エピローグ 青空を飛んだ飛行機の話
秋の気配が訪れる頃には、記憶を取り戻したユリンの人々の四分の一は元の居場所へ戻っていった。空き家が増えて町は少し寂しくなったけれど、新領主のラインムントはいずれまた使うことになるはずだからとちゃんと管理してくれている。最低限の電気や水道しか通っていなかった町の社会基盤も住民の希望を聞きながら徐々に整えられ、閉ざされていた町は外に向かって開かれた。
ユリンの町における変化は、そんな風にしてやってきた。
まだまだ中央省庁区のような最先端のインフラが整えられる日は遠そうだけれど、町に残った人々は今の懐古趣味な環境もかなり気に入っているようだ。
そんな環境の一環でもある広場に張り出される新聞には、街の外のニュースも載せられるようになった。
たとえば賞金稼ぎのニュース。賞金稼ぎたちは集団で天魔の「狩り」に臨むようになり、その光景は古のマンモス狩りを彷彿とさせると、新聞で取り上げられ、一緒に載っていた賞金稼ぎたちが戦う勇ましい写真はしばらく酒場の話題を席捲した。
それから、二年後には宇宙へ人工衛星が打ち上げられるらしい、というニュースもあった。天気予報や衛星通信などの平和利用が謳われているが、軍事利用を危惧する声もやはり上がっているようだ。技術的な問題よりも国内外の政治的な駆け引きのための二年間なのだろうと、バルトロが予想を立てていた。
リサとはあの居住区で別れて以来、結局再会出来ていない。新聞の高額賞金稼ぎランキングで「M氏」としてその名を見かけることもあるが、大概の仕事は匿名で受けているらしく、その足取りを追うことは第三特殊任務部隊《レイリス》の力を持ってしても容易ではなかった。各地の大型天魔やWRUの魔術兵器などを次々に撃破していく様から、事情を知らない賞金稼ぎや光王庁からは密かに『最後の魔術兵器』と呼ばれているらしいとフィラはキースから聞いた。リサがその名をどう思っているのかは、音信不通となってしまった今では確かめる術はない。
カイはそんなリサを追いかけて聖騎士団を辞めてしまった。魔術を使った戦術しか頭に入っていないから、サーズウィアが来てしまった後に僧兵を率いて戦うことは出来ない、後進に道を譲りたいというのがその理由だ。カイらしくない責任の放り出し方に中央省庁区ではずいぶんと評判を落としたらしいが、ランティスの話によるとリサと合流するわけでもなくグロス・ディアを目指す探索船に乗ったというので、もしかしたら何か考えがあるのかもしれないとフィラは思っている。
レイヴン・クロウはリサとは行動を共にしていないようだ。キースが調べてきたところでは、賞金稼ぎギルドの運営の方に潜り込もうとしているらしい。何が狙いなのかはわからないが、聖騎士団に対立するつもりはなさそうなので様子を見る、と報告を受けたフランシスは判断したらしい。詳細は機密情報だからと教えてもらえなかったけれど、あんな生き方をしていた彼が今も生きているのだと思うと、フィラは少しほっとする。
フィアは聖騎士団で第三特殊任務部隊《レイリス》として働いているらしい。サンディの話によると、実質的にはほぼフランシスの秘書だ。その傍ら、竜化症の治療に関する研究も進めているらしい。サーズウィアが来たことで竜化症が進行することはなくなったため、徐々にではあるが完治も可能だということは既に実証されていて、今はそのスピードをどうやって早めるか、どうやって治療中の生活の質を向上させるかというところが焦点になっているらしい。竜化症の治療には失われた魔術を使う必要があるため、サーズウィアの後に残された魔竜石をどれだけ治癒魔術の部門に回せるかというところも含めて、フィアの仕事はまだまだ山積しているようだ。
