第八話　真昼の月

　8-4　生きる

　なぜ目を覚ますことが出来たのか、ティナにはよくわからなかった。全身が引き裂かれそうなほど自分の存在の全てが世界律の中へ戻りたがっているのに、なぜその流れに逆らってここにいるのか。わからないまま爪を立てて這いずるように前へ――ジュリアンの方へ進む。ほんの僅かの距離が永遠に続くように遠い。身体を構成する竜素とそれを制御している魔力が気を抜けばすぐに乖離してしまいそうで、ただ手足を動かすだけのことなのに一生分の気力を振り絞るようだった。
　それでもなんとか這いずって、仰向けに寝転がったまま呼吸だけを繰り返しているジュリアンの側まで辿り着く。いつ消滅《ロスト》してしまってもおかしくない状態だった。瞳は固く閉じられ、切り傷だらけの身体は体温を失いかけていて、何よりも魔力が危険なくらい揺らいでいる。もうその器はとうに壊れてしまっていて、ジュリアンが意志の力だけでこちら側にとどまっているのがわかった。ティナも同じだ。前足の先が光の粒に変わって消えていきそうになっている。竜素が神界へ還ろうとしているのだ。もともとこの世界にはなかったものなのだから、サーズウィアが来た今そうなってしまうのは当然のことだった。サーズウィアが地球全体に広がりきっているくらい時間が経っているのにまだティナが消えていないのは、ここがグロス・ディアで、サーズウィアが来た後も魔法が残らなければならない場所で、レルファーが魔力を生みだしていて、そして何故かこの場所の時間がものすごくゆっくりと流れているからだ。けれどそれも長くは保たない。
「諦めるな……！」
　ジュリアンに言っているのか、自分自身に言い聞かせているのか、もはやそれすらわからないまま、ティナは光の粒になって消えそうな身体でジュリアンの身体によじ登った。
「諦めるなよ。一緒にフィラを助けて、それで一緒に帰るんだ。ここで死ぬなんて、消滅《ロスト》するなんて許さない」
　聞こえていないことも、聞こえていようがいまいがジュリアンが諦めないこともわかっていて叫ばずにはいられなかった。
「死ぬな！　死ぬなよ！　馬鹿じゃないの！　こんなことの、ために……！　お前の守護神になったんじゃない！　フィラを泣かす気か!?」
　消えてしまう。ジュリアンも、自分も。今まで感じたことのない苦しさに、ティナは吼えた。
「フィラ、フィラ！　どこにいるんだよ！　フィラ……！」
　フィラが死ぬなんてあり得ない。絶対に彼女は死なない。そうでなければならない。そう信じなければ、リラの力を引き受けてジュリアンの所へ飛んだりしなかった。
「君以外の誰がこいつを呼び戻せるって言うんだ！」
　もうフィラの中にリラの力はないのに、わかっているのに無茶な願いを虚空にぶつける。
「君はここにいなきゃいけないんだ！　だから来てよ！　フィラ！　フィラ！」
　青い空に、声が吸い込まれていく。
「来てよ！　来て……！　お願いだから……！」
　ティナはフィラを呼ぶ。その名を呼び続ける。どんな僅かな希望でも縋りたかった。こんなに空が明るいなら、光の神の力をまだ使えたって良いじゃないかと理不尽なことすら思う。
　――終われない。こんなところで。
　世界律すら書き換えてしまう人間の意志が、ジュリアンの願いが、ティナを変えていく。ジュリアンと同調するように思いが人間に近付いていく。それでも良かった。それがティナ自身の願いでもあった。
　睨み付けるその視線の先で、何もない青空に滲み出るように白い月が浮かび上がる。その光が届いた瞬間、ティナは目を見開いた。
「リラ……？」
　間違いない。月から降りそそぐ光に宿る力は、間違いなくさっきまで自分の中にあったものと同じ、むしろそれ以上に強い光の魔力だ。サーズウィアのためにすべて使い切ってしまったはずの魔力が、なぜそこにあるのか。確かな意思さえ感じさせるその魔力に、ティナは全身の毛を逆立てた。その光が、ティナの目の前に情報と魔力を送ってくる。光が集まり、光の粒になり、それがさらに集って人の形に変わる。光が形作っていく姿に、ティナは警戒していたことなど一瞬で忘れてしまった。
