第八話 真昼の月
8-1 サーズウィアが来る日
絶望の果てにたどりついた空は青かった。どこまでも広がる美しい蒼穹に、いっそここでこのまま果ててしまえたらと思った。
諦めることなどできないのに。
そんなことが許されるはずがないのに。
全てを失い、二度と取り戻すことが出来ないなら、この空の青さもむなしいだけだ。
うつろな心を抱えたまま、それでも『彼』は一歩を踏み出した。
――旅の終わりの空へ。
果てのない草原。その中に一本だけ立つ若木が、風に揺れている。鮮やかに輝く新緑が、青空に映えている。幻だとわかっていても、陽光にあふれた世界は思わず目を奪われてしまうほどに美しい。今ここにフィラがいたら、きっと笑って綺麗だと言っただろう。
「綺麗だな」
誰の返事もないとわかっていて、ぽつりと呟く。波打つように風に揺れる草原を、ジュリアンはゆっくりと歩いた。
ここはレルファーの体内。つまり今目に映っている風景は、レルファーが見ているもののはずだ。青空と陽光。神々の怒りに染まる前の世界。夢の中でしかあり得ない景色。
(眠っているのか)
ぼんやりとそう思う。この風景からは、確かにレルファーの怒りは感じられなかった。ノクタがレルファーは荒神と化していないと言った理由もわかる。
ゆっくりと歩み寄った若木の緑に目を細めながら、灰色の幹にそっと触れた。手袋越しに感じるなめらかな感触、その向こうに流れる水に、微かな違和感を覚えて、ジュリアンは息を詰めた。水の神器の魔力を、カルマが聖騎士との戦い以外に使った形跡はなかったのに。そんな知識ばかりランと一緒なのだから嫌になる。
穏やかに吹き渡っていた風がふいに背後で逆巻いた気配がして、ジュリアンはゆっくりと振り向いた。
「愛しい子」
逆巻く風が黒く染まり、徐々に人の形をつくりながらノイズ混じりの声を吐き出す。
「ずっとお前を見ていました。お前が私の核をその身に宿した、あのときから」
そうだろうな、と妙に平坦な気持ちで考えた。ぐったりしたままのティナを若木に預けるようにそっと根の間に下ろして、改めて魔女に向き直る。
「お前の中に埋め込まれた核を通じて、私はお前の心を感じることが出来る。だから私は知りたかったのです。なぜお前があの少女を愛したのか。そしてすべてを失った後で、再び世界を愛することが出来るのか」
「そんなことの……ために」
剣を構えながら、なぜ怒りが湧いてこないのか不思議に思った。さっきノクタに向かって燃え上がった怒りは、偽物の青空と陽光に吸い込まれるように消えてしまっていた。
「そう。そんなことのために、私は水の神器を奪い、レルファーの体内を巡る水に怒りという名の毒を流し、フィラ・ラピズラリをお前から奪い、ランを喰らいました」
明るい陽の光を浴びて佇む魔女は、何故かこの夢の中から切り離されたように一人だけ温度が低いように見える。霧のように揺れる黒衣も、体温の感じられない真っ白な顔も、ここではないどこかから突然連れて来られて放り出された者のように頼りない。
「今のお前は私の心を知っているはずです。憎むことしか知らない、私の心。全てを奪われ、憎むことしか出来なかった私の心を」
誘うように手を差し伸べながら、カルマは諦めたように優しく微笑んだ。怒りに身を任せることすら出来ないジュリアンの心を、むしろ彼女の方が知っているようだった。
「さあ、その憎しみのままに私を殺しなさい。戦いの中でお前は竜になり、この世に生きるすべてのひとを滅ぼすでしょう」
まるで定められた台詞をなぞるようにそう言って、魔女は笑みを深める。今まで彼女が纏っていたはずの冷酷さも憎悪も、すべて剥がれ落ちてしまったような、不思議な微笑みだった。
「それこそが、私の望み」
優しく囁かれた嘘が、戦いの始まりの合図だ。鏡のように凪いだ心のまま、ジュリアンは身に染みついた戦場の記憶に従い、姿勢を低くして最初の一歩を踏み込んだ。
見えない風の軌道を、気配と魔力の流れだけで読み切ってかわす。恐ろしいほど感覚が研ぎ澄まされている。その後のことを考えることなく、今使えるすべての魔術を駆使して、魔女を追い詰めていく。
カルマはすべての力を取り戻しているようなのに、まるでレルファーを傷つけることを恐れているように大規模な破壊の魔術は使おうとしない。それでも僅かにかすった風の刃が、ジュリアンの張った結界の弱い部分を簡単に切り裂いて切り傷をつけていくので、カルマが魔力を出し惜しんでいるわけではない。避けきれなければ、簡単にこの身は切り裂かれてしまうだろう。
竜化症が再び発症する危険性をわかっていながら、ジュリアンは自らの身体能力と思考速度を限界まで魔術で強化していた。ただイメージするだけで魔術を振るえるカルマとは、それでようやく互角の速度だ。