フランシスの方はと言えば、聖騎士団団長として天魔やWRU旧政府が放った魔術兵器の残党狩りに奔走している。聖騎士団が培ってきてジュリアンが組織化した天魔狩りの手法を応用し、魔術を使わない兵器を多数の僧兵で運用する戦術によって大きな功績を挙げているらしい。あのお坊ちゃんはどうやら個々人の能力に左右される魔術戦よりも兵器を使った組織戦の方が強いみたいだというのがランティスの評価だった。魔術工学部門が縮小され、連動して他の部門も不振に陥ったフォルシウス財閥の解体にも一枚噛んでいるらしく、「超人的な働きはしていらっしゃいますけどね……」とフィラの様子を見にユリンを訪れたフェイルが何故か呆れたように言っていたのが印象的だった。
ランティスとフェイルは変わらず聖騎士団の一員として働いている。ランティスは魔術の知識を買われて光王庁と化学工学部門の橋渡しを、フェイルは魔術の消失で大きく動くことになった人事を主に担当し、少しでもサーズウィアが来たことによる悪影響を軽減しようと休む間もなく動いている。ジュリアンの行方を聞くために二人でユリンへ来てくれたことが一度だけあったけれど、何度もそんな無理を通すことは出来ないので、それ以降は機密情報のやりとりが出来る城の専用回線を借りて様々な情報交換をすることになった。新しく来た領主――今では知事と呼ばれている役職に就いているラインムントの協力も得て、宙に浮いてしまったフィラの身分をどうにか取り戻そうとしてくれているところだ。
もちろん、ランティスとフェイルはフィラの証言を元にジュリアンの捜索もしてくれている。しかしグロス・ディアとの通信は未だ途絶えたままなので、ジュリアンの行方もやはりわからないままだ。一つ希望があるとするとグロス・ディアに渡ったカイからの連絡だけれど、それも通信衛星が打ち上げに成功するまでは連絡を取り合う手段がないということで、あまり期待はしないでほしいとフェイルから言われている。
ダストの行方はわからない。WRU新政府の正当性を主張するため、ダストが最後の任務で向かったという研究塔も非人道的な実験が行われた施設として監査が行われた。その調査結果をキース経由で手に入れたランティスから、少なくとも死んだ証拠はないと聞いているけれど、それはつまり生きている証拠もないということだ。ただ、それを語ったランティスの晴れ晴れとした表情から、ダストの死を予感させる気配は感じなかった。
実質的に国家のトップに立ってしまったランベールは以前にも増して多忙な生活を送っている。光王庁から国家として承認されたWRU新政府との外交や、荒神の消滅でようやく復活し始めた他大陸との外交を結ぶために、セレスティーヌを伴って各地を飛び回り、通信会議にも出席しているとよくニュースで名前を見かける。まだ空にも海にも大型の天魔がうようよしているので他の大陸に直接赴くことは出来ないが、少しずつ大陸間の通信も回復しているし、天魔の駆逐が進めばいずれ民間の旅客機も空を飛ぶことになるだろう。そうなれば光王庁の外交関係も一気に広がるに違いない。
エリックは多忙なランベールを支える傍ら、フィラの面倒も見てくれている。フィラが身分を取り戻した後、親のない子どもを支援するレイ家の基金で音楽学校へ入れるように手配してくれることになっていて、そのための説明や手続きで何度かユリンへも足を運んでくれているのだ。ランベールとセレスティーヌの日々の近況を伝えてくれるのもエリックだった。ランベールが料理を作る暇もないと嘆いているとか、セレスティーヌがファーストレディーとして表舞台に立つようになったことをきっかけにまた人前で歌うようになったとか、とても忙しそうではあるけれど、その様子を話すエリックが楽しそうなので、二人も充実した日々を過ごしているのだろう。