「フィラ……！」
　陽炎のように揺らぐ光がフィラの姿を映し出す。光の魔術が作り出す幻には物質としての実体はないけれど、でも確かにフィラの魔力を感じる。
　――どうして、誰が、どうやってここに……？
　呆然としている間に、フィラは屈み込んでジュリアンに手を伸ばした。実体がないはずのフィラが触れられるのかどうかわからないけれど、少なくとも魔力を働かせることは出来ているようだ。ティナの目の前で、ジュリアンの傷が癒されていく。フィラが一番最初に覚えた治癒の魔術だ。何度も調律してきたジュリアンが相手だからか、とても魔術を学び始めたばかりの者とは思えないくらい効果を上げている。しかしそれでは助けられない。それがわかっているからか、フィラの顔は蒼白で強張っていた。
「フィラ、それじゃ駄目だ。僕を……こいつと融合させて」
　ジュリアンの胸元まで這っていきながら、ティナはとっくに固めていた決意を口にする。決意だけではどうにもならないけれど、今はそれを実現する力がここにある。
「僕はフィーネほど力が強くないからもって七、八十年だけど、人間にとっては充分な時間だろ」
　ティナがそんなことを言い出すとは思っていなかったのか、はっとこちらへ視線を向けたフィラは目を見開いた。それはそうだ。ティナだってこんなことを言い出すなんて神としてはあり得ないと思う。
「こんな奴と一つになるなんて冗談じゃないけど、そしたらフィラと一緒にいられるし。我慢するよ」
　このまま世界律に戻るのが、本来の神のあり方なのだろう。自分の意思でこちら側にとどまるなんて、到底自然なこととは言えない。それでも、あまりにも人間に近付きすぎてしまった感情は、このままジュリアンを死なせてしまうなんて許せないと叫んでいる。そしてジュリアンのいない世界にフィラを一人残していくことも、もうしたくない。エステルが逝ってしまったときと同じ後悔を繰り返したくない。例え世界律に戻った後でこの感情が消えてしまうのだとしても、後悔を抱えたまま消えてしまうなんて嫌だ。
「ジュリアンだって、きっとそれを望んでる。ジュリアンがまだ消えてないのは、生きていたいって願ってるからだ」
「……うん」
　泣き出しそうな瞳で頷いたフィラは、ティナが今まで見たことのない表情をしていた。その表情を表す言葉も感覚もティナは知らない。ただ、ジュリアンと出会わなければ、きっとフィラがそんな表情を見せることはなかったのだろうと、それだけはわかる。
　フィラの指先がそっとティナの背中を撫でる。竜素で作られた身体ではなく、世界律から切り離された神としてのティナ自身に触れる。器に閉じ込められた死せる神の魔力ではない、生きた意思を持つリラの力がそこから流れ込んできた。フィーネに教えられた魔術式を、フィラがイメージの中に描き出していく。ティナは今にも消えてしまいそうな自分自身を構成する世界律を、その魔術式に――フィラに預けた。魔術式が描き出す流れに従って竜素の身体を神界へ戻し、ティナはジュリアンの中に溶け入る。壊れたジュリアンの器にティナの魔力と存在そのものが溶け込み、隙間を埋めるように修復していく。そうやってすべてを置き去って核だけになったティナは、ジュリアンの存在の奥にちょうど良い空間を見つけてそこに潜り込んだ。子猫の身体を丸める感覚で居心地良くそこに収まって、ティナは小さくイメージ上のあくびをする。
　――大丈夫、生きていける。
　そう確信しながら、ティナはジュリアンが目を覚ますのを待った。

　必死でつなぎ止めていた自分の輪郭がふいにはっきりと形を取り戻して、全身を切り裂くような痛みが消えていく。名前を呼ばれた気がして、ジュリアンはぼんやりと目を開いた。穏やかな陽射しの中に、誰かの輪郭が浮かび上がっている。微かな風が火照った身体の熱を冷ましていく。