嵐のように不規則に、けれど草原を傷つけることなく静かに襲い来る風の刃を、あるいはかわし、あるいは剣で払いながら間合いを詰める。そこまで近付いてしまえば、カルマも攻撃にばかり意識を割いてはいられない。避けきれない風の刃に魔力の密度を高めた雷撃を当てて相殺し、ジュリアン自身はカルマの核を狙う。聖騎士の仲間たちと、何度も練習してきたカルマと戦うための戦法。ユリンで戦ったときはレーファレスの迷いを断ち切れなかったけれど、今はレーファレスにも迷いはない。
正確に核を捉えたはずの切っ先を、カルマの結界が弾いた。同時に襲いかかってくる風の刃を、目視することなく魔力の流れだけで捕捉して雷撃をぶつける。
そうしながら体勢を立て直し、もう一度斬りかかる。さっきの一撃でカルマの結界の強度は読めた。魔力制御装置を完全に切って最低限の魔力だけを防御に回し、残りを全てレーファレスの刀身に預ける。
迷いも怒りもない。今はただ、悲しい。泣き叫びたくなるような激しい感情ではなく、冷たく澄み切った痛みだけを感じる。戦場を上から見下ろしているように、すべてを俯瞰できる。
魔女が手足を動かすように自然に動かす魔力。その魔力で織り上げられた魔術式の、ほんの僅かな――綻びですらない、けれどほかの場所より僅かに脆い結節点。その一点に向けて、レーファレスの切っ先を向ける。全ての魔力を集中していく。
カルマはジュリアンの狙いに気付いたようだった。けれど、もう一度魔術を組み立て直す時間はない。与えない。間に合わないと悟った魔女は風の刃を消して、すべての魔力を結界の強化に回す。それを上回るだけの魔力を、ぶつけなければならない。
結界の向こうの魔女が、じっとジュリアンを見つめる。それがこの戦いの決着になるとわかっているはずなのに、何故か魔女の視線には熱がない。生き延びる意思などないかのような、熱のない――でもたぶん、それは自分も同じだ。
妙に冷静にそんなことを考えながら、無意識に制御していた力を解放する。いつかフィラを助けるために解放したときと同じように。枷を解き放たれた魔力が、器であるジュリアンを破壊して自由を得ようと暴れ出す。竜に変わる。そう思っていたのに、内側から器を喰い破るはずだった魔力の膨張がふいに僅かにどこかへ逃げた。
ティナだ。そんな余裕はないはずなのに、リラの力を呑み込んだ空隙にジュリアンの魔力を逃がしてくれている。これで魔女の『願い』を叶えずに済む。例え相討ちになったとしても。
魔力はレーファレスに集中させながらも、既に構築してあった魔術式を展開する。失敗すれば後はないはずなのに、不思議と焦りも緊張も感じなかった。
ジュリアンと視線を合わせたまま、魔女が微笑む。結界の強度がふっと弱まって、その分の魔力がカルマの手の中に収束していく。ジュリアンを殺すための魔術だ。そうわかっていても、このチャンスを逃すことは出来ない。もう後戻りは出来ない。彼女が紡ぐ魔術が、自分の死だ。
世界から音が消えたようだった。目の前で完成していく魔術の構造だけを静かに見つめながら、信じられないくらいゆっくりと流れる時間の中で、終わりが来るのを待つ。
レーファレスの切っ先が魔女の結界を突き破る。
――お前は私の心を知っている。
そう語りかけるように、魔女の瞳が笑う。
(違う)
凪いでいたはずの心の底で、何かが叫ぶ。
違う。今、自分が求めているものは、彼女と同じではない。終わりなど欲しくない。
欲しいのは――
冷たく凍りついていた心が割れる。思いがあふれる。
それに呼応するように、ティナが封じていたはずの魔力が解放された。命じてなどいないはずなのに、リラの力が包み込むようにジュリアンを守り、今まさに魔女の核に突き立てられようとしているレーファレスの切っ先を伝って流れていく。
――私はあなたの、未来が欲しい――
記憶の向こうから呼びかける声。欲しいものは未来。彼女と生きる未来。思い出した――忘れられるはずなどなかった。
カルマの魔術が完成しようとしている。リラの力を打ち消すように発動しようとした魔術が、ふいに凍り付いた。
「……どう、して……?」
呆然と呟く魔女の手の中で、構築されていたはずの魔術が変質する。寄り添うような魔力が魔女の内側から流れ出して、そのほんのわずかな干渉が魔術の発動を阻害する。
フィア・ルカと同じ魔力の波長――フィラの魔術だ。どこか寄り添うような、治癒に向いた魔力。そのつたない魔術が、ジュリアンと光の神器の魔力に反応して発動したのだとわかる。
複雑な発動条件を設定したのはフィラではない。その魔力の大きさは、生命の全てを燃やし尽くすようなものではない。一瞬でわかる。これはフィラが使おうとした魔術と魔力を利用して、ランが編み上げた魔術だ。積み上げてきた魔術の知識が、ほとんど直感のように告げる。
