫は、呼びかけても答えてくれることはない。リラの力の封印と傷ついたままの身体を維持するだけで精一杯なのだろう。
「一人か……情けないな」
 ティナを見下ろしながらこぼれ落ちた言葉は、自分でも嫌になるくらい弱々しかった。それなのに、涙も出ない。
(……俺は……この手で何を守れると思っていたのだろう)
 握りしめた右手に爪が食い込む感覚が生々しい。今使えるだけの魔力を、さっきフィラと引き離されたときに使えていたら――
 苦い後悔を目を閉じて振り払う。今さら考えたところで意味はない。
 それでももう、行くしかない。戻る場所は、ない。
 ――フィラはいないのだから。
 顔を上げて、再び歩き出す。
 道の先、その果てに、ノクタが開いた光の扉が広がる。扉の向こうには青い光。どこまでも広がる、幻の蒼穹。
 ユリンの空と同じ、偽物の青空が広がっていた。