エディスやエルマー、ソニアとレックスといった酒場の面々は、相変わらずの日々を過ごしている。ユリンは観光産業に力を入れ始めたが、サーズウィアの影響が落ち着くまでは観光に来る余裕のある層など限られているだろうし、そもそも彼らは自分の生活を変えるつもりはないようだ。ソニアは花屋の手伝いを続け、レックスは法律の改正で以前より少し狭くなった狩猟場での狩りを続けている。夕方には皆で酒場に集まり、ニュースや噂話を肴にして遅くまで語り合う。時には椅子やテーブルを隅に除け、フィラにピアノを弾かせて踊り回ることもあった。もともと町を守る結界を除いては魔術の恩恵をほとんど受けていなかったユリンの町の生活は、サーズウィアが来た後もあまり変わることなく、滞りなく流れている。
ユリンの町での最近の大ニュースは、バルトロが空を飛んだことだ。バルトロは自ら設計した複葉機で中央省庁区までの往復飛行に成功し、一躍町の人気者となった。喜んだ町の人々は、資材と労力を持ち寄って、町の東の草原に広大な飛行場を作ってしまった。複座型で安定した飛行ができる二代目ももうすぐ完成するともっぱらの噂で、町の人々は誰が最初に乗せてもらえるかと、日々白熱した議論を戦わせている。バルトロはすでに最初に乗せる人を決めているという噂もあり、バルトロが酒場に訪れるたびに、皆でその幸運な人間は誰なのかと質問攻めにする毎日だ。
フィラはといえば、来年秋のリラ教会立音楽院入学試験に向けて、旅の間にすっかりなまってしまったピアノの腕を取り戻すべく、毎日猛特訓に励んでいる。あと一年あるとはいえ、目標が出来て俄然やる気を増したアメリはスパルタで、ついていくのがやっとだ。昼間は城の礼拝堂に通ってピアノを練習し、忙しくなってくる夕刻には酒場に戻ってエディスを手伝う。ソニアやレックスやバルトロといった馴染みの面々も毎日欠かさずに顔を出し、夕刻の踊る子豚亭はいつでも賑わっていた。
最近の話題はバルトロの二代目の飛行機がいつ完成するのかということばかりだが、時々工房に遊びに行くフィラは飛行機が実はとうの昔に完成しているということを知っている。
青空に映えるようにと真っ白に塗られたその機体は、大空へ飛び立つ日を飛行場の隅の小屋の中でひっそりと待っているのだ。
バルトロが処女飛行《メイデン・フライト》にふさわしいと考える、『良き日』を。
そして、その日はやって来た。
ピアノの練習が終わってから工房へ寄ったフィラに、屋上で空を見上げていたバルトロはこう言った。
「今夜、決行する。戻ってくるのは明日の朝だ」
まさか処女飛行《メイデン・フライト》に夜間飛行を選ぶとは思っていなかったけれど、バルトロの横顔が確信に満ちているからフィラは何も言えない。バルトロの視線の先には、黄金色に輝く黄昏の空が広がっていた。その輝く空を、工房の屋上を、フィラの髪の間を、暖かく穏やかな風がゆったりと通り抜けていく。
「良い風だ。明日は最高の一日になるぞ」
サーズウィアが来てから一気に十五歳くらい若返ったバルトロは、最近のフライトですっかりゴーグル焼けした顔に満面の笑みを浮かべた。
「見送りよりも出迎えが欲しい。明け方、着陸出来るように戻ってくる予定だが、暗いうちに来れるかね?」
「もちろんです。張り切って早起きしますよ」
フィラは勢いよく頷く。気合いの入った台詞にバルトロは弾けるような笑いで応え、よく言ったよく言ったとフィラの頭を撫で回した。
「いいかいフィラ。誰にも内緒で、一人で来るんだよ」
「どうしてですか?」
乱れた髪を片手で直しながら小首を傾げるフィラに、バルトロは悪戯っぽい笑みを向ける。
「それは秘密だ。とにかく、寝坊だけはしないように」
そういうわけで、フィラはまだ星空を眺められる時刻に起き出し、飛行場がある東の草原へやって来たのだった。
白み始めた空に薄くかかった雲が夜明けの光を乱反射して、フィラの目に映るすべての世界を黄金色に染め上げている。地平線をかすませる靄も仄かに漂っていて、空気そのものが発光しているかのような錯覚を覚える。世界を光が満たしている。
バルトロが予言した最高の一日が、もうすぐ始まる。予感に胸が震えていた。