――フィラは生きている。
ほとんど無意識に身体が動いた。魔術の構築の一瞬の遅れ。それだけで充分だ。カルマが再び発動させようとした魔術をレーファレスで切り払い、返す刀でカルマの核を狙う。レーファレスの切っ先が、吸い込まれるようにカルマの核を貫く。
一瞬目を見開いたカルマは、ふっとため息をつくように微笑んで目を閉じた。
「そう、私は……お前に負けるのか」
崩れ落ちるように後ろへ倒れ込みながら、魔女の瞳がうっとりと開かれ、夢見るようにジュリアンを見上げる。それを追うようにさらに深く剣で貫き通しながら、ジュリアンはその終わりを見届けようと目をこらす。発動できなかった魔術が吹き荒ぶ風となってジュリアンの髪をなぶる。草原が揺れる。嵐の大海のように。
「テ……オ……」
吹き付ける風に紛れて、それでも確かに彼女は誰かの名を呼んだ。差し伸べられた指先が愛おしそうにジュリアンの頬をかすめ、柔らかな微風に変わる。
「やっと……」
穏やかな眠りに落ちるように瞳を閉じた魔女の姿が、なぜかランの面影と重なった気がした。喰われたのはどちらだったのか、それとも最初からそんなことに意味などなかったのか、考えている暇は与えられない。
核が割れる。カルマの存在を支えていた魔力が、世界律が崩壊していく。ガラスが砕け散るように、彼女を構成していたすべてが拡散し消えていく。その解放された魔力に、このときのためにずっと構築してきた魔術式を、ここにあるすべての神器とティナから引き出した魔力を、そして自分が持ちうる限りの魔力を乗せた。ジュリアンを中心として広がった魔術を、草原の草が絡め取り、瞬く間に若木の元へと運ぶ。まどろんでいた神が目覚める。夢の中の風景は無数のパネルを裏返すように消え去り、灰色の空が広がる。
すべての力が吸い取られていくようだった。立っていられなくなって、ジュリアンは草原に膝をつき、それでも地面に突き立てたレーファレスに縋りながら若木を見上げる。
若木に絡みつき天空へ昇っていく、長い間このときを待っていた魔術式は、既にジュリアンの制御を離れている。自らの意志で世界律を動かすことができない神に代わって魔術を使うことが、ジュリアンの役目だった。レルファーの力に干渉し、最初の反応を引き出せば、後は連鎖的にサーズウィアは世界の隅々にまで広がっていく。
大樹が――空間そのものが鳴動する。歓喜にも似た声を上げる。魔術は虹色の回路となって若木の枝と根のすべてに瞬く間に行き渡り、そしてその枝、その葉、その根のひとつひとつから解き放たれた。理論上でしか実証されていなかったその現象は、完全にジュリアンの望んだとおりに拡散され、世界を書き換えていく。
神界が世界から剥がされるように遠ざかっていく。それを感じながら、ジュリアンは地面に倒れ込んだ。どうにか受け身を取って肩から落ちた身体を、無理矢理仰向けにして空を見上げる。広がる天蓋は、今レルファーが『見て』いる本物の空だ。神界が遠ざかり、魔術が消えたところから灰色の空が割れる。光があふれる。その向こうに見える鮮やかな青を、まだ雲に隠れて見えない太陽の暖かさを感じながら瞳を閉じた。
すべての魔力を放出した衝撃で、己を構成する器は壊れてしまった。内側からあふれ出る魔力が、魂の輪郭を崩していく。
これで終わりだ。なにもかも終わってしまう。
「フィラ」
擦れた声で名前を呼ぶ。
生きると約束してくれた。フィラはその約束を守ってくれた。
――だから帰ってきて! 絶対に帰ってきて……!
最後の瞬間にフィラが叫んだ言葉。
そうだ。必ず帰ると約束した。何度でも。失いたくないと、生き続けてほしいと、フィラは何度も願ってくれた。
死ぬわけにはいかない。生き延びなければならない。
約束、したのだから。
世界が揺れる。引き裂かれる。
死にたくない。消えてしまいたくない。フィラに会いたい。
ただそれだけを考えて、もう一度無理矢理瞳をこじ開けた。
さっきよりも広がった空。その空の青。魂を震わせるほど美しい青。フィラはここにはいないのに。
ここにいなくても。
生きているなら。
手を伸ばす。その先の青に、微かに浮かび上がる白は、真昼の月――
ずっと焦がれてきた。それを再び見ることが出来れば、死んでしまっても良いと思っていた。ぜんぶ過去形だ。
諦められない。今は。
自分の存在が世界律に溶けて薄れていくのを感じながら、それでもジュリアンは願った。
生きていたい。未来がほしい。
雲に隠れていた太陽が姿を現す。強すぎる光に世界が白銀に染まる。光の中で、
もう一度彼女に触れて、そして――