「ジュリアン」
　本当に聞こえているのかと訝るような躊躇いがちな声が、それでもはっきりと名前を呼んだ。その声を聞き間違えるはずがない。暖かな幸福に満たされるようで、ジュリアンは微笑する。
「フィラ……」
　幸せな夢を見ているような気分だった。何度か瞬いて、やっとすべてがくっきりと見えてくる。目の前にいるのはやはりフィラだ。思わず手を伸ばそうとして、フィラの姿が陽炎のように揺らいでいるのに気付いた。触れる直前で動きを止める。触れたらその存在が消えてしまいそうで、急に不安になる。
「幻……？」
　触れることを躊躇った手に、フィラはそっと頬を寄せて目を閉じた。陽の光を掌に受けたような、暖かでおぼろげな感触がする。
「違います。似たようなものみたいですけど、私の身体はユリンにあるんです。今はたぶん、魂みたいなものを飛ばしているだけで……」
　そう言われて初めて、彼女が纏っている魔力に意識が向かった。確かにフィラの言う通りだ。彼女の意識情報と魔力だけが、どこかからここへ送られてきている。
「生きて、いるのか？」
　確信があってなお、尋ねずにいられなかった。フィラが静かに目を開いて、紅茶色の眼差しがジュリアンの視線を捕らえる。その瞳が泣きそうに潤んで、そして微笑んだ。
「はい」
　震える声で、けれどはっきりと伝えられた答えに、胸の奥でじわりと熱が生まれる。
「今、どこにいるんだ？」
　安全な場所にいるのか、まず何よりもそれを知って安心したかった。
「ユリンです。ノクタさんが、リーヴェさんのところに送ってくれたので」
　フィラと目を合わせたまま、少しずつ身体が力を取り戻しているのを感じる。フィラの魔術だけではない、何か暖かいものが流れ込んできているようだった。それが何なのか、魔力に対する感覚が急速に薄れていくせいで、見定めることが出来ない。
「そうか……」
　呟きながら地面に肘をついて、ゆっくりと半身を起こした。
「本当に、生きているんだな」
　同じ目線で顔を合わせると、フィラは泣きそうな表情で微笑む。
「死なないって、約束したじゃないですか」
　手を伸ばしてその肩を抱こうとするけれど、朧気な感触しかない。強く抱きしめればきっと腕をすり抜けてしまうのだろう。
「帰ってきてください。必ず」
　触れられないとわかっていて身を寄せてくれたフィラに、微かに目を細めた。幸せだ。でも、足りない。渇望する心から、言葉があふれ出る。
「約束する」
　ちゃんと、もっと側に感じたい。その声を、体温を、命のすべてを。
「必ず帰る。お前の元に」
　何度でも。そう誓った。フィラが生きているのなら、その誓いを破ることは出来ない。いや、守ることが出来るのだ。それは何物にも代えがたい喜びだった。
「約束、ですよ」
　光が翳るように、フィラの気配が薄れていく。時間切れだ。最後の余韻が消えるまで、ジュリアンは名残を惜しむようにそのままの姿勢でとどまった。腕の中のフィラの姿と微かなぬくもりは、太陽の光に溶けるように消えてしまう。
　最後まで気配を感じていようと呼吸すら止めていたジュリアンは、ふっとため息をついて肩の力を抜いた。穏やかな風を感じながら、腕を下ろして空を見上げる。
　青空の中には、まだ真昼の月が見えていた。ずっと焦がれていた空。届かないと思っていた祈り。もしかしたら、『彼女』も祈っていたのかもしれない。ずっとたった一人、雲の向こうで。今となっては確かめる術はないけれど、きっとその祈りが叶えられたからこそ、彼女は……リラはフィラに力を貸してくれたのだろう。
　立ち上がって月に手をかざす。空の青が眩しい。右手を握り締めて、その感触の確かさに微笑する。自分の内側にいるティナの魔力だけでは大した魔術は使えないだろうが、長い帰りの旅路もきっと大丈夫だと確信が持てた。
「……帰るか」
　いつもの仕事を終えたときのように、ぽつりと呟く。
　――そうこなくっちゃ――
　頭の中で、生意気な少年の声が答えた気がした。