穏やかな風が頬を掠めて、町の東へと吹き過ぎていく。風の行方を追うように視線を上げたフィラは、バルトロの複葉機が大空を渡ってくるのを見つけた。真っ白な飛行機は朝の光を弾きながら、ゆったりとした速度で町の東から飛行場へ向かって飛んでくる。
飛行機の向こうの地平線には、真っ白な光線が走っていた。太陽の最初の光を予告する明るさ。もうすぐ夜が明ける。
フィラが滑走路から少し離れた場所で立ち止まると、バルトロの飛行機は位置を定めるように旋回し、真っ直ぐ滑走路へと下降し始めた。こちらへ向かう機体が少しずつ大きくなってくるのを、フィラは不思議な気持ちで見つめ続ける。
滑走路に降り立った飛行機はゆっくりと減速し、真っ白な機体の細部までが見分けられるようになってくる。その間にも、夜はゆっくりと朝の光で満たされて、明るい青に染まっていく。
地平線の彼方から暁の最初の光があふれ出し、薄明かりの中でまどろんでいた世界を一気に鮮やかな色彩で染め上げた。その光の中で、飛行機は動きを止める。
複座型複葉機の前部座席で誰かが立ち上がった。見慣れた黒いコート。一気に飛行帽とゴーグルを外し、乱れた金髪を手早く結び直すどこか優雅な仕草。その動きの一つ一つを、後部座席を振り返るその速度さえ、何もかも思い出せる。いつの間にこんなにこの人に馴染んでしまっていたのだろう。
思わず駆け寄りたくなるけれど、大きすぎる喜びと、近付いたら蜃気楼のように消えてしまうんじゃないかという不安とで、足が震えて動けない。
そのひとが顔を上げて、真っ直ぐフィラを見る。
「ジュリアン」
小さく名前を呟いた瞬間に、足下が浮き上がるような心地がした。心臓の音が耳元でどくどくと鳴り響く。他のものがなにも目に入らなくなる。すべてが懐かしいのに、初めて出会った人を見るような緊張感が全身を支配している。
ジュリアンは後部座席のバルトロと何か短い言葉を交わし、飛行機の上から飛び降りてフィラの方へと歩き始めた。ジュリアンが充分遠ざかったのを見て、バルトロがフィラに向かって手を振る。はっとして顔を上げると、バルトロは日焼けした口元から真っ白な歯を見せて笑いかけながら親指を立て、スターターを回した。エンジンの音がもう一度夜明けの静寂を破って大気へ広がり、飛行機はユリンの町の皆が総出で整備した草原の滑走路を加速していく。
――幻じゃない。ちゃんと。
近寄ってくるジュリアンの姿に確信を得て、フィラは走り出した。その側まで駆け寄ると、ジュリアンは何も言わずにフィラの肩を抱いて遠ざかる飛行機へ視線を向ける。寄り添いながら飛行機が空へと飛び立っていくのを、二人で見守った。バルトロの飛行機は滑るように大地を離れ、少し昇ってからゆっくりと右方向へ旋回を始める。白い機体が昇り始めた朝日を弾いて輝く。
それは壮大な光景だった。
夜明けの光に青く染まっていく果てのない蒼穹を、白い飛行機は輪を描くように飛ぶ。大海原のように風に波打つ草原は、遙か地平線の彼方まで続く。大気を発光させていた朝靄が晴れて、今はもう視界を遮るものは何もない。
空と草原だけが、果てしなく、どこまでもどこまでも広がっている。
青空に大きな円を描く飛行機を目で追い続けていたフィラは、ジュリアンがいつの間にかこちらを見下ろしていたことに気づいて、その瞳を見つめ返した。朝日を頬に受けて、ジュリアンは穏やかな微笑を浮かべている。
草原を風が揺らす。潮騒を思わせる静かなざわめきが、遙か地平線の彼方まで遠ざかっていく。
柔らかな光に目を細めながら、フィラは笑った。
「おかえりなさい」
穏やかな喜びに満ちた声を、風が運ぶ。青空の色の瞳を覗き込む、この瞬間の幸福をずっとずっと待ちわびていた。
「ただいま」
同じ笑顔を返してくれたジュリアンに手を伸ばす。その胸に顔を埋める一瞬前に、彼の肩の向こうに月が見えた。
魔法でも幻でもない、陽光に青く染まっていく空に消え残ったそれは、もうすぐ本物の真昼の月になる。
fin.